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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ジョン・フィッツジェラルド・・もうひとりのジョン&ポール

2013-11-23 15:58:11 | 日記
A.ケネディとマッカートニー
アメリカ合衆国の新日本大使として着任したキャロライン・ケネディ氏が、先日皇居で信任状捧呈式に臨むため、馬車で2.7kmを走る姿が報道された。19世紀式の馬車隊列に乗るか自動車で行くかは選択できるそうだが、日米関係におけるアメリカ大使の威厳と皇室への敬意をこめてケネディ氏は馬車を選んだそうである。ちょうど父のJ・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで銃弾に倒れてから50年記念というタイミングでもあり、日本のメディアはこれを大きくとり上げた。
 たまたまだが、その2日後に後楽園ドームでは、ポール・マッカートニーのコンサートが行われた。ビートルズというイギリス・リヴァプールで生まれた労働者階級の若者たちのバンドが、世界の音楽界を席けんしつつある時期に、ケネディ大統領は暗殺された。それから半世紀。世界の状況は大きく変わった。ビートルズが4人揃ってはじめて日本を訪れて、熱狂のコンサートをしたのは1966年6月、これも皇居の裏の日本武道館だった。武道館は、2年前の東京オリンピックにさいして柔道の競技会場として旧江戸城北の丸、田安門内に建設されたから、ビートルズ日本公演の頃はまだピッカピカの施設である。
 ぼくは高校生だったので、同級生たちの何人かはビートルズをみるために、羽田空港につめかけていたことを記憶している。ぼくもリアルタイムでビートルズを聴いてはいたが、a hard day’s nightなどのビートルズの曲はなにやら単純に騒々しく、追っかけのファンたちの狂気は尋常ではなかったので、あんなミーハー!とばかにしていた。やがて、ビートルズはどんどん進化して、それまでぼくが好んでいたモダン・ジャズやクラシックとは異質の音楽の革命を達成していくにつれ、いつのまにかぼくもビートルズのLPアルバムは全部買うようになっていた。それでも、いわゆるロックにのめりこむほどの体験はなかった。
 1970年代、ロック・ミュージックは若者(ただし先進国白人が中心の)世代の音楽として、ヴェトナム戦争や大学反乱に象徴される反体制気分を反映するものになった。ジョン・レノンがニューヨークで暗殺されて久しく、ポール・マッカートニーは70歳過ぎても元気に新曲を作っているが、21世紀の若者にはもう遠い昔の伝説、じいさん・ばあさんが愛好する世界になっている、のかもしれない。時間とは不思議なものだと思う。
 ケネディとビートルズが現れた時代は、冷戦と呼ばれる東西二大国が経済と軍事と文化を競い合っていて、第三世界と呼ばれた発展「途上国」を横目で見ながら、人類の未来はどっちが勝つのかと核兵器を蓄え、宇宙ロケットを飛ばしていた。でも、あの頃の日本は、世界がどうなるか以前に、失敗した戦争の傷を舐めながら、貧困から脱出しはじめた自分に妙な自信をもちはじめていた。やがてロック世代は大人になり、中年になり、自信は過信になり、80年代にはアメリカの次に豊かな経済大国になったと自慢するようになった。そして80年代の最後に、ソ連を中心としていた東側の社会主義国がばたばたと崩壊し、これからはグローバル世界経済で勝ち抜く以外の選択肢はない、という人類の未来への見なしが、当然のように語られる時代になった。考えてみれば、この半世紀はそんなに長い時間でもなく、ぼくだってその始まりから終わりまでを現に生きていたわけだ。
 いまさら、もっと古い1960年以前の世界を見ていた人たちが語り残したことばを、読みかえす意味はあまりないようにも思うかもしれない。時とともにどんな新しい音楽も、古びて聞こえるようになる。人のかたる言葉や表現は、時代に制約されているし、次々起こる出来事も予測不可能なのは当然だからだ。でも、言説の視野というものは、5年で消えていくものもあれば、20年くらいは生き延びるものもあり、半世紀経ってもまだ人の心に深く響くものも確かにある。学問のことばの中には、百年ぐらいは残るものがあると思うし、もしかしたら生きている人間の制約を超えて、何世紀も読まれ語られるものも確かにある。
 このブログでぼくが考えてみたかったのは、たぶんこういうことだ。日本の過去百五十年くらいの時間の中で、意味のある形で生き残ってきたもの、あるいはことばの表面は擦り切れて、歴史の闇に埋もれてしまったにしろ、もう一度それが書かれた状況を振り返って読む価値のあるもの、を探してみたい。そこからさらに、可能なら五百年、千年という時間の中で残ったものも考えられるのではないか、ということだ。お粗末な自分の能力で、どこまでできるかは自信がないが、歴史を誤解し、たかだか百年に満たない過去にこの国を戻そうという人たちが、権力を恣意的に動かそうとするのを見るにつけ、これをやめることはできない。



