日本フィルハーモニー交響楽団の第700回特別記念東京定期演奏会をサントリーホールで聴いた(5/18.19)。桂冠指揮者兼芸術顧問のアレクサンドル・ラザレフがストラヴィンスキーの『ペルセフォーヌ』を日本初演することで半年以上前から話題になっていた公演。両日ともほぼ満席で、ホールは微かに上気した雰囲気に包まれていた。
前半はプロコフィエフの『交響的協奏曲』。日フィルのソロ・チェリスト辻本玲さんがソリストとして壇上に上った。日フィルは先日インキネンのワーグナーを聴いたばかりだが、ラザレフのもとではオケのキャラががらりと変わることを改めて実感する。低音が迫力を増し、木管とヴァイオリンがきらきらと華麗になり、打楽器はパワフルかつユーモラスで、なんというか…非常に「雌雄がはっきりした」音楽になる。楽器に雄と雌をつけるのも奇妙だが、逞しい音の上にきらびやかな音が載って、構築的でゴージャスな響きになるのだ。
ラザレフはグラズノフのバレエ音楽も日フィルと演奏してきたが(ラザレフによるとチャイコフスキーよりずっと完璧なバレエ音楽を書いたのがグラズノフだという)、バレエというのも「男女」の音楽で、強くて勇壮な音は男性のステップに相応しく、綺麗で可愛い音は女性に相応しい。
前半のプロコフィエフはところどころ『ロミオとジュリエット』を彷彿させるので、後半の『ペルセフォーヌ』とのつなかりは「バレエ音楽」ということなのかも…と考えた。辻本さんのソロは真っ直ぐで凛々しく、18日と19日では18日のほうが調子が上だったように感じたが、両日とも名演だった。
後半の『ペルセフォーヌ』では、テノール歌手のポール・グローヴス氏とナレーションのドルニオク綾乃さん、晋友会合唱団と東京少年少女合唱隊がステージに上がった。P席を大人の合唱が占め、二階L側の奥の客席に少年少女たちが配置されていた。
『ペルセフォーヌ』は新古典主義時代のストラヴィンスキーがダンサーのイダ・ルーヴィンシュタインの委嘱で書いた作品で、音楽の明瞭さやピアノのカチカチした響きはニジンスカがバレエ・リュスに振り付けた『結婚』を想起させる。仄暗く幻想的で、始原のうごめきを暗示する独特のテクスチャーだ。作家のアンドレ・ジッドがギリシア神話をベースに書いたテキストを、女性のナレーターが朗読する。
言葉というのはとても強く、字幕に現れるギリシア神話の世界を追いかけようとすると、音楽をすべて聞き取るのがおろそかになり、言葉も神々の名前がたくさん出てきて字幕を覚えきれないので、二日間聴かせていただくことにした。18日も大いに感銘を受けたが、理解力が少しばかり深まったためか、19日は格別の演奏に感じられた。
『ペルセフォーヌ』はバレエ音楽に相応しくなかった…という説もあるが、この世界観はバレエのもので、バレエ・リュスの末裔であるバランシンが振り付けた『ミューズを導くアポロ』などの新古典的な作品を思い出した。ストラヴィンスキーは時代を遡行する。無調や12音の当時の主流に目をくれず、音楽の生き残る道は古代の旋法とつながっていると直観した。『ペルセフォーヌ』が書かれたのは1934年で、既に世界は最初の大戦を経験しており、ストラヴィンスキーは音楽で現代文明批判…化学兵器や大量殺戮兵器の登場を予知した警告をしているようにも思えた。
ニンフを歌う女声合唱が香り立つような声だった。花々のさざめきのような、ミステリアスな霊魂のネットワークを想像した。動物というより植物のようで、分割が死ではなく繁殖である(株分けのような)生命体を表現していた。男声テノール合唱とバリトン合唱も精緻で香り立つキャラクターで、ソロで何役もこなすポール・グローヴスと素晴らしい掛け合いだった。グローヴスはMETや欧州で活躍する歌手らしいが、二日間続けてあの役を歌うのは大変な負担だっただろう。両日とも良かった。
ナレーションのドルニオク綾乃さんは水色のドレスを着て、マリインスキー・バレエのバレリーナのように美しく、優雅なお姫様のペルセフォーヌを若々しく演じた。二日目はかなり勢いよくはじまり、フランス語の溌溂とした声が昔のブリジット・バルドーにそっくりだった。金髪になる前のBBは皇帝ネロの愛人や芸術家のミューズをよく演じていたのだが、そのことも急に思い出された。
児童合唱はかなりたくさんのフランス語の歌詞を歌っていたが、録音で聴くどの『ペルセフォーヌ』よりも完成度が高かった。透明感があり、まさに神々の神殿に響き渡る声で、数えてみると少年は少女に比べて人数が少ないのだが、特別に際立つボーイソプラノが何人かいた。もちろん少女たちも素晴らしい。カーテンコールでラザレフは指導の長谷川久恵先生をひしと抱きしめていたが、この児童合唱の出来栄えはかなりハイレベルだったのではないか。
