小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

深遠について エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 

2020-02-01 21:35:44 | クラシック音楽

池袋の東京芸術劇場で催されたサロネン×フィルハーモニア管の3日間のコンサート。3日間コンプリートするつもりだったが、1/28を欠席し、1/23と1/29の公演を聴くことができた。
1/23は、降板したチェリストのトゥルルス・モルクの代わりに庄司紗矢香さんがソリストとして登場し、シベリウス『ヴァイオリン協奏曲 ニ短調』を弾いた。目覚ましい演奏で、最初の一音に、冬の空に飛び立つ大きな鳥の姿を幻視した。神秘的でスケールの大きなサウンドで、演奏家の無限大に自由な境地を感じさせ、オーケストラとの一体感も卓越していた。庄司さんの演奏を聴いて失望したことは一度もないが、ここ数年は「どこまでいってしまうのだろう」という驚きばかりで、ヴァイオリニストの境地を的確に表す言葉が見つからない。1/28のショスタコーヴィチ『ヴァイオリン協奏曲第1番』を聴かれた方が「憑依的」と仰っていたが、なるほど音楽の神にとりつかれたような演奏といえないこともない。客席も陶酔のため息だったが、オーケストラも大いに触発されるところがあったのではないだろうか?

1/23は後半のストラヴィンスキー『春の祭典』も快演だった。フィルハーモニア管はサロネンを2008年からリーダーとして迎え、2021年からはサントゥ=マティアス・ロウヴァリがこの座を引き継ぐが、まだまだサロネンとの蜜月時代は続いている…と思わせた。バレエ・リュスの『春の祭典』の初演で、パリの聴衆が暴徒と化した…というエピソードを思い出す。当時の人々からしてみれば「平和な気分」を著しくかき乱す、バーバリアンの音楽に聴こえたのだろう。不協和音と変拍子が次から次へと鼓膜を刺激する。バレエ・リュスのあとモーリス・ベジャールはこの曲に「鹿の交尾の映像からヒントを得た」傑作バレエを振り付けている。
ホールを満たす音量はほぼ限界に達するほどで、サロネンの指揮もスポーティ(?)で逞しい。金管とコントラバス、打楽器の精巧さに舌を巻く。ティンパニ群の職人芸は演奏というより射撃のようで殺気があり、次から次へとめまぐるしく変化していくリズムに一矢の乱れもなかった。サロネンは、太古の生贄儀式の音楽に、オーケストラの未来性を掛け合わせて、最先端のストラヴィンスキーを聴かせた。

1/28の「火の鳥」を聴けなかった無念を抱えつつ、1/29はサロネン作曲の『ジェミニ』(日本初演)を前半に聴いた。1曲目のタイトルが『ポルックス』で2曲目が『カストール』だが, ポルックスとカストールとはちょうど今頃の季節にオリオン座の上に見える双子座のふたつの星で、ポルックスが弟で、カストールが兄。ジェミニとは「双子座」の意である(余談だが、サロネン自身は蟹座)。プログラムノートにはこの二つの恒星にまつわる神話がベースになっていることが記されていたが、曲の質感からはむしろガスの塊である木星の縞模様のようなヴィジョンが浮かんだ(ポルックス)。天体を素材にしていることと関係しているのか、ところどころホルストの「惑星」を思い出した。コンセプトは恐らく違うが、あのセゲルスタムも天体の音楽をたくさん書いている。ステージには和太鼓も置かれ、それがどのような効果を及ぼしていたかは理解しかねたが、オケはこの曲でもダイナミックなサウンドを聴かせ、特に2曲目の「カストール」は一心不乱に弓を震わせる8人のコントラバス奏者の真摯な表情が心に焼き付いた。

