小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ミュージカル『ビリー・エリオット』(9/30) 

2017-10-01 11:57:52 | ミュージカル

間もなく東京公演が千秋楽を迎えるミュージカル『ビリー・エリオット』の9/30の夜公演を赤坂ACTシアターで観た。7/20にプレビュー公演を観て、主役の子供たちの凄い演技と振り切ったエネルギー、大人たちの本気と音楽と物語の良さにすっかり骨抜きになってしまったが、二か月以上の公演を走り切ったキャストたちがどういう進化を遂げているか再度観てみたかった。
9/30のビリーは前田晴翔くん。プレビュー公演で観たのは加藤航世くんで、おばあちゃんの根岸季衣さん以外はほとんど別キャスト。役者が違うと物語の意味合いも少しずつ変わってくるので新鮮な刺激を得た。会場は超満員、立ち見のお客さんも大勢いて、ACTシアターの二階席から人が落っこちてきそうなほどの人、人、人であった。

ミュージカルはイギリスの戦後復興からサッチャー政権までを報道するモノクロのニュース映像から始まる。壁一面に映し出された殺伐とした映像をちょこんと見ているのはとても小さな「スモールボーイ」だ。『ビリー…』が夢物語ではなく、閉山に追い込まれた炭鉱の町を舞台にしたリアルな話であることを改めて思った。そこにいる大人の男たちは、皆重々しい怒りを抱えている。労働者としての誇りを奪われ、かつてのように生きられなくなった憤り…怒りの表現は恐ろしいほどの迫力で、今から遠くない過去にこんな「現実」があったことに心震えた。
音楽でも舞台でも、卓越したものを目の前にすると、その作品がこの世に誕生した意味というものを考えたくなる。古い時代が終わって、新しい時代がやってくる…『ビリー…』の作者はその変化の狭間にいる象徴的な少年を描いた。力強く荒々しい父親世代、妻として耐えるしかなかった母親世代とは全く別の可能性をもつ存在がビリー・エリオットだった。

30日は前から二列目の下手側ぎりぎりで観た。役者さんたちが走って通り過ぎ、その都度びっくりするような突風が飛んできた。一番驚いたのは、大人たちがみんな煙草を吸っているので、煙の香りがずっと漂ってきたこと。懐かしい香りだった。少し前まで、大人はみんな煙草を吸っていたのだ。抱えきれないほど重い現実につぶされないよう、大人は煙草で気を紛らわす必要があった。炭鉱の町の人々は、男も女も皆ワイルドで、今日を生きるために煙草と酒で憂鬱を吹き飛ばすのだ。
「今度生まれ変わったら誰かの奥さんなんかになるもんか」と歌うおばあちゃんはほとんどボケかけていて、カビの生えたミートパイを隠して一人で食べるのを楽しみにしている。灰色の閉塞感がキャンバスに絵具を重ねるように塗り描かれていく。
舞台の転換は鮮やかで、やはり私が好きなのはウィルキンソン先生のバレエ教室にボクサー姿のビリーが迷い込むシーンなのだ。柚希礼音さんのウィルキンソン先生はド派手でサディスティックで最高にスピーディで、レトロな70年代ファッションも素敵に着こなしている。バレエガールズたちはバーレッスンをやっていたかと思うと、タップダンスをはじめ、早変わりで衣装を変えると、白い羽をもって宝塚のレビューのような踊りもする。「食いしん坊トレイシー」の並木月渚ちゃんをもう一度観たくてこの公演に来たが、プレビューよりさらに動きがシャープになっており、脇役だと思っていたのに結構センターでの活躍が多かった。バレエガールズは全員素晴らしく、ジュリー役の近貞月乃ちゃん、スーザン役の女の子(久保田まい子さん?)もキレキレの演技。デビーの佐々木琴花ちゃんはすごい勢いで、ビリーとの掛け合いにもリズムがあり目が離せなかった。

