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日本史における真の革命家? 2 鎌倉対京都  鷗外と美術

2024-05-28 15:59:59 | 日記
A.承久の乱 
 1221(承久3年)6月に起きた戦、承久の乱について概要を確認しておくと、鎌倉幕府の執権北条義時を追討せよとの院宣を出した後鳥羽上皇に対し、義時の息子泰時を主将とする幕府軍は、5月22日鎌倉を出発。6月13日宇治川で両軍激突したが、14日夜には京側が潰走、幕府軍は京都に攻め上り決着がついた。これは源氏の三代将軍源実朝が、鶴岡八幡宮で殺害された1219(承久元)年1月から2年半後のことだった。上皇の意図は、将軍が死んで独立性を強める関東武士政権の鎌倉を、この際一気に潰してしまおうということだった。京都の朝廷を鎌倉側がよもや軍事的に制圧することなど、予想できなかった首謀者の後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へと配流、順徳上皇の子・仲恭天皇は皇位を奪われ廃された。上皇方に参加した公家や武士は処刑・殺害・追放の厳しい処分となった。上皇側の膨大な荘園は没収され、朝廷の権力は大幅に制限され、京都の六波羅に置かれた探題がつねに宮方を監視し、皇位継承にも影響力を持つようになった。
 大澤真幸氏の指摘するポイントは、なぜ執権北条氏は、京都の朝廷に対しその既得体制を武力でひっくり返すという、このような革命ができたのか?そして、それが歴史上の評価として、非難ではなく高い評価を得ているのか?ということだろう。