今回の来日公演で、一番楽しみにしていたのが最後のマーラー『交響曲第9番 ニ長調』だった。前回の来日公演で素晴らしいマーラー『交響曲第6番《悲劇的》』を聴かせてくれたこともあり、記念碑的な名演になることを予想していた。結果から言うなら、期待は外れた。サロネンはこの曲をオーケストラの機能性に頼り、内容に関しては「これ以上自分が関わっても答えが出ない曲」として扱っていたように聞こえた。感想は個々の聴衆によって異なると思うが…マーラーの9番とチャイコフスキーの6番は、そこで指揮者に求められる究極の内面性というものがあると思う。なんといっても、この2曲を苦しんで書き終えた後、作曲家たちは本当に死んでいるのだ。狂言や芝居ではない。そのことについて、指揮者は自分の側からの回答を返さなくてはいけない。他の曲ならその必要はなくても、この2曲だけは…「踏み絵」のような作品だと思う。

ヤンソンスがバイエルン響との来日公演で最後に聴かせてくれたマーラー9番は、途轍もないものだった。どういう管でどういう弦か、など細々と説明できないが、曲に対する明らかな「正解」があり、ヤンソンスが特別な指揮者であり、特別な人間であることを実感したひとときだった。オーケストラの献身も尋常ではなかった。世の中に指揮者は大勢いるが、一流と超一流を隔てる壁を感じるのはチャイ6やマラ9のような曲においてだ。9番に限らず、マーラーを指揮する際の最大の過ちは、エリーティズムが横溢する軍隊音楽としてオケを「コマンド」することで、そういう指揮者はコンダクターではなく、コマンダーと呼びたくなる。本当に大型機をコマンドするために航空会社に入った指揮者もいた。
いずれの指揮者にもファンはいて、さまざまなチャームポイントがあるので言葉を選ばなければならないが、サイモン・ラトルがベルリン・フィルにいられなくなってしまったのも、マラ9のような音楽に対するアンサーが脆弱だったからではないのか。ラトルも未来的で、音響的で、オーケストラのエリート的な機能性を愛する指揮者だ。

マーラーの9番はこれ以上ないほど退嬰的な音楽で、生存に対する、矜持に対する敗北宣言なのだ。愛する相手から全否定される絶望、時代から取り残されていく焦燥、すっかり弱弱しくなった自分の肉体への失望が、ひとつのモティーフをいくつもの楽器が助け合いながらようやく歌い上げる。主旋律がたくさんの楽器の間をパスされていくのであるが、球を受け取った楽器は弱気にへたりこんだり、勢いをつけて飛び跳ねたりして、結局何も成就しない。サロネンの自作曲に漂う「気分」や、インタビューでの未来志向な発言などから、サロネンにとってマラ9は、どうも料理しづらい悩みの種だったのではないかと思う(それゆえに、果敢なヒーローである彼はこの曲に取り組んだのだろう)。6番『悲劇的』では、オケの左右から攻め込むようなデラックスなステレオサウンドが、マーラーの「いやな予感」を見事に音響化していた。内容的にも違和感はなかったのだが…9番ではサロネンは、オケの優れた「機能美」「推進性」に半分力を預けて、爆音のカタルシスと休符の巧みさでスポーティに乗り切っていた。爪をはがされた手で擂り鉢状の牢獄から這い出ようとしてる音楽に「スポーティ」は似つかわしない。

もちろんサロネンは聡明な指揮者であり、自家用セスナの操縦席に座ってレバーやボタンを操作するような音楽は作らない。プレイヤーたちの真剣な表情を見れば、どのようなリハーサルを行ってきたかは想像できる。冷静な視点から「音楽が求めてくる一体化に、自分は魂を差し出すことは出来ない」と決断したサロネンは、むしろ潔かったともいえる。4楽章の終わりの、モルト・アダージョに入る前の第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが奏でる、断末魔のような4つの下降音に望みをかけていた。ここで、指揮者が本当にこの曲をどう扱っていたかが分かる…果たして、信号音のような4つの音が素っ気なく下降した。

今回の来日公演ではサロネンのチャームポイントは、ストラヴィンスキーに集約された。煩瑣なスコアのすべてを明晰に浮き上がらせ、閃光的な直観で一筋の光の道を作り上げる技術は天才的だ。現存する指揮者でも彼ほどの実力者はいないだろう。未来と古代を結びつける見事な「春の祭典」を聴かせたサロネンには、退嬰的なマーラーもまだまだ究めてほしい。作曲の時間を作るために指揮者を引退するのは、10年後であってほしいと望むばかりだった。


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