小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

キリル・ペトレンコ バイエルン国立管弦楽団

2017-10-02 21:40:50 | クラシック音楽
バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』全3回の来日公演を終え、日本のオペラファンを大いに湧かせたキリル・ペトレンコ。
オペラ開幕前に行われた都民劇場でのマーラーを聴けなかった私は、既に完売していたNHK音楽祭2017のチケットをなんとか押さえ、NHKホールの上階席にチェックイン。オペラグラスを片時も離さず、ペトレンコとオケの放つ音ひとつたりとも聞き漏らさぬよう、戦々恐々と狛犬のように小鼻をふくらませていたのである。隣の席の方が心なしか少し怯えていたような気もする。
開演前に色々な方とお話をした。『タンホイザー』は二日目の演奏が一番良かったが、最終日はすごい盛り上がりであったとも。私が観た初日も素晴らしかったので、三日間とも素晴らしい出来だったのだろう。

オケピから陸に上がってきた(!)オーケストラは予想していたより若いメンバーが多く、今やどのオーケストラでもマジョリティになりつつあるアジア系の弦楽器奏者がほとんどいないのも意外だった(2ndVnに一人いらしたが)。指揮台のペトレンコは小柄で独特のオーラを放ち、その風貌はソクラテスなど古代の賢人を思わせた。現代の人には見えない。
マーラーの「こどもの不思議な角笛」は、あっと声が出そうになるほど軽やかなサウンドで、その軽さは今までこのホールでは経験したことがない種類の音だった。各パートは注意深く、ハーモニーにはたくさんの情報量が詰まっているのに全く「重く」ないのだ。薄いといえば薄いが、厚くなって当然のマーラーでこの薄さは新鮮で、薄衣のような全体の音から時折管楽器のはっとするような音色が飛び出してくる。このホールではどのオケも「鳴らそう」とするが、ペトレンコは別のことをするのである。大きいから注意をひくのではなく、興味深い音だから聴衆は耳を集中させる。新しい聴覚体験が浮き彫りにされた。
バリトンのマティアス・ゲルネは流石の表現力で、シンフォニーでは女声によって歌われる「原光」も、バリトンのほうが相応しいのではないかと思えた。とはいえ、ゲルネの声は「男性的」というより、もっと深くて大きい。ペトレンコの指揮はここでも歌手にとって、最高の呼吸を用意していた。

後半の演奏会形式『ワルキューレ』第一幕は驚きであった。『タンホイザー』にも登場したフォークト(ジークムント)、パンクラトヴァ(ジークリンデ)、ツェッペンフェルト(フンディング)が舞台に並ぶと、もうそれだけで有難くて頭が下がる想いなのだが、ワーグナーの「物語」の質感をこれほどリアルに感じた演奏もなかったのである。
作曲家が一幕の前半と後半で描いた「闇」と「光」のコントラストが、どんな視覚的演出によっても不可能なほど、音楽それ自体によって描写されていた。冒頭では、傷つき疲れ果てたジークムントが、休息を求めて流れ着いた薄暗い空間がありありと見えた。表情豊かな弦からは暗闇の中の湿気やパンくずや葡萄酒の匂いまで感じられるようで、ジークリンデがジークムントに好意をもって甘い蜜酒をもたらそうとした瞬間、白髪交じりのハンサムな首席チェリスト奏者が貴重な一音を鳴らした。
それは長き孤独と絶望の中にいたジークムントを一瞬で癒し、別世界へと運んでいくような優しい音で、首席の音に導かれて8人のチェリスト(全員男性)がオレンジ色の温かなアンサンブルを奏で始める。女性の温かさ、愛の芽生え、無限の癒しがもたらされた鮮やかな瞬間だった。
愚鈍なフンディングもまた眠りのような時間の中にいる。ジークムントが宿敵であると分かり、翌朝の決闘を申し込んだ後、彼はジークリンデの盛った眠り薬によってこんこんと眠らされる。しかし本当にぐっすり眠りたいのは疲労の極にあるジークムントのほうだったはずだ。

ペトレンコの左手が他の指揮者よりも際立って柔軟で、より活発で細やかな指示を与えているのが印象的だった。オケピの中を必死にのぞき込んで見ようとしていたものが、ここでは全部見えるのだから贅沢である。その左手で、前半ではオケに「もっともっと抑えて、水平に音を伸ばして」というジェスチャーを何度もした。空間に溶け込む音を、パン生地のようにこん棒で練り込んでいるようにも見えた。音量は控えめで、同時に驚くような奥行きを持ち、低弦は水を張ったビーカーに墨汁が流れ込むような黒々しい音を響かせた。

ジークリンデがジークムントの寝室を訪れ、自分の身の上話をするまでが「闇」と「眠り」の音楽で、二人がお互いに愛を認めると一気にサウンドは次元を変えた。ペトレンコの左手は水平運動から垂直運動に変わり、こらえていたエネルギーが解き放たれ、すべての音が光の歓喜を表し始めたのだ。愛の炎が大きくなると光はさらに眩しくなり、ジークムントが生まれてから双子の妹に会うまでの孤独が、殻を割ったように覆され、うねるような歓喜に震える。その瞬間が激越で、フォークトとパンクラトヴァの歌唱も最高だった。前半の闇のグラデーションと後半の光のグラデーションは、それぞれ完璧に二つに分かれ、異なるディメンションの世界を表示していた。演劇とはこのように瞬時に次元がトリップしてしまうものなのだが、演奏会形式のオペラでこんなに鮮やかな経験をしたのは初めてだった。

ペトレンコの音楽が特別なのは、彼が格別に霊感に恵まれた人だということ以上に、オーケストラが勤勉で好奇心旺盛であることが大きいのだろう。霊感と労働の賜物が魔法の正体だ。音楽そのものが丁寧に彫り込まれた彫刻の神殿のようで、突貫工事で作られた粗雑な箇所が全くない。ワーグナーにおいては「すべての音」が重要…それを時々忘れてしまうのは、巨大なテキストの細部に切り込んだ演奏をするのは物理的に不可能に近いからなのかも知れない。ところどころガタピシいったり、力任せだったり。その結果、深遠な物語世界に憧れはあっても「長大な」楽劇をすべて聴くことは苦痛に近いものになる。
ペトレンコとバイエルンの「ワルキューレ」の一幕は瞬く間の出来事だった。一度も飽きず、強く惹き付けられ、わくわくし、魅了された。最後がまた魔法のようで、しゅるしゅると時間の巻き尺が吸い込まれていくように終わった。茫然として驚き、貴重な演奏を聴いたという実感が時間差でジワジワきたのだった。会場に集まった満席のお客さんも同じだったのだろう。長い長いカーテンコールが続き、ペトレンコは何度も何度もステージに呼び出された。
「これがオペラだ」と信じていたものとは別に、もっと凄いオペラがカーテンの陰に隠れていた…そんなバイエルン国立管弦楽団の来日公演だった。ペトレンコとこのオケの組み合わせを聴けた日本の聴衆は、「ワーグナー」と聴けばこれを思い出すだろう。耳がすっかり変わってしまったはずなのである。

(写真はバイエルン国立歌劇場来日記者会見のとき、東京文化会館会議室で撮影されたものです)

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