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プログレの時代 Yes 5 高校野球予選…

2019-07-31 12:11:54 | 日記

A.単純から難解へ進むと……

 なにかを始めるときには、ふつう先生について初歩から習う。なにしろ何も知らないのだから、単純なことから順に教えてもらわなければならない。入門段階からおぼえていって、ある程度のレベルまでだんだん上達していく。音楽の場合も、まずはなにか楽器を手にして音の出し方から練習する。いきなり難しい曲に挑戦しても失敗するだけだ。多くの人は、ある程度できる段階までやって、それ以上は技術の限界を感じて挫折するものだ。いくら練習しても、鍛えられたプロのような演奏はできそうもない。それが「才能の違い」だろうと諦める。

 ロックという音楽が、1960年代に世界中の若者をあっというまに熱狂させたのは、まずは単純でわかりやすい曲だったのと、楽器なんか触ったこともない青少年たちが、これならオレにもできるかも、とバンドを組んでみようと思ったからだろう。ギターを持ってFとかGとかのコードを押さえれば、ジャーンと鳴る。楽譜なんか読めなくても、とりあえずこれだけでカッコがつくので、ドラムとベースとヴォーカルを揃えればにわかバンドができる。この単純でとっつきやすい音楽が、どれほどの若者を惹きつけたかは、ぼくもあの頃の中高生だったからよくわかる。今まで野球やサッカーをしていて音楽なんか無関心だった男の子たちが、急にギターを欲しがって仲間と騒音バンドを鳴らし始めた。そういう中から、やがてプロのミュージシャンを目指す者も出てくるわけだが、おおかたは1年もすると飽きてまた野球少年や受験勉強に戻っていった。

 ぼくは小学生の時、ピアノを習っていて、バイエルの楽譜を読んで指使いを直されたりするお勉強クラシックが肌に合わず、男の子でピアノを習っていた者は他におらず、なにか悪いことをやっている気がしてこそこそ隠れていた。ぼくにとって楽器をやるというのはそういう暗いイメージだったので、ロックが流行り出した時、家にエレキギターやアンプがいくらでもあったのに、自分もやってみようとは思わなかった。どうして家にエレキがあったのかというと、ギターの弦を作るのが父の仕事だったからだ。エレキギターがブームになって、仕事はどんどん忙しくなり、従業員を雇って儲かっていたようだが、ぼくはロックに背を向けてクラシックばかり聴いていた。

 どんなジャンルの音楽もはじめは単純でわかりやすい曲が流行る。やがてそれに飽きてもうちょっと複雑な曲も聴きたくなる。みんな知ってる通俗名曲などで喜んでいるのはシロウトだと、だんだん新傾向の手の込んだ曲に入りこみ、ついには何をやっているのか一度聴いただけではわからない難解な曲こそすばらしいと言いはじめ、それを知っている自分は特別な音楽通なのだと自慢し始める。単純から複雑へ、明解から難解へ、クラシックも、ジャズも、そしてロックも、この順序で「進化」しているのだと思ったのが1970年代だったのかもしれない。

 

 「1973年10月26日(11月9日という説もあり)に本国イギリスで発売されたイエスの大作「海洋地形学の物語」は、いろいろな意味で賛否両論を巻き起こした問題作と言える。それは単にLP2枚組で全4曲という長さや、以前にも増して難解で理解し難い歌詞といったことからだけではない。むしろ、それだけだったらプログレ・ファンからは大いに歓迎されたことだろう。プログレの必須条件と言われる、“曲が長い”“難解である”“変拍子を多用している”といったポイントをすべて満たしているわけだから。