「後鳥羽の院宣があったとき、幕府側の対応としては、三つの選択肢があったと思われる。義時を中心に、有力御家人は、これらを検討したに違いない。ひとつは、もちろん単純な無条件降伏である。戦う場合にも、ふたつの選択肢があった。消極的な戦いと積極的な戦いだ。前者は、京都からの軍を鎌倉で待ち、迎撃することを意味する。後者は、こちらから京都へと向かって攻め込んでいくことだ。戦うのであれば、迎撃でも進撃でもない大差がないと思われるかもしれないが、そうではない。武士たちが恐れていることは、敵方の先頭に天皇自身が出てきてしまうことだ。京都に攻めていった場合には、その可能性が出てくる。
 結局、鎌倉幕府は、この最も恐ろしい選択肢、つまり三番目の選択肢をとった。幕府は、積極的な攻撃に出たのだ。この幕府軍を率いたのが、北条泰時である。ついでに付け加えておけば、上皇軍が挙兵したときに動揺する御家人たちを前にして、「尼将軍」と呼ばれた政子が発した「最後の詞(ことば)」が、有名だ。「故右大将〔頼朝のこと。頼朝は後白河から右大将に任じられたことがあるのでこう呼ばれた〕の恩は山よりも高く、海よりも深い。逆臣の讒言によって綸旨が下された。〔藤原〕秀康、〔三浦〕胤義〔どちらも上皇に与した鎌倉武士〕を討って、三代将軍〔実朝〕の遺跡を全うせよ」と。その際、「院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」とも付け加えたが、後鳥羽院に寝返る者はおらず、武士たちの動揺は収まったとされている。政子の迫力はすさまじい。
 ところで、我らが主人公、北条泰時はこのとき、三つの選択肢のどれを推したのだろうか。彼は、大将として軍を率いたのだから、当然、積極的な攻撃を支持したはずだ……と思いきや、そうではない。残された資料によれば、泰時は、最も弱気な選択肢、つまり無条件降伏を支持したとされている。これについては、泰時には、何か高度な戦術的な意図があったのではないか、という穿った見方もあるらしい。真実は、わからない。ただ、泰時という人物は、その言動から推測するに、かなり優柔不断なところがあった。信長や後醍醐のような果断な勇者とは違う。この無条件降伏論も、泰時という人物の性格をよく写しているように思える。
 いずれにせよ、ひとたび進撃軍を率いることになったら、泰時は迷うことなく戦った。こうして、東国・西国戦争とも呼ばれる承久の乱の火ぶたが切られた。泰時の東国軍は、まず木曽川で、かんたんに西国軍を撃破し、これを潰走させる。宇治川での戦いでは、西国軍が護りに徹したために苦戦するが、きわどい勝利を収め、一挙に京都に入った。こうして承久の乱は、およそ一カ月という短期間で、幕府側勝利によって終結した。
 上皇配流と六波羅探題
 戦後、何がなされたのか。もちろん、論功行賞をはじめとして多くがなされるのだが、最も重要なこと、「革命」という観点から見て重要なことを二つだけここでは述べておこう。
 第一に、戦争に責任がある上皇を流罪にした。幕府は、まず、ごく幼い天皇(仲恭天皇)を廃した。その上で、この戦に対して最も責任が重い後鳥羽を隠岐に、そして順徳上皇を佐渡に流した。さらに、幕府討伐の計画に参加しなかった土御門上皇も、自らすすんで土佐に流された。こうして、天皇が廃され、三上皇を流罪にするという、前代未聞の厳罰が皇室に科せられたことになる。皇室関係者が流罪になった、前例がないわけではない。たとえば、保元の乱の後、崇徳上皇が流罪になっている。しかし、それまでの皇室関係者の流罪では、罰する主体の方も、皇室関係者である。非皇室関係者から皇室関係者が、一方的に断罪されたのは、これが初めてであり、またその後もない。
 しかし、万世一系とされる天皇制が今日まで続いていることからも明らかなように、天皇位そのものが廃されたわけではない。幕府は、出家していた後鳥羽の兄を還俗させて後高倉上皇とし、これを「治天の君」とするとともに、その息子を後堀川天皇として即位させた。戦争計画にかかわった貴族は、死刑をはじめとする厳罰に処せられた。
 第二に、六波羅探題を設置した。京都を占領した泰時は、叔父の時房とともに京都に残り、六波羅探題の名で呼ばれるようになる。六波羅探題の任務は、とりあえずは、京都の朝廷の監視である。しかし、その機能は、やがてたんなる監視を超えていく。六波羅探題は、畿内以西の御家人(西国御家人)を統括する本部となったのだ。
 わかりやすく言ってしまえば、六波羅探題は、鎌倉幕府の京都支所である。いや、それは、一つの支所と呼ぶには重要すぎる。たとえば、朝日新聞社には、大阪本社と東京本社があって、どちらが支社というわけではない。幕府は、鎌倉本社と京都本社の二つをもつようになったのである。承久の乱以前は、鎌倉幕府は、東国(関東)を主たる支配圏とする地方的な王権であった。六波羅探題が設置されることで、鎌倉幕府の支配は西国にも及ぶようになり、幕府が列島のほぼ全域を支配していると見なしうる状態が確立されたのだ。したがって、承久の乱によって、東国と西国とが初めて統一された――東国が西国を制圧するかたちで――と言ってもよいことになる。
 ちなみに、「関西」という語が用いられるようになったのは、この時以降である。「関東」という呼び方は、以前からあった。それは、京都側から鎌倉を呼ぶときに使われたもので、したがって他称であった。承久の乱以降、「関東」が、東国の鎌倉幕府によって自称として用いられるようになるとともに、鎌倉に視点をおき、京都を含む西側が「関西」と呼ばれるようになったのだ。「関東/関西」という対が、視点を西(京都)から東(鎌倉)へ移したことになる。
 北条泰時は、西国支配の要である、この六波羅探題のトップに就任した。もう少し厳密にいえば、泰時は、六波羅探題北方に就いた。南方に就いたのは、叔父の時房である。
 だが、これだけでは、まだ、どうして父の義時よりも泰時の方を重視しているのか、理解できないだろう。ここまでは、未だ泰時の革命的業績の半分しか紹介していないのだ。泰時の仕事を正確に評価するためには、彼が執権として実現したことをも勘案しなくてはならない。
 承久の乱のおよそ三年後、義時が急死した。泰時は、時房とともに急遽、鎌倉に帰った。このときも、鎌倉幕府内で、策謀をめぐらす者もいたりして、複雑な争いがなされるのだが、泰時は、政子の支持も得て、執権の地位に就いた。
 泰時は、ここでも「革命家」のイメージとはまったく反する仕方で行動する。革命のリーダーは、たいてい独裁者である。革命によって樹立した政権の内部で、圧倒的なリーダーシップを揮うのが、革命家であろう。だが、泰時が築いた新体制はこれとは正反対である。彼は、叔父時房をもう一人の執権(連署)として、最重要の役職を二人制とした。さらに、北条氏をはじめとする有力御家人11名を「評定衆」と定め、その合議制によって統治権を行使した。つまり、集団指導体制であり、その集団内での民主制だとも言える。
 加えて興味深いのは、泰時が、将軍頼経の住居を御家人が輪番で警護する制度(鎌倉大番)を定めたことである。将軍は、まったく名ばかりで何らの実験をもっていないので、ほんとうは、誰も将軍の命を狙ったりはしない。御家人たちがその将軍に、つまりまったく空虚な中心に従属していることを繰り返し確認し、また自他に対して明示するのが、この制度のねらいである。なぜ、こんな制度が必要なのか。この疑問は、今は脇においておこう。
 泰時が執権として成し遂げた最も重要なこと、彼を日本史上の唯一の革命家と見なす最大の根拠となる事実、それは、法を定めたことである。関東御成敗式目である。泰時は、1232年(貞永元)に、評定衆11人の起請文の上にたつかたちで、この法を定めた。御成敗式目の最も重要な理念は、裁判の公正性である。この法は、合議体であるところの評定衆によって運用される。評定衆こそが、この法によって定められることが共同意志であることを保証している、と見なされた。
 御成敗式目の内容を少しだけ見ておこう。佐藤進一は、御成敗式目の全体は次の七つの項目にまとめられる、としている。一般に式目は五十一ヶ条とされているが、三六条から五一条は後年の追加部分なので、ここでは、三五条について整理されている。
  ・神社の事(1条)
  ・仏寺の事(2条)
  ・幕府と朝廷・本所(荘園領主)との関係(3~6条)
  ・裁判上の二大原則――不易法と不知行年紀法(7・8条)
  ・刑事法関係(9~11,32~34,12~17条)
  ・家族法関係(18~27条)
  ・訴訟法関係(28~31,35条)
 神社や仏寺のことから入っているのは、それまでは朝廷の支配していた神社や仏寺が関東では幕府の支配の下にあることを明文化し、幕府が朝廷と対等で、正統な支配者であることをはっきりさせるためである。三~六条も、幕府が任命権をもつ守護・地頭の権限を規定し、また訴訟についての幕府の権限の範囲を規定しており、武家政権が独立した権力であることを宣言するものだと言える。
 今しがた述べたように、御成敗式目の目的は、裁判の公正性――泰時の用いた言葉通りに言えば「道理」―-を確立することにある。それゆえ内容上の中心は七条からあとにある。どのようなものだったのか、その一端を理解するために、一条だけ紹介しよう。以下は二三条の現代語訳である。

