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日本史における真の革命家? 3 承久の乱の意味  自民党もう終わり

2024-05-31 14:28:39 | 日記
A.ふしぎな好評価 
 大澤真幸『日本史のなぞ』のメイン・テーマは、日本の歴史ではなぜ革命がありえなかったのか、それは天皇という存在が西洋(あるいは古代ユダヤ教由来の)の唯一の「神」でもなく、中国の湯武放伐論を認める「天」あるいは「天命」でもなく、あたかも国を統べる神のような機能に置かれ続けている天皇というなぞを、ロジックで解明することにある。そしてもうひとつ、日本史において唯一、その天皇が頂点にいる体制に、反抗し革命に成功した例がひとつだけあるという。そのなぞは、承久の乱に成功した北条泰時だ、ということから、なぜそんなことが可能だったのかを解明することになる。なるほど、承久の乱の結果は、後鳥羽上皇をはじめ、京都の朝廷権力中枢を処分解体し、天皇を廃位にした。しかし、天皇制そのものは残した。そして、新しい法「御成敗式目」を制定し、自分の名で公布した。人びとはこれを素直に受け入れ、その後も揺るぎない秩序として受け継いだ。これは革命の成功と言ってよい。どうしてそんなことが可能だったのか?大澤氏の説明を聞こう。

