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戦争責任と戦争体験のこと・・大岡昇平

2014-09-15 17:48:12 | 日記
A.キリスト教と戦争
「北の国から」などで知られる脚本家・倉本聰さんの父親は、俳人でクリスチャンの山谷太郎という人で、戦争中の1942年1月に信濃町教会の月報に「決戦下に於ける伝道」と題する一文を書いて投稿した、という。文中に「戦争は罪悪である」とあったため、当時の牧師が四谷署で特高から事情聴取を受け、山谷も拘留されたという出来事が、今日の『東京新聞』朝刊1面トップでとりあげられていた。その中に、戦時下の国の宗教統制政策が強まり、敗戦1年前の1944年9月に神道、仏教、各種新興宗教、そしてキリスト教の宗教者が団結して戦争に協力する翼賛団体「大日本戦時宗教報国会」が設立された、とあった。
 いかなる個人の信仰にかかわらず(信仰の自由、それは国家に逆らわない限りで認められていたが)、天皇を神と崇め、式典では君が代を歌い、皇居遥拝を義務付けた。クリスチャンも礼拝のとき、皇居の方角に向かって拝み、教会の最前列には、祈りもせず賛美歌も歌わずに信徒を見張る特高警官がいたという。神社参拝を拒んだり、反戦的言動をすれば、摘発された。大日本戦時宗教報国会は、勤労動員が可能な信徒の名簿を政府に提出したり、戦費捻出に協力したりもした。
 そこにコメントを寄せた小樽商科大荻野富士夫教授の説明によれば、悪名高い治安維持法(1925年成立)は、当初「国体変革」つまり国家転覆・革命を策する社会主義者や共産主義者の取り締まりを目的としていた。それが日中戦争が本格化する1936年ごろからは、西洋起源のキリスト教弾圧へと矛先が向いた。英米を仮想敵とみるようになると、アメリカなど外国とつながりの強いミッション系にスパイがいるという疑いがかけられ、治安維持法も1941年に大改正され、拡大解釈や予防拘禁も警察の判断でできるようになった。
 1940年に宗教団体法が宗教団体を認可制にした。このような圧力のもとで、1941年6月プロテスタント30諸派が集まって「日本基督教団」が設立され、カソリックも日本天主公教教団に統合される。その前年1940年の紀元2600年記念祭では神武天皇即位を寿いでキリスト教関係者も祝典に多数参加していたという。キリスト教徒であることと帝国臣民であることの矛盾を信仰という次元で問われる事態が続き、教団存続のために戦争協力を余儀なくされたわけだ。その場合、神とイエスと聖書の言葉を信じることと、皇居を拝むことはいかなる理由で両立できたのか、いくつか解釈はできる。いうまでもなくキリスト教における神は唯一ヤハウェしかない。だから天皇は聖書にも多く登場する世俗の権力者・王と同じであって、この世では王の秩序に従っても構わない、というか従うのが神の導きにつながればよい、というのが一つ。でもこれだとどんどん戦争体制に迎合してしまう。
 もう一つは、人を殺し町を破壊する戦争は神に叛く罪悪であり、宗教者はこれを否定すべきだが、世界がそのような悪魔の支配にあるとき、神は必ずこれを罰するはずであり、その正義の実現を目的とする戦争も必要になるという立場。ここで今やっているのが「正しい戦争」と認めてしまうと、積極的に戦争協力も可能になる。
 いずれにしても、当時の若いクリスチャンにとっては、徴兵され戦場に出て人を殺すかもしれないという現実に置かれたわけだから、信仰はそのまま国家と向き合うことになっただろうし、実際戦場で死んだ人もたくさんいたであろう。彼らはこれが神とは無縁な「王の命令」に従っているだけ、と考えたか。あるいはこれが「正しい戦争」と信じて戦ったのか。どちらにしても苦しい合理化をしなければ、銃など取れなかったと思う。

