gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

個人主義、自由主義、全体主義、国家主義・・しゅぎシュギっ!

2013-10-07 23:24:47 | 日記
A.「個人主義」だからダメになった、という言説の元は?
 ぼくが子どもとして育った環境には、イデオロギー的な発言を回りにまき散らして、若年者を殴ったり怒鳴ったり、感情的に自分の意見を押しつけるような人物は、ほとんどいなかった。いちおう東京の賑やかな場所だったし、うちの父や近くに住んでいた伯父たちの職業は、サラリーマンは誰もいなくて、モノを売ったり作ったりする商売人だったから、金儲けに忙しくてあんまり観念的なことを弄ぶ暇がなかったのか、それとも激しい戦争の時代を生き抜いてきた人たちだから、世の中を空虚なスローガンが飛び交うことには飽き飽きしていたのかもしれない。そもそも感情を表に出して、ぶつかりあったり罵倒したりという姿を見たことがなかった。いろいろ実はあったのかもしれないが、子どものまえでそういう姿を見せる人はいなかった。
 それがある夏、小学生のぼくは親に連れられ、山の中のような場所にある親戚の家に行った。そこは見たこともないような農家で、たくさんの子どもや大人が一緒に暮らしていて賑やかだが、みんな泣いたり笑ったり、ぶつかっては怒鳴り、叫び、親は子どもをひっぱたく世界だった。ぼくはびっくりしてしまった。ぼくも食卓で肘をついたというので、頭から叱られた。とにかく怖かった。その家の主は、だれかれとなく捉まえては、世の中を堕落させた悪しき風潮について、熱意を込めて語っているうちに昂奮してきて、反論したりからかったりする者に、物を投げつけるのであった。そういう人を見たことがなかったので、ほんとうに怖かった。
 そのときに聞いた言葉。「日本人は終戦後、みんな「個人主義」になってしまって、自由だ平等だと自分勝手に好き放題をくっちゃべっては権利だなんだと主張する。これも戦争に負けて、アメリカが日本人を駄目にしようとしたせいだ。神や仏様への信心も地に落ちてる。昔の日本のような神の国、天皇陛下のために死ぬという覚悟がなくなっちゃったのは、ほんとに情けない!義理も人情も消えた!」酒を飲みながら、こういうことをぶつぶつ呟いているおっさんを、家の者たちは、またやってらあ、と誰も相手にしないから、さらに彼はイラつく。
 なにか基本的な文化が違う世界に迷い込んでしまった気がした。でも、もっと後になって気がついたのだが、日本全体からみれば、こういう世界の方が多数派で、表立っては出てこないが、日本の根深いところで保守主義を支えている「演歌的」世界なのだ。そういえばカラオケが出はじめた頃で、演歌と民謡が大好きな人だった。
 「個人主義」が日本人をダメにした、という言説はいつ頃から普及するようになったのだろうか?ちゃんと調べたわけではないが、戦後に初登場したわけではなく、たぶん明治時代からちらほらあったのかもしれない。「個人主義」の対義語は何だろう?individualism に対するならholism「全体主義」だが、これは評判が悪いので保守派は使わない。nationalism「国家主義」というのが近いだろうが、「国家主義」という日本語もあまり評判は良くないので、「日本主義」「美しい日本」などと言うのだろう。でも、japonismでは、浮世絵になってしまうな。