「北条泰時は、日本社会の歴史の中で唯一の成功した革命家である。そのように評価しうる理由を改めて確認しておこう。まず、彼は、日本社会に、初めて、体系的な固有法をもたらした。しかも、その法は、理想を並べたてるような机上の空論ではなく、広く深く日本人の生活に浸透し、定着したのだ。
 もたらされた社会変動が革命と見なしうるかどうかのメルクマールは、基本的な社会構造や支配構造の転換を含むかどうかにある。承久の乱は、初めて、武士団が朝廷と全面的に衝突し、朝廷に勝利した戦いである。これによって、天皇や上皇とその側近の権力は大幅に削がれ、武士を実質的な頂点とする支配構造が、東国と西国をともに包括する広域で確立した。六波羅探題の設立が、この支配構造が、地方的なものを超えていたことをよく示している。とすれば、承久の乱は、まさに革命のための戦争だったと言わねばならない。
 だが、これに対しては、「武士中心の政権は、頼朝が鎌倉幕府を設立したときにすでに実現している」と反論する者もいるだろう。さらに遡って、清盛が実質的には、「武士の世」を開始していたと見なす者もいるに違いない。確かに、清盛から頼朝へと受け継がれる事績がなければ、北条の成功はなかっただろう。しかし、清盛や頼朝がなしたことは、まだ革命とは言えない。その理由は、すでに論じてある。彼らは、結局、天皇や皇室の権威に助けられ、その権威を受け入れた上で活動しているからである。日本史の上での真の断絶は、清盛や頼朝のところではなく、泰時のところで画されているのである。
 平家も源氏も、「武家の棟梁」であり、本来、名門であったことを思い起こしておこう。彼らは、もともと支配構造の頂点に近いところにいたのだ。これに対して、北条は、もとを正せば、地方の一豪族にすぎない。平家や源氏の勝利よりも、北条の勝利の方が、はるかに「ありそうもないこと」だったのだ。
 承久の乱のときの北条を別にすると、日本社会の歴史の中で、天皇や朝廷に全面的に反抗して、なお成功した者は、一人もいない。そもそも、天皇に真っ向から完全に対決した者は非常に少ない。まれには、天皇と対決する者もいるが、ことごとく失敗している。鎌倉幕府も、先に見たように、承久の乱の一世紀後に後醍醐天皇と正面衝突したときには、結局、敗北し、この負けがそのまま幕府そのものの滅亡につながった。(天皇と対決したわけではないが)天皇の権威をまったく無視した信長は途中で挫折し、天皇からもらう官位をありがたがる秀吉が列島の統一に成功した。そして、二百六十年刊も安定的に日本を統治してきた徳川幕府も、天皇の敵だと認定されたとたんに、あえなく滅ぼされた。
 日本社会では、政治的に成功するためには、天皇や朝廷に、積極的もしくは消極的に支持され、承認されなければならなかった。ほとんどすべての事柄が、このことを示しているように見える。ところが、北条泰時だけは例外だ。彼は、皇室と対決し、その最も重要なメンバーを厳罰に処した。それなのに成功した。泰時は、天皇と対決しながら敗者にならなかった、唯一の政治指導者だ。どうして、泰時だけが成功したのか。なぜ、泰時のみが、革命を成し遂げることができたのか。
 なぜか激賞 
 さらにふしぎなことがある。
 繰り返せば、泰時は、院宣に反して、幕府軍を率いて、天皇群を打ち負かした。そして、言わば、「天皇制政府」を打倒し、「幕府制政府」を樹立した。これが革命である。それに先立って、泰時は、天皇の陪臣の身でありながら、三人の上皇を配流した。これほどまでのことをしたならば、天皇制支持者や皇国史観の持ち主からは、さぞ厳しく批判されてきたに違いない。おそらく鬼畜のように言われ、罵詈雑言を浴びせられているだろう。そのように予想せざるをえない。
 ところが、実際には、そうなっていないのだ。まったく逆に、天皇や皇室を熱烈に支持した後世の学者や歴史家は、こぞって、泰時を激賞しているのである。たとえば、水戸彰考館の総裁で、水戸学の形成者の一人安積澹泊の『大日本史論賛』。水戸学こそは、幕末の尊王攘夷運動の思想的なベースであり、戦前の天皇制ファシズムの中核にあった「国体」という概念も水戸学によって作り出された。とすれば、安積澹泊は、泰時を痛烈に批判しなくてはなるまい。
 ところが、澹泊は、泰時を、ひとことも批判していない。澹泊は、承久の乱に関しては、泰時の父、義時に責任があるとしつつ、ほんとうに悪いのは、悪政で人民に塗炭の苦しみを与えていた後鳥羽上皇の方であり、民が服従に堪えきれないのを見て立ち上がった義時は悪くないと弁護している。そして、義時の息子の泰時が、仲恭天皇を退位させたこと等は、仕方がなかったことなのだ、とも言う。
