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恋愛映画の夢と幻16 『明暗』と『新明暗』 映画ではなく‥

2019-01-22 09:16:40 | 日記
A.永井愛作「新明暗」という舞台
 「恋愛映画」ということで、今まで見た映画から思いつくままにとりあげてきたが、当初10本ぐらいと思っていたのが、もう15本になった。そろそろやめようかとも思っているが、漱石の「それから」を出したので、ついでにもう一本漱石作品のスピンオフをとり上げたい。ただしこれは映画ではなく芝居である。夏目漱石の映画化作品としては、娯楽作の『坊っちゃん』と人気作『こゝろ』はいくつか映画になっている(市川崑や新藤兼人などの監督作)し、『吾輩は猫である』も一度市川崑が仲代達矢の苦沙味先生役で撮っている(伊丹十三の美学者迷亭はヒューモア溢れる名演!)が、森田芳光の『それから』以外は記憶にない。『三四郎』はたしかNHKのテレビドラマで一度見た記憶があるし、『門』もテレビで加藤剛と星由里子でやっていたが、漱石の最後の未完の長編小説『明暗』は映画でもテレビでもやっていないはずだ。何しろこれは、漱石の死によって途中で終っているから、結末がないドラマは映画もテレビも手がつけられなかった。文豪といわれる漱石と鷗外の作品(鷗外は『舞姫』と『阿部一族』の映画化はある)は、恋愛をテーマとした作品も奥が深いのでなかなか映画にはしにくい。そこで、そのままではなく、『明暗』に新解釈で現代を舞台に結末を戯曲にした永井愛の『新明暗』という舞台があるので、それをあえてとり上げたい。