B.あの世というアイディア
現世と来世、世俗と聖性、個体としての人間の生きる限られた時間と空間を超えて、神が創った世界にはこの世とあの世という2つがある、というアイディアはユダヤ教、キリスト教、イスラーム教に共通する。この世は汚れた世界であり、人間はそこで罪深い生活を送る。そしてこの世から去る時に最後の審判があって、神様が救ってくれたり罰を与えられたりする、というイメージ。もっとも「あの世」との往還という観念は仏教にあるし、その影響で日本の民間信仰にも当たり前にある。しかし、儒教には「あの世」という観念はなく、あくまで現世だけが問題だと考えているように思う。
 現世への否定的態度は、多くの宗教に潜む救済と天上の聖性への指向からくると考えられる。それはある宗教が登場したときに、それを抑圧し潰そうとする世俗勢力の憎悪を込めた圧力に、対抗するため始祖を含む初期教団が強い、憎悪を抱いたことで過激化する。キリスト教でも、イスラーム教でも、その憎悪は伝統的な血縁共同体、家族や近隣の粘着する感情的紐帯に向けられる。それが抑圧する共同体、現世の秩序そのものだからだ。信仰の証は、自分の血縁や部族の秩序から脱出し、神の前に一個人として立たなければならない、と教える。
 イスラームについて、このあたりのことを牧野信也『イスラームとコーラン』から引いてみる。

「メッカ時代において、イスラームの信仰、すなわち神に対する人間の関係は次のようなものであった。人間はそれぞれがこれまで結びついていた親子、兄弟、連れ合い、友達などのあらゆる繋がりから切り離され、ただ独りで神の前に立たなければならず、しかもそのとき神はこの上なく峻厳な正義の神として立ち現われ、人間にも完全に正義を行うことを要求する。しかし、人間はこれに応えることができず、このことから自分は全く罪深い存在である、という意識が生じてくる。そしてこのように罪深い人間は現世で様々な罪を犯し、悪を行うのであるが、やがて世の終りが来ると、裁きの座に引き出され、そこで神の怒りと罰を身に受けなければならない。ここに最後の審判の日における怒りの神に対する終末論的な激しい怖れの感情が起こるのである。
これぞこれ、人々怖れのあまり、もの言うこともできぬ日。言い訳したいにもお許しが頂けぬ日。
さ、その日、嘘だと言ってきた者どもこそ哀れなものよ。
これぞこれ、裁きの日、我ら、お前たちと遠い昔の人々を一つに集めてやったから、もし何か打つ手があるならば、いくらでもわしを騙してみるがよい。
さ、その日、嘘だと言って来た者どもこそ哀れなものよ。(77章35-40節)
人間ども、己が主を畏れかしこむがよい。父親も子供の役に立たず、子供も父親の役に立たぬ日を怖れるがよい。まこと、アッラーのお約束は必ず実現する。束の間の世に騙されるな。アッラーのことで、あの騙し上手に騙されるな。(31章32-33節)
さて、いよいよ最大の禍がやって来て、人々はみな己の努めて来たことを改めて憶い出す日となり、およそ目の見えるほどの者には地獄の姿がありありと見えてくるとき、そのとき神に反抗して来世より束の間のこの世を有難がっていた者どもは、必ず地獄が終の棲家となろう。(79章34-39節)

 このように、メッカ時代において、イスラームの信仰は深刻な罪の意識に基づく終末論的な怖れの感情に収斂するのである。」牧野信也『イスラームとコーラン』講談社学術文庫805、1987.pp.38-40.

 人間は本質的にすべて、ほっておけば限りなく悪事を繰り返す存在だ、というのもひとつの認識だが、ムハンマド的には、ベドウィンたちのような現世しか信じていない連中は、神を畏れない馬鹿者なので罪深いのである。その連中の中にいる限り、人は永遠に罪を犯し、親子、夫婦、家族、友人、親戚、仲間がこぞって悪に染まるほかないのだから、そこから脱出するにはしがらみを切り捨て、たった独り個人になって、神に向き合わなくてはならない。そうか!これは究極の「個人主義」ではないか。