 義時に関してさえ、そこそこ偉いとする澹泊は、まして泰時については、その政治家としての態度や政治的成果をほとんど留保ぬきに褒めている。泰時が「その父に代わりて政を為すに及び、清廉・公直にして、声色を屏居(へいきょ)し、務めて謙沖を以て自らを処(お)る。而して逓番して幕府に宿直(とのい)し、老に至るもその節を更(あらた)めず。此れ、尤(すぐ)れて及ぶべからざる者なり」(父親に代わって政務をとった泰時は、清廉・公平であり、自己主張を表に出さず、できるだけへりくだって己を空しくし、自身を律した。加えて、順番に幕府に寝泊まりして勤務し、年をとってからもそのやり方を変えなかった。これは、まことに優れたことで及ぶものはいない)と。澹泊の、御成敗式目に対する評価も非常に高い。「而して、訴(うったえ)を聴き獄を折(さだ)め、冤枉(えんおう)を申(の)べ理(おさ)め、鰥寡(かんか)を侮らず、豪傑を畏れず。『貞永式目』今に至るまで立ちて標準と為るは、文武の全才と謂うべし」(こうして、訴えをよく聴き罰をただしく定め、冤罪をはらし、寡婦・やもめを侮らず、悪く強い者を恐れない。「貞永式目」が今に至るまで役立ち標準的な規範となったのは、泰時に文武両面の才があったからと言うべきである)。
 このように、安積澹泊は、承久の乱の対立に関していえば、後鳥羽上皇に対しては批判的であり、義時・泰時の父子を称賛している。とりわけ、軍を率い、天皇を退位させた泰時の政治手腕を激賞している。これは水戸学の方針とはまったく逆ではないのか。そうしてこんな逆転が生ずるのか。
 安積澹泊が、特別に風変りだったわけではない。澹拍よりもはるか前、北畠親房が『神皇正統記』で同じことを書いている。南朝の正当性を弁償している北畠は、当然、泰時を批判しなくてはならないように見える。ところが、彼もまた、後鳥羽上皇が悪いとする。「一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがや申すべき」(ちょっとした理由で追討するというのは、上皇の方に問題があったというべきである)、と。こう論じた上で、泰時については純粋に称賛のみで、難点を一つも指摘していない。「大方泰時心ただしく政すなをにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわずらひをとどめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる」(泰時は心ただしく政治は実直であり、人を育て、おごることもなく、公卿のことも重視し、本所の煩いも適切に処理し〔承久の乱の結果得た、京方の没収地に置かれた新補地頭の横暴を抑制し〕、さまざまな危険も取り去られ、天下は安泰だった。このように年代を重ねることができたのは、ひとえに泰時の力であったと伝えられてきた)。さらに、親房は、頼朝と泰時を並べ、この二人がいなかったら日本国の人民はどんなにひどいことになっていただろう、などと言ってさえいる。彼ら(頼朝と泰時)によって皇威が衰え、武士が勝ったなどというのは勘違いである、というのが北畠親房の歴史評価である。
 足利尊氏に対する評価と泰時に対する評価とを比較してみるとよい。後醍醐天皇を裏切った尊氏は、天皇制の支持者からの評判は、もちろんよろしくない。だが尊氏は、最初は後醍醐を助け、勝利に導いていたのだし、後醍醐と対決するときでも、光厳上皇からの命令を受けている。「天皇制支持」を基準にした場合には、泰時は、この尊氏よりもっとはるかに悪いはずだ。ところが、尊氏を痛罵する者も、泰時は賞賛するのだ。これはまことに奇妙である。
 同時代の者を含めても、泰時を批判した者はほとんどいない。他のほとんどの人を厳しく批判する論者も、泰時だけは例外だとして、批判の対象から除外する。泰時の伝記を書いた上横手雅敬は、「誰か泰時を悪し様に言っていないか」と期待をもつが、いくら調べても、そういう者はどうしても見つからない、と論じている。
 日本史の中で、泰時ほどあからさまに天皇と対決した者はいない。それなのに、彼は、天皇制の支持者から尊敬され、賞賛されてきた。これはどうしたことなのか。このなぞは、泰時の行動がどのような論理に立脚しているかを考えるヒントになる。
 繰り返す。どうして、泰時だけが革命に成功したのか。この革命の論理を解明するためには、大きく回り道を通らなくてはならない。日本社会だけを見ていてもなぞは解けないだろう。他国や他の文明のもとでの「革命」との比較が必要になる。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.47-54.