■ 永井愛作・二兎社公演「新明暗」世田谷パブリックシアター
 夏目漱石の最晩年の到達点といわれる未完の小説「明暗」を、ぼくは2度読もうと思って買ったのだが、結局途中で放り出していた。「津田が・・」「お延が・・」というきわめて日常的で世俗的な出来事が長々書き連ねられている小説は、志賀直哉や藤村のような退屈で長ったらしい私小説と同じような気がして、我慢できなかったのだ。大正5年5月から朝日新聞に連載され作者の死によって中断された小説。今回、この芝居を見て、目から鱗が落ちたように新鮮だった。「明暗」ってこんな話だったのか、どうして今までそれに全然気がつかなかったんだろう、と不思議だった。それから、もう一度小説を読んで、漱石の死で結末が書かれなかったため、真犯人が明かされない推理小説のように謎めいて、多くの議論を呼んできた事を知った。ぼくはいったい何を読んでいたんだろうと不明を恥じた。
 それから、水村美苗が「季刊批評」に連載していた漱石の文体をそのままに書いた「續明暗」というデビュー作があったことを思い出し、引っ張り出して読んでみた。う~ん、なるほど。永井愛も水村美苗もさすがにいい所に目をつけている。この「新明暗」は、設定こそ現代にしてあるが、筋書きも登場人物もほぼ漱石の原作に忠実に、効果的な装置と回り舞台を活用して場面転換をスピーディに追っていく。
 津田由雄は大手商社の若手エリート。都内の高級マンションで、延子との新婚生活を始めたばかり。延子は重役・吉川の親友の娘。恋愛結婚には違いないが、将来の重役ポストへの足固めだと噂されている。由雄の目下の悩みは悪化した痔。とうとう医者に手術を勧められ、とたんに不安にかられる。この肉体はいつ、どんな急変に襲われないとも限らない。精神だって同じだろう。だいたい、なぜ自分は延子と結婚する気になったのか?かつての恋人清子にフラれたから?じゃあ、なぜ清子は他の男と結婚してしまったのか?「暗い不思議な力が自分を支配している」由雄はそんな考えにとりつかれだした。延子もとっくに不安を抱えていた。新婚だというのに、もう夫は謎に包まれている。会話を避け、すぐ自室に引っ込んでしまうのはなぜ?
 結婚を機に人材派遣会社を退職した延子は、さらなるキャリアアップを目指して充電中。専業主婦になってどんなに尽くしても、いずれは夫に軽んじられる。「愛の相撲取り」延子の理想は唯一絶対の存在として愛し、愛される夫婦関係。その実現のためには、夫と対等に向き合えるような社会的存在でありたかった。だが、もうすでに二人はコミュニケーション不全に陥っている。延子は由雄が何か重大なことを隠していると勘ぐり、由雄は延子が何かを探ろうとしていると警戒した。
 二人はマンションのローンも重く、その返済をめぐっても、腹の探り合いが続いていた。その上面倒なことに、二人は敵だか見方だかわからない人びとに囲まれていた。吉川夫人は夫の優秀な部下として、由雄が大のお気に入り。だが、行為を超え、すべてを支配しようとする夫人の欲望も、由雄は敏感に察知していた。夫人はなぜか延子を嫌い、清子のことをほのめかして由雄を刺激する。由雄の妹、秀子もなぜか延子を嫌っていた。
 大学時代の友人小林という男も、由雄にはやっかいな存在だった。ルポライターを自称し、怪しげな職業を転々としている小林は、由雄のエリート意識を罵りながらつきまとう。由雄の入院、手術、退院と日を追うにつれ、これらの人間関係は由雄と延子を翻弄した。吉川夫人、秀子、小林の言動から、延子は由雄に忘れられない女がいると確信する。一方、由雄は吉川夫人に煽られ、流産した清子が宿泊中の温泉宿に向かう。清子に会い、なぜフラれたのかを聞き出そうというのだが・・。
 最後に温泉で清子に出会った所で、漱石は死んでしまったが、永井愛はちゃんと結末を書いた。推理小説の結末をバラすことになるが、なるほどと納得してしまった。小説としては水村美苗の方が漱石の文体を引き継いで綿密だし、丁寧だが、「新明暗」は現代にしたぶん明確な感動がある。
 1916年、大正5年の東京に生きる学歴や地位に恵まれた津田という男の頭を占領しているのは、基本的に21世紀の現代に生きている普通のサラリーマンそのものである。というよりも近代化された社会の日常を生きている人間の、共通項としての精神の課題を既に大正5年にしっかり小説にしていた夏目漱石の凄さ!に驚かないといけない。さらに、それが問題にしていることが、当時の男にも女にもよく理解されていなかったことも確かだ。漱石の弟子たちは、漱石が何か崇高な哲学「則天去私」に到達していたはずだ、というところから勝手に見当違いな解釈をして満足した。50年後の江藤淳はそれを指摘したけれども、「明暗」の結末はさらに30年ほど経って女性作家によって書かれるまで見つからなかった。
 津田の存在は清子によって否定された、というテーマが姿を現し、その探求が津田自身によって逡巡しながらも行われる。津田の「あなたはどうしてぼくを捨てたんですか?」という問いは、根源的なものになると同時に、きわめて日常的でありふれた問いでもある。わざわざその答えを聞くために遠くまでやってきた津田を清子はどう扱うのか?規範や道徳や約束や契約や、人間が社会生活で考慮すべき面倒な枠組みの中で、津田のような男は自分の利害とエゴイズムを巧みに調整し実現していくことに自信をもっている。いわば世間をうまく渡っていける、と思っているエリート男だ。そういう男が「うまくいく」はずの女によって否定される。それが津田にリアルを露呈させる。では、清子は何を考えているのか?あるいは妻の延子は?
 「ぼくを捨てた理由」を問うという行為は、「ぼくは君に何を求めたのか?」という問いと対になっており、彼女にとっては「あなたを捨てた理由」とは「あなたに何を求めていたのか?」という問いでもある。個として近代に向き合って生きるということは、こういう問いを逃げないで問い続けることなのだ、ということになる。それを問いに来た男に会って、女は覚悟を決めて逃げない。なぜ?それは他の誰でもない自分を選んでくれたことへの責任というものだろう。そして他の誰でもないあなたを選んだ自分への責任でもある。女は男をもう一度受け容れようと風呂場で待ってるから来てと言う。ところが男は必ず行くと言いながら、怖くなってこそこそ正念場で逃げ出してしまう。責任を取ろうとしない男が、いつも言い訳に使うのが世間、国家、国益、民族の大義であるのは救いようがない。清子は最後にはっきりと、あなたがそういう人だから私は捨てたの、と言って去る。
 漱石だったらどう書いただろうか?きっともっと中途半端だったろう。「それから」の長井代助のように。水村美苗の「續明暗」では清子に去られ妻の延にも見つかって、ぶざまにぐじぐじ居直る津田にしてある。さすが、女の視線は厳しい。でも、ぼくもこの結末を書いてみろといわれたら、ちょっと苦しい。それはぼくが男だからなのだろうか?世間や社会のしがらみを脱ぎ捨てるには、厄介なものを重く抱えていると思っているからだろうか?それとも自分にも他者にも、息詰まるような激しい関わりをもつ気力や意欲をすでに失っているからだろうか?
21世紀の現在も、あきれるほど沢山の恋愛小説やラブ・ストーリーが消費されているけれど、ほとんどの物語は2人の作る世界とそれ以外の世界を分け、2人だけの閉じた恋愛空間がそれ以外の世界と背中を向け合っている。いわば逃避の巣を女も男も恋愛に仮構している。しかし恋愛空間は必然的に変質していくので、回転ドアのように3人目の外部世界と往復することになる。すると、通俗的には2つしかパターンがない。恋の終わりを諦観で締めくくるか、よりめざましい恋に突進するか。でもどちらも嘘である。「明暗」が際立つのは、そういう安易な道を捨てて、恋自体を問うからだと思う。