「しかしながら、時がメッカ時代からメディナ時代へと移るにつれて、このように激しかった終末論的な怖れの感情もいつしかおさまり、怖れとは結局、神を敬うことを意味するようになる。そしてこのことはイスラームという宗教が持つ一つの重要な特徴と関連している。すなわち、メディナ時代以降発展したイスラームにおいても罪の意識というものはもちろんあるけれども、それはキリスト教で説かれているような原罪といったものとは本質的に異なる。(「イスラームの二つの顔」76頁)この世に生きている現実の人間は、実際、様々な悪事をなし、また罪を犯すのであり、誰でも自己を深く省るとき、いかに罪深い存在であるかを痛感する。しかし、イスラームによれば、この罪は人間存在そのものの中に本来の性質として、深くそして強く根を下ろしている罪としての原罪ではない。このことを我々は次の例によってはっきりと知ることができる。
 原罪というと、人はすぐ、旧約聖書におけるアダムとイヴの楽園喪失の説話を想起する。コーランはこれを聖書から受け継いでいるのであるが、注意すべきことに、これは旧約聖書にあったままの形でただ繰り返されているのではなく、ある独特な変化を受けて現れている。
そこで我らは言った「アーダムよ、汝は妻と共にこの楽園に住み、どこなりと好むところで果実を存分食べるがよい。ただし、この木にだけは近寄るな。そうすれば、不義を犯すことになるぞ」と。しかるにイブリースは二人を誘惑してこの禁を破らせ、二人をそれまでの無垢の状態から追い出してしまった。そこで我らは言った「落ちて行け、一人一人がお互いに敵となれ。地上に汝らの宿があろう。かりそめの宿がそこにあろう」と。しかし、その後、アーダムは主から特別の赦しの言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向い給うた。まことに主はよく思い直し給うお方。主は限りなく慈悲深いお方。(2章33-35節)

ここで、楽園追放後、神は思い直してアダムに赦しの言葉を与える、という点が重要であり、アダムとイヴは一旦は楽園から追放されて地上に落とされるけれども、すぐその後で赦されるのである。
こうして、コーランでは楽園喪失という同じ説話が、聖書におけるように人間の中に潜む原罪を説明するために用いられているのではなく、むしろ、ややもすれば罪を犯してしまう人間に対して、アッラーはそれをも赦す慈悲深い神であることを示す話となっている。つまり、罪の把え方に関するかぎり、ここでコーランは聖書と根本的に異なるのである。すなわち、イスラームによれば、人間は実際、罪深い存在であるけれども、その罪は、キリスト教におけるように、神がその独り子イエス・キリストを犠牲にすることによってあがなうのでなければ人間が自分ではどうすることもできない根源的な罪、つまり原罪といったものではなく、ある程度まで人間が自分の力で直していくことのできる、本来の性質にあらわれた歪みなのである。ということは、ここでイスラームが人間の性質は元来浄いものと考えていることを示している現実の人間の生活は確かに悪く汚れてはいるが、人間の本性そのものまで罪と悪に染まってはいない。ただ、人間は生来うっかりしており、不注意であるので、ややもすれば自分の本来の浄い性質から反れてしまう。これが罪に他ならない。そして人間は元来、神の姿に似せて創られた浄い存在なのであるから、その本来の性質をはっきりわきまえて行動するならば、もとの正しい道へ戻ることができるし、また自分の努力によってそれを達成しなければならない、というのである。(「イスラームの二つの顔」76‐77頁)
先に見たように、メッカ時代のイスラームはメディナ時代以降のスンニー的イスラームとは対照的に異なっている。すわなち、メッカ時代の啓示には深刻な罪の意識があり、現世は悪に満ちたいとうべきものとして否定的に把えられていたが、メディナ時代以後では、これと正反対の現世に対する肯定的・積極的方向がはっきりと打ち出された。しかしながら、これによってメッカ時代に見られたような現世に対する否定的な態度が消え去ってしまったのではなく、このような現世否定的方向は、スーフィズムといわれるイスラーム神秘主義の流れとしてメディナ時代後もずっと保たれて今日にまで至っている。そしてこれは、次章で考察するイスラームのもう一つの面としての、霊性を重視する大きな流れの一部をなすことになる。」牧野信也『同書』講談社学術文庫、1987.pp. 40-43.

 それにしても、イスラーム教の言説はムハンマドの独創、いや神がそれをムハンマドに伝えたということだろうが、説話の構造自体は巨大な旧約聖書の世界だ、ということがわかった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« どのように「右傾化」してい... | トップ | みんなと一緒に歩かなきゃい... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事