この舞台はとても濃密に作られている…と実感した。600日にも及ぶ準備期間、オーディション、様々な挑戦を子供たちにクリアさせる忍耐強いプロセスにも驚くばかりだし、それを可能にした大きな心の力に計り知れないものを感じた。ビリー役には1346名が殺到し、450名、10名、7名、4名に絞られ後から1名が追加されたが、志半ばの少年を選別して落とす方も辛かっただろう。その中で勝ち残ったビリーにとっては、生涯でも特別な夏になったと思う。
前田晴翔君のビリーはダンスに爆発的なエネルギーがあり、歌は純粋で、芝居にユニークな説得力があった。前田ビリーは東京最後の日だったので、彼にも心に満ちるものがあったのだろう。ところどころ、アドリブ的な「溜め」もあったように思う。
ビリーはたくさんの登場人物と濃い絆をもつ。お父ちゃん、ウィルキンソン先生、おばあちゃん、親友のマイケル、死んだお母さん…それぞれと、全力で反発したり一体化していく演技が求められ、大人でもこんな難しい役は滅多にないと思う。
晴翔君には天才的なアンサンブル能力と、ソロで爆発する潜在力が両方そなわっていて、すべての場面を価値あるものにしていた。格別に美しいのは、未来のビリー~オールダー・ビリーとの踊りで、少年と大人の男性とのパ・ド・ドゥは恐らく世界でただひとつのものだ。栗山廉さんが美しい未来のビリーを踊り、二人のシルエットを追っていると夢の世界へ心が運ばれていくようだった。宙づりのシーンも見事だったが、オールダー・ビリーがビリーをリフトするとき、ビリーが相手役に余計な負担をかけないよう体重の配分を気遣っていたのに驚いた。これも練習で身につけた技術なのだろうか。

ロイヤルバレエスクールのオーディションに行かせてもらえず「母ちゃんなら行かせてくれた!」と叫んで踊るビリーのソロのシーンは絶句するほどの出来栄えで、気を抜くと大怪我をしてしまうような難しい振付を「危険なんかどこにもない」とばかりに踊った。八方ふさがりの現実を前に、魂がぺしゃんこになりそうなとき、自分もこんなふうに叫びをあげていたのだ…晴翔くんの勇敢さを前に、ぼろぼろと涙が出て仕方なかった。

このミュージカルを長らく「男性性と女性性の闘い」の物語だと思っていたが、この日の上演はもっと深いところまで見せてくれたような気がする。マッチョな炭鉱夫から、フェミニンな美意識をもつビリーが突如現れ、新しい世界へ羽ばたく…という解釈でもよかったのだが、舞台に現れる粗野で武骨な大人たちは、最初から本当に優しくて愛に溢れていた。変化したくない、生活を変えたくない…と闘う彼らは、絶滅種の鈍感人間ではないのだ。
「最初から心の中には愛があった。それを表わす方法を知らなかったのだ」というマッチョな男の心の内側を見せてくれたのは、お父さんを演じた吉田鋼太郎さんだった。舞台下手側の席で、吉田さんの得も言われぬ父の背中を見て、「ビリー…」に描かれている愛の本質が見えた。この席を与えてくれたのはミュージカルの神様だ…と子供のように思ってしまった。

大勢の子どもと大人の忍耐強い心、準備のための膨大な時間、作品への愛…日本版『ビリー・エリオット』は稀有の上演だった。英国の痛みを日本人が真剣に演じたことにも大きな価値がある…イタリア人のベルトルッチが『ラスト・エンペラー』を撮ったのと同じで、人間の心の痛みには境界はないのだ。街全体が辛い現実を抱えたまま、男たちがズボンの上からチュチュを履いて登場するラストシーンには「ミュージカルの勝利」を感じた。「泣くのは嫌だ、笑っちゃお!」というポジティヴな反撃、この魔法のような超越性と楽観こそが、ミュージカルの本質だ。冷たい風が吹きすさぶようなストーリーとまぶしい舞台のコントラストに、この作品が生まれた意味を改めて噛み締めた。















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