B.またも柄谷先生ではあるが…
 江藤淳が文芸評論家としてデビューしたのは「夏目漱石」論だった。その後も、小林秀雄論や米国での経験を経て、まだエリクソンのアイデンティティという概念が日本では未定着だった頃の『成熟と喪失』で、大学生だったぼくは非常に大きな示唆を受けて江藤淳を片端から読んだ。あの頃、みんなが読んでいた吉本隆明をぼくも随分読んでいたのだが、その後『漱石とその時代』の評伝3部作で、作家になる前の漱石にさらに興味を持って、吉本からは徐々に離れた。政治的立場は、吉本と江藤はかなり距離があったし、80年代になると江藤淳は保守派の論客としてさまざまな活躍をしていた。江藤の言うことは、60%はよくわかったが、あとの40%のもとにある戦後への否定的立場が、どうも違和感があった。その頃やはり夏目漱石論で登場したのが柄谷行人で、ぼくはまた新たな漱石の読みに目を開かされた気がして、江藤から離れていった。少なくとも漱石論では、柄谷行人の言うことの方に説得力があるように今も思う。

 「『明暗』は、大正5(1916)年に朝日新聞に連載され、漱石の死とともに終わった、未完結の小説である。これが未完結であることは、読むものを残念がらせ、その先を想像させずにおかない。しかし、『明暗』の新しさは、実際に未完結であるのとは別の種類の“未完結性”にあるというべきである。それは、漱石がこの作品を完成させたとしても、けっして閉じることのないような未完結性である。そこに、それまでの漱石の長編小説とは異質な何かがある。
 例えば、『行人』、『こゝろ』、『道草』といった作品は、基本的にひとつの視点から書かれている。わかりやすくいえば、そこには「主人公」がいる。従って、この主人公の視点が同時に作者の視点とみなされることが可能である。しかし、『明暗』では、主要な人物がいるとしても、誰が主人公だということはできない。それは、たんに沢山の人物が登場するからではなく、どの人物も互いに“他者”との関係におかれていて、誰もそこから孤立して存在しえず,また彼らの言葉もすべてそこから発せられているからである。
“他者”とは、私の外に在り、私の思い通りにならず見通すことのできない者であり、しかも私が求めずにいられない者のことである。『明暗』以前の作品では、漱石はそれを女性として見出している。『三四郎』から『道草』にいたるまで、きまって女性は、主人公を翻弄する。到達しがたい不可解な“他者”としてある。文明批評的な言説がふりまかれているけれども、漱石の長編小説の核心は、このような“他者”にかかわることによって、予想だにしなかった「私」自身の在りよう、あるいは人間存在の無根拠性が開示されるところにあるといってよい。だが、それらの作品は、結局一つの視点=声によってつらぬかれている。
 『明暗』においても、津田という人物にとって、彼を見捨てて結婚してしまった清子という女は、そのような“他者”としてある。しかし、この作品はそれほど単純ではない。たとえば、お延にとって、夫の津田がそのような“他者”であり、お秀にとって津田夫妻がそのような“他者”である。
 注目すべきことは、それまでのコケティッシュであるか寡黙であった女性像、あるいは、一方的に謎として彼岸におかれていた女性像に対して、まさに彼女らこそ主人公として活動するということである(最後に登場する清子にしても、はっきりした意見をもっている)。さらに注目すべきなのは、これらの人物のように「余裕」ある中産階級の世界そのものに対して、異者として闖入する小林の存在である。『明暗』の世界が他の作品と異なるのは、とくにこの点である。いいかえれば、それは、知的な中産階級の世界の水準での悲劇に終始したそれまでの作品に対して、それを相対化してしまうもう一つの光源をそなえている。
 さらに、このことは、津田が痔の手術を受ける過程の隠喩的な表現にもあらわれている。それは、たんに、津田の病気が奥深いもので「根本的の手術」を要するという示唆だけではない。たとえば、彼の病室は二階にあるが、一階は性病科であり、「陰気な一群の人々」が集まっている。そのなかに、お秀の夫も混じっていたこともある。それは、津田やお延、あるいは小林が求める「愛」とは無縁な世界であり、津田の親たちの世界と暗黙につながっている。
 このように『明暗』には、多種多様な声=視点がある。それは、人物たちののっぴきならない実存と切りはなすことができない。つまり、この声=視点の多様性は、たんに意見や思想の多様性ではない。『明暗』には、知識人は登場しないし、どの人物も彼らの生活から遊離した思想を語ったりはしない。むろん彼らが“思想”をもたないわけではない。ただ彼らは、それぞれ彼ら自身の内奥から言葉を発しているように感じられる。その言葉は、何としても“他者”を説得しなければならない切迫感にあふれている。もはや、作者は、彼らを上から見おろしたり操作したりする立場に立っていない。どの人物も、作者が支配できないような“自由”を獲得しており、そうであるがゆえに互いに“他者”である。
 明らかに、漱石は『明暗』において変わったのである。だが、それは、小宮豊隆がいうように、漱石が晩年に「則天去私」の認識に到達し、それを『明暗』において実現しようとしたから、というべきではない。「則天去私」という観念ならば、初期の『虞美人草』のような作品において露骨に示されている。そこでは、「我執」(エゴイズム)にとらわれた人物たちが登場し悲劇的に没落してしまうのだが、彼らは作者によって操作される人形のようにみえる。
 『明暗』において漱石の新しい境地があるとしたら、それは「則天去私」というような観念ではなく、彼の表現のレベルにおいてのみ存在している。この変化は、たぶんドストエフスキーの影響によるといえるだろう。事実、『明暗』のなかで、小林はこう語っている。