 前に村岡花子と教文館のことを、このブログで書いたことがあったが、あのときは日本で明治以来布教につとめたプロテスタント諸派が、思うように一般の日本人への布教がすすまないので、教義上の相違を超えて大同団結したのが「日本基督教団」と書いてしまったが、そうではなく、戦時中に成立した「日本基督教団」(それは現在も日本のプロテスタントのなかで最大組織だが)が、内在的な理由よりも、日本政府の戦争遂行政策、宗教弾圧をかわすために作られた翼賛団体的なものから始まっている、ということをこの記事で知った。戦後、日本基督教団をはじめキリスト教徒の戦争責任については、いろいろな反省・検証が行われたことも少しは知っているが、詳しくはぼくは知らない。反省を込めて少し確かめた方がいいな。



B.大岡昇平の戦争
 戦争体験をもつ人がいなくなりつつあるなかで、少し前沖縄に修学旅行に行った高校生が、語り部の話を否定的な態度で聞いたことが問題になったことがあった。似たようなことをぼくも高校生と面接したときに感じた。戦争体験の継承といっても、それがどういう文脈のなかで受け取られるかで、意味するところはかなり違ってしまう。今の若い人たちがみな、戦争に関心がないとか、戦争の話はあきあきしている、ということはないだろうが、日本が負けた戦争への見方が長い間にステレオタイプなものになってしまって、そこには戦争の悲惨や愚劣への驚きや共感ではなく、一部の若者は、またその話か、もういいよ、というダレた気分でいたのかもしれない。そこのところに、右翼が戦争をそんな暗いイメージでみるのはもう古い、あの戦争は「悪い戦争」なんかじゃなかったんだ、それは左翼が意図的に作りだしたものだったんだ、という言説が吹き込まれた。それが最近の状況を作りだしているとしたら、この思想戦に左翼が対抗するには、もう一度戦争の「語り方」を再検討する必要があるだろうと思う。そのためには、直接の戦争体験を語る人は消えてしまうのだから、語りに頼るのではなく、被害者視点だけでもなく、まずは戦場体験を深く考え抜いて作品化した傑作を読むことから始めたい。

「私は私の前に現はれた米兵の露出した全身に危惧を感じ、その不用心にあきれた。この考へはすこぶる兵士的のものであり、短い訓練にもかかはらず、私がやはり戦ふ兵士の習慣を身につけてゐたことを示してゐる。この考への裏は「こいつは射てる」である。
 しかも私は射たうと思はなかった。しかしこれははたして事前の決意の干渉のためだつたらうか。もし私が戦闘意識に燃えた精兵であつたとして、はたしてこの優勢な相手(私の認知しただけでも一対三である)をただちに射たうとしたであろうか。
 この瞬間の米兵の映像から私の記憶にのこつた一種の「きびしさ」は、私の抑制が私の心から出たものではなく、その対象の結果であつた証拠のやうに思はれる。それは私を押しつぶさうとする厖大な暴力の一端であり、対するにきはめて慎重を要する相手であった。このとき私の抑制がたんなる逡巡にすぎなかつたのではないかと私は疑つてゐる。
 しかし彼が谷のむかうの兵士に答へ、私がその薔薇色の頬を見たとき、私の中で動いたものがあつた。
 それはまづ彼の顔のもつ一種の美にたいする感嘆であつた。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他われわれの人種にはない要素から成りたつ、平凡ではあるが否定することのできない美の一つの型であつて、真珠湾以来私のほとんど見る機会のなかつたものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあつた。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、敵前にある兵士の衝動を中断したやうである。
 私は改めて彼のいちじるしい若さにおどろいた。彼の若さは最初私が彼を見たときすでに認めていたが、今さらに数歩近づき、その前進する兵士の姿勢をすて、顔をあげてその全貌を現はしたとき、新しく私を打ったのである。
 彼の発したことばを私は逸したが、声はその顔にふさはしいテノルであり、いひをはつて、語尾をのみこむように、子供っぽく口角を動かした。そして頭をさげて谷のむかうの僚友の前方を、ななめにうかがつた(このとき彼がうかがはねばならなかつたのは、明らかに彼自身の前方であつた)。
 私は一人の放蕩者の画家を知つてゐた。彼は中年をすぎて一人の女子の父親となつたが、以来二十歳前の少女に情慾を感じないといつてゐた。自分の子供がこの年ごろになつたらかうなるだらうか、といふ感慨がじやまをして、彼が認めた感覚的な美にたいして、正常な情念が起きなくなつた、と彼は自分の感覚を説明した。
 この説明にはかなり誇張が感ぜられ、彼がじつさい常にその感覚に忠実であつたかどうか、私はあまり信用してゐないが、とにかく彼が一度か二度、こうした禁忌を感じたと思つたことはあり得ないことではない。
 私がこの米兵の若さを認めたときの心の動きが、私が親となつて以来、時として他人の子、あるひは成長した子供の年ごろの青年にたいして感じるある種の感動と同じであり、そのため彼を射つことに禁忌を感じたとすることは、多分牽強付会にすぎるであらう。しかしこの仮定は彼が私の視野から消えたとき私に浮かんだ感想が、アメリカの母親の感謝に関するものであつたことをよく説明する。明らかにこれは私のこの米兵を見てから得た観念である。その前私が射つまいと決意したとき、私の前にどういふ年齢の米兵が現はれるかは不明であり、私が母親について考慮する根拠は全然なかつたからである。
 人類愛から射たなかつたことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によつて彼を愛着したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。
 私は事前の決意がこのときの一連の私の心理に痕跡をとどめてゐないため、それが私の心と行為をみちびいたといふことは認めがたい。しかし偏在的な父親の感情が私に射つことを禁じたといふ仮定は、そのとき実際それを感じた記憶が少しもないにもかかはらず、それが私の映像の記憶にのこるある色合と、その後私をおとづれた一つの観念を説明するといふ理由で、これを信ぜざるを得ないのである。これがわれわれが心理を見つめて見いだし得るすべてである。」大岡昇平『俘虜記』1948.(現代日本文学大系85 『大岡昇平・三島由紀夫 集』pp.196-197.)