 女が養子をとることについて。律令ではこれを認めていないが、頼朝の治世から今日まで、子のいない未亡人が養子を迎え、その養子に所領(夫から受け継いだ領地)を譲渡するのを認めた例はたくさんあり、すべてを数え切れないほどだ。のみならず、一般にそうしたことは広く行われ慣例にもなっている。女性の養子を認める評議の内容は信用に足るものである。

 この条文を含む複数の条文から、律令の公式の基底とは異なり、御成敗式目が女性の財産に対する大きな権利を認めていたことがわかる。
 このような法を定めたことは、日本社会の歴史の中で、まことに画期的なことであった。御成敗式目が、完全に固有法だからである。法制史には、固有法と継受法という区別がある。継受法とは、他国の法律を、自国の事情に照らして改変した上で継受した法律である。要するに、他国の法律を模倣して取り入れた法律のことだ。固有法は、その否定であり、自国で固有に定めた法律だ。日本社会には、それまで、継受法しかなかった。日本は、中国の律令を継受し、その上で、これを日本の国情にあわせて、ほとんど歪と言ってよいほどに変形して使ってきた。中国の律令と比較したとき、日本の法は、極端な削除と、極端な付加が施されてはいるが、律令という骨格なしには――たとえば公地公民制なしには――まったく機能しない。ちなみに、明治以降の近代法も、継受法である。それに対して、御成敗式目は、律令とはまったく独立している。無学で、漢字が苦手な武士でも、この法は理解できるようにできている。
 継受法だった律令が。増改築を複雑に繰り返してきた家のように、次々と変形してしまうのは、それのベースになっているアイデアが、日本人の秩序感覚と適合していないからであろう。それに対して、御成敗式目は、その後の影響の拡がりや浸透の程度から判断して、日本人の秩序感覚と非常によく合っていたということが分かる。御成敗式目は、一種の基本法のようなものになっていく。それは、室町時代にも、武家の法としての効力を持ち続けた。やがて、式目を伝写したり、研究したり、講釈する学者も出てくる。さらに公家すらも、式目を法として受け入れ始める。たとえば、清原家は公家ではあったが、式目研究の権威となり、優れた注釈書を著している。江戸時代には、式目は、教科書や教養書として普及したという。現在の「マンガ〇〇入門」に似た「絵入御成敗式目」のような通俗版が刊行されたり、寺子屋で教科書として用いられたりしたという。こうした状況は、明治時代のごく初期まで、つまり明治五年の学制公布の後もしばらくは続いていた。近代的な学校の確立ともに、御成敗式目は忘れられたが、それまでは、日本人の初等的な教養のひとつとなるほどに、広く深く浸透していたのである。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.36-46.