 この作品は、冒頭にあるジョンの文章からもわかるように、彼とスティーヴ・ハウの二人が中心となって作られたものだ。この壮大なコンセプトを練り上げるにあたってジョンは、上記のパラマハンサ・ヨガナンダの著書「あるヨギの自叙伝」と、ヴェラ・スタンレー・アルダーの著書「第三の目の発見(THE FINDING OF THE THIRD EYE)」から強く影響を受けたようだ。一方のスティーヴ・ハウは、その前の年、1972年7月に行なわれたデヴィッド・パーマーによるシンフォニーに参加して以来、シンフォニックな作品に強い関心をもっていた。また、1996年にリリースされたスティーヴ・ハウの初期デモ・テープ集「HOMEBREW」には、本作1曲めの「神の啓示」の原曲となった「For The Moment」が収められている。このデモ・ヴァージョンは、1972年にスティーヴの自宅で録音されたもので、この曲こそが大作「海洋地形学の物語」の骨格になったのは間違いない。

 しかし、その他のメンバー、つまりクリス・スクワイア、リック・ウェイクマン、アラン・ホワイトの3人は(おそらくしぶしぶ)コンセプトに同意はしたものの、制作段階から懐疑的だった。特にリックは、この作品のコンセプトを端から理解しようとせず、そればかりかレコーディングの最後まで終始否定的だった。結局、リックは翌1974年5月にソロ活動への専念を理由にイエスを脱退することになる。クリスにしても、「海洋地形学の物語」に対しては常に一歩引いていたような状況だった。

 そんな残りのメンバーの不安をよそに、ジョンとスティーヴはガンガン作業を進めていった。ジョンの発言によれば、1曲めの「神の啓示」などはスタジオ段階では28分もあったということだし、この大作にかけるジョン&スウィーヴの意気込みたるや相当なものだったことは容易に想像できる。

 イエスの「海洋地形学の物語」は実に興味深い作品であることには違いない。正直なところ、聴けば聴くほどわけがわからなくなる作品でもある。イエスが自分達の才能だけを頼りに制作した本作は、ある意味で本当のイエスの姿が現われてもいるし、またある意味では背伸びしまくったイエスの姿もそこにはある。明らかに未消化の部分、持て余している部分を散見できるのも事実だ。事実、アルバム発表直後にはマスコミ、特にイギリスの音楽誌からは酷評されまくった。にもかかわらず、20年も経ったいま聴いても、その魅力はまったく色褪せていないというのが、この作品の奥の深さを物語っている。

 ところで「海洋地形学の物語」の発表に併せたツアーは、まずイギリス国内ツアーとして1973年11月16日のボーンマス公演を皮切りに12月10日のエジンバラ公園までの24公演が行われた。翌1974年に入ると、2月7日のフロリダ・ゲインズヴィル公演を皮切りとするアメリカ・ツアーが3月21日のサンディエゴ公演まで行われた。そして4月に入ると、4月11日のフランクフルト公演を皮切りに4月23日のローマ公演までのヨーロッパ公演が行われた。このツアーでの演奏曲目は以下の通りだ。

01.「シベリアン・カートゥル」

02.「同志」

03.「危機」

04.「神の啓示」

05.「追憶」

06.「古代文明」

07.「儀式」

08.「ラウンドアバウト」

 恐ろしいことに、ステージで演奏されたのは「危機」全曲と(当時の)新作「海洋地形学の物語」全曲、そしてアンコールの「ラウンドアバウト」というものだった。トータルで3時間弱。さすがに、ツアー後半からは5曲目の「追憶」がセットリストから外されたようだが、それにしても当時のオーディエンスは、初めて耳にするであろう「海洋地形学の物語」をほぼ全曲聴かされたわけだから、相当面食らったに違いない。当然の如く、イギリスのマスコミはイエスに集中砲火を浴びせてきた。こうした批判が、さらにメンバーの不安を増長させたのだった。

 1998年、イエスはバンド結成30周年を迎えた。30年に及ぶ活動歴において、この「海洋地形学の物語」というアルバムはどんな位置づけにあるのか。発表された1973年というのは、バンドが活動を開始して5年めということでは初期にあたるわけだが、この時期こそがイエスのバンドとしての魅力に溢れた全盛期だったと言えるだろう。その意味においても、本作「海洋地形学の物語」はイエスが最もイエスたらんとしていた時期の重要な作品であると思う。当時、20代半ばだった5人の若者が、レコード会社からの制約を一切受けることなくクリエイトした自分たちの理想の音楽……それがこの「海洋地形学の物語」だったのだ。