 戦争体験といっても、1945年最終段階の内地で、疎開で飢餓状態にあった少年少女の体験、町に残って空襲で逃げ回った人の体験、満州など植民地で敗戦により難民化した人々の体験、などは広島・長崎・沖縄戦に代表される悲惨な被害者体験である。これだけを聞くと、戦争は悲惨で苛酷なものだということはよくわかるが、なぜそんなことになったのか、には直接答えてくれない。ただもうやってはいけない、というだけだ。一方、戦争を外地の戦場で戦った人の体験、あるいは戦闘や軍隊生活の体験、敗戦後の捕虜、とくにシベリア抑留体験などは、同じ苛酷さといっても質が違い、年齢的にも女子ども年寄りではない、大人の男の体験である。その体験への向き合い方も、それぞれの年齢や置かれた場所や地位によって、まったく違う。
 大岡昇平は、戦争末期に妻子のある30代半ばで徴兵され、中年の一兵卒としてフィリピンで戦場をさまよい捕虜になった。敗戦の年の暮れに帰国するとすぐ、自分の戦場体験をこの『俘虜記』という作品に書いた。大岡は名もない庶民とはいえない経歴をもっていて、戦争中にすでにスタンダールの翻訳や研究で知られていたが、文学では食えないので帝国酸素という会社のサラリーマンだった。こういう人物が兵士として戦場に送られ、部隊が全滅する中で奇跡的に生還した、ということがこの作品の背景にある。これは日本文学にとって、僥倖だったかもしれない。そんな言い方はもちろん本人にとっては、ふざけんじゃねえ!というだろうが。