B.「権利」の否定、「義務」の強制
 今朝の朝日新聞に、「特定秘密保護法案」をめぐって内田樹氏の見解が載っていた。およそこういう趣旨である。権力を握る指導層が、重要な情報を独占してある決定を行い、反対派や支配下にある人々にそれを知らせずに、政策をすすめることは、民間企業であればかなり許されることである。経営者が必要な情報をすべて公開する必要はない。もちろんそれが結果的に消費者や従業員に大きな損害を与えるものならば公表した方がいいし、最後は法的に裁かれるだろうが、経営上必要な範囲で秘匿は認められる。経営判断が結果的に失敗すれば、企業は滅ぶという形で責任をとるからだ。しかし、国家・政府・官庁がこれをやると、権力の正当性自体が危うくなる。集中された権力中枢が、どのような意図でなにをやろうとしているかが国民にわからないようにしたい、漏らしたら処罰というのは、危険というしかない。国家が失敗するというのは、企業がつぶれるのと比べ致命的だからだ。この法案は、安全保障などの速やかな決定のために、日本の国家・政府・官庁にも民間企業と同じ原則をあてはめようとしているのだ、と。
 内田樹はそこまでは言っていないが、政府や官僚にそこまでの権限を与えることは憲法が禁じている。しかし、今の安倍自民党政権は、日本国憲法自体を守る気がないのだから、この法案ができた後にどのようなことが起ってくるか、われわれには予測する手がかりも与えない、ということになる。
 そこでまた、川島武宜を読んでみる。憲法と権利意識について、川島は『日本人と法意識』でこのように書いている。

「前に述べたように、憲法のもっとも重要な目的は、政府と人民との間における政治上の実力の優劣によって国民の利益が左右されることを防止するために、「基本的人権」という「権利」を国民に認めて、政府の実力の行使を抑制することにある。この問題との関連で、明治憲法と新憲法との比較は特に重要である。
 明治憲法は第二章「臣民権利義務」の中で政府に対する臣民の基本的権利を規定したが(居住移転の自由・逮捕監禁審問処罰等に対する保障・住居のプライヴァシーの保護・信書の秘密の保障・信教の自由・言論集会結社の自由等)、これらについては注意深く「法律ニ定メタル場合ヲ除ク外」とか、「法律ノ範囲内ニ於イテ」とか、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とかの限定が付せられていたのであり、事実においてもこれらの限定を活用することによって、政府はこれらの基本権を実際には無きにひとしい状態においていたことは、すでに知られるとおりである。だから、これらの「臣民権利義務」の規定は基本権を保障するためにあったのではなく、むしろこれを制限し否定することを根拠づけるためにあったのだ、と言っても言い過ぎではない。
 このような憲法に支えられて、明治以後の政府と国民との関係は、「権力」の関係では、ほとんどあっても「権利」の関係にはならなかった。このことは、新憲法の歴史的意義を正しく理解するためには是非知っていなければならない重要なことがらであるから、以下に少し詳しく説明しよう。
 明治憲法は、国民が、国民の他の一人に対してと同じように、政府に対し対等の資格で訴えることができる、ということを全く予定していない。明治憲法の下では、行政庁の処分が「違法」(法の定めるところにしたがっていない)であることを理由として国民が政府に対し訴えを起こすことは、ごく限られた場合にしか認められておらず(明治23年法律第06号が一定種類の事件につきこれを限定的に認めたほか、若干の法律や勅令が個別的に認められただけであった)、しかもそれらの例外的な訴訟は行政裁判所という特別裁判所においてしか起こすことができないものとされていた(旧憲法61条「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於いて受理スルノ限ニ在ラズ」。すなわち、明治憲法は司法裁判所と行政裁判所とを分離し、司法裁判所のみが「法律ニ依リ」行うべきものとし、行政裁判所については、裁判を「法律ニ依リ」行うべきだという保障を与えていなかったのである。だから、行政裁判所は、三権分立の原則における言葉の本来の意味での裁判所ではなく(裁判所とは、「法律ニ依リ」紛争について判断し決定する機関なのである)、一種の行政官庁にすぎない、と言われていたし、また行政裁判所に出訴した事件の大部分は、「原告ノ請求相立タス」として行政庁(すなわち政府)の勝利に終わっていた。
 旧憲法のこのような規定が政府の権力をどんなに法の拘束の外におき、その結果、政府がいわば「切り捨て御免」の権力――「権利」ではなくで――をもち、政府と国民との関係が対等の関係でなくて上下の支配服従関係になっていたかは、とても簡単には想像することもできないくらいである。いくつかの例をあげよう。
 たとえば、消防自動車が街を走ってときに人をひいたとする。もし、ひかれた人の不注意でひいたという場合ならば政府が責任をおわなくても不思議はないが、消防自動車のほうに過失があって人をひいた場合にも、政府は責任をおう必要がなかった。なぜかというと、消防は「国家権力の発動」であるから一種の行政権の作用であり、たとい故意に人をひき殺しても国家はまったく無責任だ、――そういう理由で、裁判所は損害賠償の訴えを起こした人を敗かした。
 (大審院判決昭和十年の事例が引かれているが、ここは略す;引用者)
しかも、消防自動車にひかれた場合の損害賠償請求は、行政裁判所に訴えることが許されていなかった。だから、極端な言い方をすると、消防自動車は国民を自由にひき殺す権利をもっていたことになる。」川島武宜『日本人の法意識』岩波新書、1967.Pp.49-52.
 