               笹川孝司/MUSIC Watch 」イエス「海洋地形学の物語」解説

 

 Ritual  Nous Sommes Du Soleil  (Word by Anderson-Howe. Music by Yes)

Nous sommes du soleil we love when we play/ Nous sommes du soleil we love when we play

Open doors we find our way/ we look we see we smile / Surely daybreaks cross our path/ and stay maybe a while

Let them run let the chase/ let them hide between/ Constant doors will open eyes/ as life seems like/ life seems like a/ fight, fight, fight

Maybe I’ll just sing a while/ and then give you a call/ Maybe I’ll just say hello/ and say maybe that’s all

Hurry home as love is true/ will help us through the night/ Till we’re coming home again/ our life seems like/ life seems like a/ fight, fight, fight

 僕らは太陽の子、僕らには見える 僕らは音楽を奏でるのが好きだ

 開かれた扉の向こうにぼくらは道を見つける 僕らは求め、僕らは見、僕らは笑う

 夜明けは確実にやって来て しばしの間とどまってくれる

 奴らを走らせろ、奴らを追わせろ 奴らを隠れさせろ 不変の扉は瞼を開き

 人生は  人生は  戦い、戦い、戦いのようなもの

 僕はしばらく歌い続け 君に電話するだろう  おそらくハローとだけ言って

 ただそれだけだよと言うだろう   家に急げ 真実の愛が 

夜通し彼らの手助けになってくれるだろう 僕らが再び家に帰るまで

人世は 人生は  戦い、戦い、戦いのようなもの

 

 We hear a sound and alter our returning/ We drift the shadows and course our way on home/ Flying

Home/ going home

Look me my love centences move dancing away/ we join we receive/ as our song memories long hope in away Nou sommes du soleil/ Hold, me around.  Lasting purs/ We love when we play/ Nous sommes du soleil/ Nous sommes du soleil/ Nous sommes du soleil

 僕を見て、恋人よ、 言葉が躍りながら去ってゆく

 僕らはひとつになって受け入れる  歌の思い出は末永い希望となって

 僕らは太陽の子、僕らには視える  僕を抱きしめておくれ、残された時間を

 僕らは遊ぶことが好きなんだ    僕らは太陽の子、僕らには視える  

僕らは太陽の子、僕らには視える  僕らは太陽の子、僕らには視える (Kuni Takeuchi訳)

 

 イエスのメンバーのうち、この「海洋地形学の物語」という長大な作品のコンセプトを、先導したジョン・アンダーソンとスティーヴ・ハウの2人以外がどこまで理解して演奏していたかは、きわめて怪しい。音楽自体はそれまでの「こわれもの」「危機」の延長上で、各自がやりたいことを擦り合わせればなんとかできたのだろう(それでもリック・ウェイクマンは耐えられずこのあと脱退するが)。しかし、この歌詞を読むと、作っているジョンすら何を言っているのか、わかっていたとは思えない。結局、冒頭のフランス語もカッコつけにすぎないし、詩としての押韻だけを頼りになにか意味深いことをいいたい、というだけであるから、日本語に訳すとさらに訳が分からなくなる。そもそも20代のイギリスの男子が理解する、インド哲学とか黙示録的世界など誤解と偏見に満ちるのは避けられない。要するに、この難解は音楽の実験の装飾にすぎないと思うのだが、その意味でもイエスが1973年という時点で、突出した存在であろうとしたことは疑いない。

 

B.高校野球の変化

 都立小山台高校には大学進路指導のための模擬授業を頼まれて、一度行ったことがある。都立高のなかでも文武両道でそれなりの評価を得ている学校だ。ぼくのゼミにも、小山台高校出身者がいて、なかなか意欲のある学生だった。その小山台高校の野球部が、夏の甲子園予選東東京大会で、決勝まで進んだという。すごいことだと思う。並みいる強豪校はみな私立の部員を多数抱えた野球部だ。それに勝ち抜く都立の硬式野球部とは、どんな子たちなのだろう。