 水戸学の安積澹泊、そして神皇正統記の北畠親房という、尊王思想の巨頭として知られる思想家たちが、北条泰時に関しては、なんら否定的な評価をせず、むしろ褒めている。彼らが大悪人として非難する足利尊氏と比べて、なんという違いか。これはなぜか、という問題が大きなヒントだろう。


B.この国の政治のいびつさ
 能登半島の現状は、かなり厳しいようだ。なにより人口の過疎化高齢化がすすんでいた地域の災害が、復興を難しくしている。人が住んでいた場所を、まずインフラ整備して帰還を支援するか、戻るより将来を眺めて別の場所に集団移転するか、その決断すらまだできる条件にない。

「能登の集落 復興か移転か 決断見守る :デジタル企画報道部 小川詩織 
・・・石川県輪島市打越町は、県道に出られる唯一の道が土砂や倒木でふさがれ、20人ほどが孤立した。住民たちはチェーンソーで4日かけて倒木を切り開き、県道まで出て、消防や自衛隊に救助を求めたという。
避難所にいた区長の谷内均さんは当時、「もうこんな危険な場所には住んでられんと思った」と語った。
 それから2カ月。集落がどうなっているのか、この目で確かめようと、歩いて現地に入った。崩れた道路や倒木を避けながら、慎重に登っていくと、そこには小川が流れ、田畑が広がり、鳥がさえずる早春の山里があった、ほんの2カ月前に、住民たちが生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたとは思えない、のどかな風景だった。
 避難所まで戻り、「あんなにいい集落なら、ここに戻りたいって願う人もいるでしょうね」と言うと、谷内さんは「でしょ!本当にいい場所なんだよ」と顔を輝かせた。
 ただ、この時点でも、集落は電気や水道が復旧しておらず、住民たちは避難所生活を強いられていた。別の場所への集団移転も選択肢の一つといい、谷内さんは「みんなが戻ってきたら具体的に検討したい」と寂しそうだった。
 やはり孤立した石川県珠洲市の大谷地区でも、復旧の遅れが住民の帰還を妨げていた。生活の基盤さえあれば戻ってきたいという住民は多いものの、区長会長は「まだ地区の将来のことを具体的に考えられる段階ではない」と話した。
 宮城大の阿部晃成特任助教(災害社会学)は「住民一人ひとりが将来の見通しを立て、復興について考えていく必要がある」と話す。打越町や大谷地区のように、インフラの復旧が進んでいない集落の住民は、親戚の家や2次避難所に身を寄せている人も多く、将来を話し合う機会もまだ持てていない。
 故郷に戻るのか、集団移転を検討するのか――。住民たちがどんな選択をするのか、見守っていきたい。」朝日新聞2024年5月30日夕刊9面、「取材考記」欄。

 このルポでわかるのは、現地の人たちの苦難と悩みだが、問題は国や行政が、能登の将来を考えて、何が必要だと判断しているのか、よくわからないことだ。東日本大震災のときは、その大規模な被災地に対して、まがりなりにも本格的な支援と復興を国を挙げて計画し、ボランティアは海外からもやってきた。しかし、能登はすでに忘れられる恐れもある。自民党をめぐる裏金騒動を見ていると、ほとんど政治への絶望と怒りが湧いてくる。自民党の政治資金パーティに金を出した連中、大きな企業や利害団体の関係者は、このことをどう考えるのか。要するにこれは自民党の政治家への企業献金でしょ。それを何に使ったかは闇の中だが、要するに選挙で自民党が勝つための資金でしょ。企業献金はやめようって、政党助成金という公金をもらっていながら、別口で金を集めるのはなぜ?要するにお金をくれる企業や組織に、おいしい政策や利益を差し上げるからよろしくね、という政治なんだ。この国は終わっているし、そこにいかなる理念も理想も皆無だ。

「米百俵」の家
「自民党が揺れている。思い返せば、この四半世紀で最も自民党に期待が寄せられたのは、第1次小泉内閣発足時ではなかったか。小泉は唐の自民党をぶっ壊すといって首相になったのだが、党は残念なかたちで生き永らえている。
 その際の初心表明演説で語られた「米百票」の精神はどこへやら。自分たちは食わずとも将来のために教育に資金を回すどころか、自らのために裏金を蓄え、説明すらまともにしない。
 この「米百票」の逸話を戯曲のかたちで世に知らしめた山本有三も、戦後国会議員として活動し、憲法の口語化、当用漢字や現代かなづかいの制定に尽力した。その頃、三鷹の自宅はGHQに接収され、転居の不便を強いられる中での活動だった。
 有三は戦前、この家の一部を、「ミタカ少国民文庫」として近隣の子どもたちのための読書の場として開放していた。「米百票」もここで書かれたのである。現在三鷹市山本有三記念館となっているこの家で、折しも「山本有三 住まいの履歴――活動を支えた家―-」という企画展が開かれている。
 今年は、有三没後50年。無私の精神を言葉(作品)でも行動でも示した先輩の家を訪ねて、自らを省みることを、今の政治家たちに勧めたい。(路傍の小石)」東京新聞2024年5月30日夕刊3面「大波小波」欄。
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