 戦後しばらくは、川島が教えていた東京大学法学部をはじめ、日本の法律教育の中ではこのような帝国憲法の欠陥をしっかり教えていて、新しい日本国憲法がそれとは異なった基本思想のもとに作られており、これにもとづいて日本という社会を運営していくことの重要性を、将来の指導的立場に就く人たちに説いていた、と思う。戦争の惨禍を身をもって知っていた世代の学生は、立場の相違はあってもこれには納得していたはずだ。しかし、それから半世紀。もしかすると、これとはまったく違った考え方が政治家、官僚、学者の一部に浸透し、それが実際の政治過程の中で一種の「変革」として実行に移されているのかもしれない。たとえば、今度の「特定秘密保護法案」には、一行政機関である内務省が「安寧秩序」を害すると認め、「風俗を壊乱する」と認めると、出版物は発売禁止処分となり、裁判に訴えることも許されないような戦前の出版法のような事態が可能となる内容を含んでいる。 

「以上のような多くの例は、何を意味するであろうか。いうまでもなく、そこでは、政府と国民との関係が法律によって支配されるということの客観的な保障はどこにもない。国民はただ政府の自制心にたよるほかない。そうして、その「自制心」によって裁判上どのような結果があらわれたかは、右の裁判例の通りである。だから、政府と国民との間には、前に言ったような意味での「法的」関係はない。すなわち、国民の側には「権利」はない。政府と国民との関係を規定する多くの法律はあったが、それらの法律は政府の役人のための覚え書のようなもので、それに違反した場合に、違反した役人が上役から叱られたり罰せられたりすることはあるかもしれないが、ないかもしれない。だから、それらの法律は政府と国民との関係を「法的関係」にするものではなく、政府と国民との関係は権力関係そのものであったのである。これが旧憲法的な法意識のあらわれであり、また旧憲法はこのような法意識を支えまた強化したのである。
 ところが、新憲法は、第三章「国民の権利及び義務」において、多くの基本的権利を単純無条件に規定している。そこで、政治家の一部には、新憲法は国民の「権利」を保護することに重点をおきすぎ、政府に対する国民の「義務」を規定する点では不十分である、と非難する人々がある。たとえば――


 「この点から見ると、今の憲法では、権利と自由の主張が圧倒的で、義務の観念が極めて薄い。権利の数は一見しただけでも前記の如く沢山あるが、義務は僅かに、勤労と納税と教育を受けさせる義務の三つしかない。」(中曾根康弘『自主憲法の基本的性格――憲法擁護論の誤りを衝く』三七頁、昭和三十年、憲法調査会。)

 これは、新憲法がそれらの「権利」を規定する、ということの目的ないし趣旨に対する、無理解から生じたものである。政府は、政治権力(それは終極には、組織された物理的力に支えられる)の主体であり、政府は国民に対して優越した力を有するのが、原則である(「人民主権」というイデオロギーと現実の力関係の問題とを混同する誤りにおちいってはならない)。したがって、政府および政治権力の実質上のにない手と、国民一般とのあいだには、一般的には、事実上の力の強弱の差こそあれ、事実上の平等の関係は存在しない。これを、少なくとも法の平面では平等者の関係――として処理する努力が、右の基本権の規定なのである。
 憲法における「権利」のこのような意義を理解することは、単に憲法の歴史的意義を理解するのに役だつだけではなく、われわれ国民の重大な利益を守ることができるかどうかに関係する。政治権力に対して被支配者がどの程度にその利益を守ることができるかということは、人類の歴史において政治的支配が始まって以来、常に政治の大問題であった。そうして、新憲法は、日本の歴史において、この点で全く新たな時期を画する記念碑である。」川島武宜『日本人と法意識』pp.57-59.

 今進行している国会審議は、与党と与党が組しやすい、つまり基本思想において彼らと似たり寄ったりの野党の一部と「修正」で妥協したふりをして、この法案を一気に実現させようとしていることは明らかだ。はじめから憲法を否定している元首相中曾根康弘の思想は、いまや安倍晋三によって「法」にまで格上げされようとしている。自民党の憲法改正案は、露骨に国民の「権利」を削減し「義務」を強調し、帝国憲法を復活させようと意図している、とみてよい。
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