「戦争体験は、またいうまでもなく、多くの人々にとっての戦場体験でもあった。その戦場体験を生涯にわたって文学的な仕事の基礎とし、その意味で徹底した一貫性を示したのは、大岡昇平(一九〇九~八八)である。三〇年代から太平洋戦争にかけて、スタンダールStendhal関係の文献の翻訳をしていた大岡は、三五歳で召集されてフィリピンへ送られ(ミンドロ島、一九四四)、そこで上陸したアメリカ軍の俘虜となり(一九四五)、レイテ島の収容所で日本の降伏を迎えた後、帰国してから『俘虜記』を書いた(一九四六執筆、一九四八発表)。『俘虜記』は、孤立した敗残の小部隊の一兵士として著者が熱帯の山中を、もはや戦闘のためではなく、みずからの生存のために、彷った経験から始めて、俘虜となって後の収容所での見聞を詳述する。山中の生活は、ほとんど確実な死を目前に控えたという意味でも、物理的な条件の苛酷さという意味でも、極限の状況なのである。そこでは自然がかぎりなく美しくみえる。しかし実際に周囲で僚友がつぎつぎに死んでゆくようになると、突然「生還の可能性を信じ」(『大岡昇平全集』第一巻、一九七ページ)、一度生還の可能性を信じて「愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのはつまらない」と考えると、主人公の関心はもはや自然の美しさではなく、危機脱出の方法へ向う。いかに生き残るべきかという工夫にとっての自然は、与えられた条件の一つにすぎないからである。追いつめられた主人公の心理と行動を、冷静に反省的に、簡潔で正確な文体で描く『俘虜記』冒頭の部分は、太平洋戦争の戦場の経験が生みだした日本語散文のなかで、もっとも傑れたものの一つにちがいない。後半の収容所の光景の叙述は、所属集団の組織が崩れ去ったときの日本人の行動の証言であり、彼らにおいていかなる価値が内在化されていたかということの臨床的な記録でもある。職業的軍人でさえも、彼らの軍隊の秩序を信じていたので、その軍隊が解体した後に彼ら個人のなかに生き続けるような何らかの信念をもっていたのでもなかった。東京裁判について丸山の行った観察と、レイテ収容所において大岡の行った観察とは、幸か不幸か、見事に一致するのである。
 大岡は『俘虜記』から出発して、そのなかにも出て来る人間の肉を食う話を、小説『野火』(一九五一)で再びとりあげている。『俘虜記』の主人公は、殺せば殺せたアメリカ兵を、殺さなかったが、『野火』の主人公は、フィリピン人の女を射殺する。『野火』は『俘虜記』の実行されなかった選択肢を、人間の内面の問題として再検討した作品である、ともいえるだろう。その後に来るのが『レイテ戦記』(一九六七~六九)である。そこでは、著者自身が「あとがき」(単行本、一九七一刊)でいうとおり、『俘虜記』や『野火』が一兵士の立場からみたフィリピン戦場を、日米双方の資料を用いて、いわば鳥瞰的に描く。日本軍の戦没者がおよそ九万に及んだレイテ島は、フィリピンでの日米両軍の決戦場であった。そこでの「決断、作戦、戦闘経過及びその結果のすべてを書」き尽したのが『レイテ戦記』である(「あとがき」)。著者がその感慨を抑えて両軍の動きを叙する簡潔な文章の迫力は、ほとんどヴォルテールの戦記『シャルル十二世』を思わせる。しかもその叙述から次第に浮び上って来るのは、人間が全力を挙げて人間自身を破壊してゆく「戦争」という狂気そのものであり、その狂気にまきこまれて最大の犠牲を強いられる第三者=現地のフィリピン人の運命である。戦後二十年以上経って、大岡昇平は、『レイテ戦記』という『平家物語』以来の戦争文学の傑作を作った。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999. pp.511-513.

 戦争文学、戦争映画、は日本の戦後文化において、大きな意味をもっていたし、1970年代初くらいまで、すぐれた作品が多く作られた。それは何よりも「負けた戦争」について、日本人自身があれはいったい何だったんだろう?自分の親兄弟、友人や恋人、たくさんの人間が戦争のなかで傷つき死んでいったのを見ていたからだ。そして、戦争文学や戦争映画を見た人々は、あああれはそういうことだったのか、と何かを発見した。しかし、戦後30年を過ぎるころから、戦争をリアルに描き語る作品は敬遠され、戦争は他のエンタテイメントと同じレベルの、娯楽のネタや背景に過ぎないような作品が増えていった。思えば、そこから現在までは繋がっているのかもしれない。
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