 「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賤であらうとも、又如何に無教育であらうとも、時として其人の口から、涙がこぼれる程有難い、さうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のやうに流れ出して来ることを誰でも知っている筈だ。君はあれを虚偽と思ふか」
 小林のいう「至純至精の感情」は、漱石のいう「則天去私」に似ているかもしれない。しかし、ドストエフスキー的なのは、そのような認識そのものではなく、そう語る小林のような人物そのものである。小林は、津田やお延に対して、「尊敬されたい」がゆえに、ますます軽蔑されるようにしかふるまえない。傲慢であるがゆえに卑屈となり、また、卑屈さのポーズにおいて反撃を狙っている。彼の饒舌は、自分のいった言葉に対する他者の反応に絶えず先回りしようとする緊張から生じている。
 これは、大なり小なりお延やお秀についてもあてはまる。彼らは、日本の小説に出てくる女性としては異例なほど饒舌なのだが、それは彼らがおしゃべりだからでも、抽象的な観念を抱いているからでもない。彼らは相手に愛されたい、認められたいと思いながら、そのように素直に「至純至精の感情」を示せば相手に軽蔑されはすまいかという恐れから、その逆のことをいってしまい、しかもそれに対する自責から、再びそれを否定するために語りつづける、といったぐあいなのである。彼らの饒舌、激情、急激な反転は、そのような“他者”に対する緊張関係から生じている。いいかえれば、漱石は、どの人物をも、中心的・超越的な立場に立たせず、彼らにとって思いどおりにならず見とおすこともできないような“他者”に対する緊張関係においてとらえたのである。
 『明暗』がドストエフスキー的だとしたら、まさにこの意味においてであり、それが平凡な家庭的事件を描いたこの作品に切迫感を与えている。実際、この作品では、津田が入院する前日からはじまり、温泉で清子に会うまで十日も経っていない。人物たちは、何かがさし迫っているかのように目まぐるしく交錯しあう。われわれが読みながらそれを不自然だと思わないのは、この作品自体の現実と時間制のなかにまきこまれるからである。そして、この異様な切迫感は、客観的には平凡にみえる人物たちを強いている、他者に対する異様な緊張感に対応している。」柄谷行人「作品解説「明暗」」『新版漱石論集成』岩波現代文庫、2017.pp.358-363. (原著「新潮文庫」解説は、1985年11月記となっている)。

 『明暗』という作品が、いろんな意味で夏目漱石の到達点(たんに作者の死によって未完に終わった最後の作というだけではない)であったというのは、この解説でもよく解る。日本の文学史に残る小説家の多くは、若い時に西洋のキリスト教文化(自然主義からマルクス主義までを含む)に触発され、清新な作品で世に出るが、中年以降しだいに特殊日本的な要素を強め、晩年になるとナショナリズムや天皇制に愛着を示す保守的な傾向に固まっていく人がかなりいる。それを文学的な深まった境地とみる場合もあるが、ぼくは一種の老年の衰弱だと思う。鷗外の晩年の史伝は、そういう衰弱とは別の世界だとは思うが、夏目漱石の場合はむしろ絶えず進化して、最後まで衰えどころか方法と内容の革新を追求していたと思う。

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