 

 「高校野球 夏の地方大会:東京、神奈川で公立躍進 :小川勝の直言タックル

2019年の高校野球では、東東京と神奈川で、公立校の見事な戦いがあった。東東京の都立小山台高校と神奈川の県立相模原高校だ。小山台高校は2年連続で決勝まで勝ち上がった。

 東京、神奈川で公立高が準決勝以上まで勝ち上がるのは、きわめてまれなことだ。準決勝まで残るには、私立の強豪校に勝たなければならないわけで、私立の強豪校に対して、限られた地元の生徒だけでチームを作っている公立高が、対等な勝負をするというのは、通常であればと、なかなかできない話なのだ。

 高校野球が持っている独自の価値のひとつは、地域性ということだ。大学野球であれば、地元を離れた学生がさまざまな地域からやってくるというのは普通のことだ。プロ野球の場合は、チームに地域性はあるが、プレーするメンバーは、日本はもちろん、海外からのプレーヤーもいる。だが高校野球は、地域で育った高校生たちが、地域の代表としてプレーするということがありえる分野だ。

 ただ東京、神奈川といった大都会を含む地域では、私立高校がたくさんあるため、公立高校が甲子園に行くチャンスがほとんどないことはよく知られているところだ。

 小山台高校が東東京の決勝に残ったり、相模原高校が横浜高校に勝ったりというのは、19年の高校野球で語りつがれていい出来事だ。小山台高校は14年の春の甲子園に出ているが、夏は初めての甲子園まで、あと1勝だった。相模原高校は、準々決勝で横浜高校に5点をリードされながら、7回から大逆転勝利を収めた。横浜高校は18年の秋季大会では神奈川で優勝していて、19年の春季大会は準決勝まで勝ち上がっていたから、夏は甲子園に出る可能性が十分にあったはずだ。相模原高校の勝利は、19年の夏の高校野球で歴史に残る記念碑になり得るゲームだったと言えるだろう。

 相模原高校が横浜高校に勝つにはある程度、戦力がそろったときに、工夫された練習を積んで、相手をよく研究して、熟考されたプレーをゲームの中で出せる精神面など、さまざまな要素がすべて重要だったはずだ。甲子園にたどり着く前の戦いである、都道府県の地方大会は、広く共有されることはあまりないが、東東京と神奈川には、高校野球の醍醐味といえるゲームがあったと思う。(スポーツライター)」東京新聞2019年7月29日朝刊25面特報欄。

 

 たしかに小山台高と相模原高の健闘は記念すべきものだと思うけれど、見方を変えれば、高校野球というものが、あるいは中学高校という学校教育の中の部活として行なわれる野球が、質的に変わってきているのではないかと推察する。つまり、甲子園大会に象徴される学校野球部勝ち抜きトーナメントは、地元をはじめ世間が注目するイヴェントだということを学校もメディアも当然の前提にしている。だが、それを戦う球児たちの現実は、一部の強豪校やプロ野球を目指すトップ・エリートと、大半は高校までの部活として「青春を燃やす」だけの男の子に分かれる。強豪校の野球部に入っても、レギュラーとして大会に出られるのは選抜された一部だけ。そして野球部というものがかつてのように第一の花形スポーツではなくなり、厳しい練習と坊主頭の体育会風土に抵抗を感じる子は、野球には行かない。もしそういう傾向が少子化とも関連して進んでいるとしたら、地域に野球が定着する地方よりも、学校も部活選択肢も多様な大都市部では、そもそも硬式野球をやろうという子が減少しているかもしれない。ちゃんと調べてはいないが、かつてのような勝利至上主義で部員をしごきあげるような指導はもう時代に合わないだろう。

 そのようななかで、大都市圏公立校の野球部が甲子園に出るところまで来ているとすれば、野球の質自体が変わりつつあるのかもしれないと勝手に想像する。

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