小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響×フランソワ=グザヴィエ・ロト(2/2)

2020-02-04 06:05:44 | クラシック音楽

ロトと都響の待望の2度目の共演。2/2のサントリーホールでの一日目を聴いた。前半はラモー オペラ=バレ『優雅なインドの国々』組曲とルベル バレエ音楽『四大元素』が演奏され、都響が古楽オーケストラさながらの典雅なサウンドを奏でた。ラモーもルベルもリュリの次の時代の作曲家だが、鈴の着いた不思議な形の打楽器(マエストロ持ち込み?)を見ると、映画『王は踊る』の冒頭で指揮棒を自分の足に突き刺して死んでしまった哀れなリュリを思い出す。ルベル『四大元素』では、冒頭の不協和音に驚かされた。ロトはずっと指揮棒なしだったが、大袈裟な動きは全くなく、鋭く電撃的なサウンドも最小限の動作で引き出す。『優雅なインドの国々』はソプラノのパトリシア・プティボンやダニエル・ドゥ・ニースが登場するDVDを一時期よく見ていたので親しみがあったが、『四大元素』は見るのも聴くのも初めてで、シンプルな拍節の中に奇妙に反抗的な世界観が封じ込められているのが新鮮だった。いずれの曲も細密画のように細かい弦楽器が美しく、都響のうまさを改めて実感した。

後半のラヴェル『ダフニスとクロエ』は組曲版ではなくバレエ版の全曲。これを前回聴いたのは2017年のパリ・オペラ座バレエの来日公演だったが、ピットに入っていたのがロトの生徒であるマキシム・パスカルだった。この「名演」はミルピエの振付よりも大きな話題になっていた感があったが…弟子を育てた師匠の音楽は、果たして凄いものであった。名演続きの都響のコンサートの中でも、記念碑的な名演だった。

ロトを初めて生演奏で聴いたのは2015年の読響の定期で、そのときからこの指揮者が独特の空間感覚を持っているという印象を抱いていた。読響とはブーレーズ『ノタシオン』より第1.7.4.3.2番、ベルク ヴァイオリン協奏曲『ある天使の思い出に』、ハイドン『十字架上のキリストの7つの言葉』(管弦楽版)という非常に変わったプログラムだったが、ロトの創り出す音像は垂直的で、カテドラルの窓から差し込む光のような縦長の空間を思い起こさせた。これは水平に広がる空間に親しんできた日本人的な感覚とは異質の、非常に西洋的なものだ。そこに強烈に神聖なるものを感じた。以来、ロトの音楽に夢中になり、彼が創設したレ・シエクルや、当時音楽監督を務めていたバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団の録音を買い求めて聴いた。レ・シエクルのサン=サーンスのオルガン付き交響曲はオルガニストである父上のダニエル・ロトとの共演で、この録音でも見事な「カテドラル式の縦型の音像」を再体験したのだ。

都響との『ダフニスとクロエ』でも、巨大な空間を体験した。音楽という現象自体が空気の振動なので、空間的であるのは当たり前なのだが、「空気が作る一瞬の建築物」としてのオーケストラをこれほどまで鮮やかに感じたのは稀なことだった。各パートは最小限の音から最大限の音まで、信じがたい精巧さと繊細さで表現するが、すべての音が自然の擬音を超えたピュアで厳密な音だった。内側から膨らんだ音像は、半透明の巨大な構築物になり、ありとあらゆる色彩に変化した。それがすべて、外側から見た空間ではなく、内側から経験する「室内」(あるいは胎内)のような空間に感じられたのが興味深かった。

指揮をしているロトの姿は、時折修行僧のようにも見えた。陽気にも陰気にも見える不思議な人物で、現世では解消しがたい業を背負っている魂にも見える。音楽を聴けば、大変な努力家で、刻苦勉励を重ねて音楽を分析してきた人だということが伝わってくる。しかしながら、音楽は謹厳さよりも楽しさ、重々しさよりも軽やかさが勝っている。イタリア語のレッジェーロ、フランス語ではレジェ、空気のごとき軽やかさがあり、『四大元素』とつなげるなら「風」の要素を強く感じさせるのだ。ロトがフルート奏者出身であり、「呼吸」を操る楽器で修練を積んだ音楽家だからなのかも知れない。『ダフニスとクロエ』では、誰よりもフルートのソロ・パートが見事であったが、長い長い呼吸感を要するシークエンスではマエストロから特別のアドバイスがあったのではないか…と想像してしまった。奇跡のフルートだった。

ラヴェルは危険な作曲家である…と今年一番に聴いたエリアス・グランディの『ボレロ』から思っていたが、『ダフニス…』はさらに際どく、聴き手は現世的な意識から一瞬で神秘的な意識へシフトしてしまう。奔放で無秩序なのではなく、厳密な秩序があるから神秘的なのかも知れない。ロト都響の共演では、初めて「ラヴェルの宗教性」というものを感じた。ブルックナーと対極の方法で、ラヴェルは独自の宗教性を表現している。神はみずからの内側にある…という真実を、五線譜に書かれた墨で証明しているのだ。

コンサートマスター矢部達哉さん率いる都響は、ゲスト指揮者に対してつねにフェアで、指揮者が十分な準備をして来なければ「ありのままの姿」を鏡のように映し出しす。ロトの知性にも都響はニュートラルに反応し、それが巨大で貴重なものであったことを演奏で返した。マエストロもこのオーケストラのエレガンスには舌を巻いたのではないか。合唱は栗友会合唱団。出来れば翌日の上野でも聴きたかった。一期一会の奇跡的な名演だった。


 

 

 

 

 

 

 


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