 御成敗式目については、高校で日本史の重要項目として教わった記憶はあるが、その内容と後世への影響について、あまり考えたことがなかった。それは、武士とくに鎌倉幕府の支配下にあった御家人に対する法規であって、一般に広く通用した法規範だとは思わなかった。しかし、現実に明治初期に至るまで日本人の日常的な紛争やもめごとに現実的な処方箋のもととなる考え方を提示していた、とすればそれを作った北条泰時は、たしかに革命家と呼ぶに値するのだな。


B.東京美術学校
 現在の東京芸術大学は、1887(明治20)年に設立された官立の東京美術学校と同じくできた東京音楽学校が、第2次大戦後の学制改革に伴い1952年に合併して、美術学部と音楽学部になった芸術系国立大学である。美術学校は、アメリカから東大に呼ばれたフェノロサと日本画の復興近代化を構想した岡倉天心によって、西洋の絵画ではなく日本の絵画を教える学校として出発した。しかし、1896年にはフランスから帰った黒田清輝を中心に洋画科が設置され、1998年に校長岡倉が排斥される事件が起き、洋画と日本画が並立する形へと変わっていく。
 ドイツから帰国した森鷗外が、この美術学校の教壇に立っていたということは知らなかった。それは1891(明治24)年というから、まだ洋画家ができる前で、教えていたのは美術解剖学だというから、身体構造の知識だったのだろう。漱石はイギリスでラファエル前派などを見ていて、美術にも後年いろいろ批評などを書いていたが、鷗外もそれなりに当時の美術界に注意を払っていたのだな。記念館での展示はまだ見ていないが、今度行ってみよう。
 
「千駄木の記念館で特別展 「教育者」鷗外に光 美術解剖学の資料など展示
 医学者で、西洋美術にも造詣があった文豪・森鷗外(1862~1922年)は美術解剖学などを学校で教えていたことがある。そんな、教育者としての側面に光を当てる特別展「教壇に立った鷗外先生」が鴎外の旧居跡に立つ文京区立鴎外記念館(千駄木1)で開かれている。 (押川恵理子)
 鴎外は1881(明治14)年の東大医学部卒業後、陸軍軍医となり、84年から88年まで衛生制度などを調べるためドイツに留学した。記念館司書の岩佐春奈さんは「留学先で美術や文学にアンテナあを張り巡らせたことが帰国後の教育活動になった」と話す。
 91年から東京美術学校(現東京芸大美術学部)で教壇に立ち、ドイツの学者の資料を参考に美術解剖学などを教えた。軍服姿の鴎外は学校で常に目立っていたという。
 当時の様子を伝える資料約100点を展示。鷗外から美学の講義を受けた彫刻家の高村光太郎が「尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた」とつづった随筆もある。慶応大の美学講師や陸軍軍医学校の校長などを務めた経歴、修身や唱歌の国定教科書の編纂といった功績も紹介する。
 また、文京区と金沢市が友好交流協定を結ぶ縁から、会期中、記念館のロビーでは能登半島地震の被災地を支援する「いしかわ復興応援マルクト」を開催している。石川県の珠洲焼などを販売。6月30日まで。午前10時~午後6時。」東京新聞2024年5月28日朝刊16面地域の情報欄。

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