オーケストラは機知に富み、いくつかのシーンでストラヴィンスキーの中のヴェルディをあぶり出した。『オイディプス王』は『アイーダ』からの借用の旋律や和声があるが、『ペルセフォーヌ』にもヴェルディが隠れていた。フィリップ・グラスがストラヴィンスキーから多くの霊感を得ていたことも知る。いくつもの薄いヴェールが重なり合うミステリアスな世界で、香り立つ気品は高級な白葡萄酒のように耳を酔わせた。神たちの名前がシャガールの絵画のように無重力のオブジェとなって浮遊し、その中には私が占星術で扱うプルートやメルキュールもいた。
ペルセフォーヌとは、神話の中の女性意識であり、女性の中の神話意識だ。春の女神として生き、半分は悲しき存在への同情ゆえに冥界の女神として生きる。それが四季の起源だという。ストラヴィンスキーの豊饒な夢が毎秒ごとにホールで飛沫をあげた。
ラザレフはいつもの「客席ふりむき」もあり、終演後はバッカス神のように陽気になり、700回の祭りごとを仕上げて見せた。「祭り」と「祀り」をかけたのだろうか。
こんなにも粋で、太っ腹で、凄いマエストロが日本のオーケストラを愛していることが嬉しかった。
まるで巨匠のいたずら心で実現したかのような魔法の公演は、馥郁とした香りをふりまいて幕を閉じたのだった。

前半はプロコフィエフの『交響的協奏曲』。日フィルのソロ・チェリスト辻本玲さんがソリストとして壇上に上った。日フィルは先日インキネンのワーグナーを聴いたばかりだが、ラザレフのもとではオケのキャラががらりと変わることを改めて実感する。低音が迫力を増し、木管とヴァイオリンがきらきらと華麗になり、打楽器はパワフルかつユーモラスで、なんというか…非常に「雌雄がはっきりした」音楽になる。楽器に雄と雌をつけるのも奇妙だが、逞しい音の上にきらびやかな音が載って、構築的でゴージャスな響きになるのだ。
ラザレフはグラズノフのバレエ音楽も日フィルと演奏してきたが(ラザレフによるとチャイコフスキーよりずっと完璧なバレエ音楽を書いたのがグラズノフだという)、バレエというのも「男女」の音楽で、強くて勇壮な音は男性のステップに相応しく、綺麗で可愛い音は女性に相応しい。
前半のプロコフィエフはところどころ『ロミオとジュリエット』を彷彿させるので、後半の『ペルセフォーヌ』とのつなかりは「バレエ音楽」ということなのかも…と考えた。辻本さんのソロは真っ直ぐで凛々しく、18日と19日では18日のほうが調子が上だったように感じたが、両日とも名演だった。
後半の『ペルセフォーヌ』では、テノール歌手のポール・グローヴス氏とナレーションのドルニオク綾乃さん、晋友会合唱団と東京少年少女合唱隊がステージに上がった。P席を大人の合唱が占め、二階L側の奥の客席に少年少女たちが配置されていた。
『ペルセフォーヌ』は新古典主義時代のストラヴィンスキーがダンサーのイダ・ルーヴィンシュタインの委嘱で書いた作品で、音楽の明瞭さやピアノのカチカチした響きはニジンスカがバレエ・リュスに振り付けた『結婚』を想起させる。仄暗く幻想的で、始原のうごめきを暗示する独特のテクスチャーだ。作家のアンドレ・ジッドがギリシア神話をベースに書いたテキストを、女性のナレーターが朗読する。
言葉というのはとても強く、字幕に現れるギリシア神話の世界を追いかけようとすると、音楽をすべて聞き取るのがおろそかになり、言葉も神々の名前がたくさん出てきて字幕を覚えきれないので、二日間聴かせていただくことにした。18日も大いに感銘を受けたが、理解力が少しばかり深まったためか、19日は格別の演奏に感じられた。
『ペルセフォーヌ』はバレエ音楽に相応しくなかった…という説もあるが、この世界観はバレエのもので、バレエ・リュスの末裔であるバランシンが振り付けた『ミューズを導くアポロ』などの新古典的な作品を思い出した。ストラヴィンスキーは時代を遡行する。無調や12音の当時の主流に目をくれず、音楽の生き残る道は古代の旋法とつながっていると直観した。『ペルセフォーヌ』が書かれたのは1934年で、既に世界は最初の大戦を経験しており、ストラヴィンスキーは音楽で現代文明批判…化学兵器や大量殺戮兵器の登場を予知した警告をしているようにも思えた。
ニンフを歌う女声合唱が香り立つような声だった。花々のさざめきのような、ミステリアスな霊魂のネットワークを想像した。動物というより植物のようで、分割が死ではなく繁殖である(株分けのような)生命体を表現していた。男声テノール合唱とバリトン合唱も精緻で香り立つキャラクターで、ソロで何役もこなすポール・グローヴスと素晴らしい掛け合いだった。グローヴスはMETや欧州で活躍する歌手らしいが、二日間続けてあの役を歌うのは大変な負担だっただろう。両日とも良かった。
ナレーションのドルニオク綾乃さんは水色のドレスを着て、マリインスキー・バレエのバレリーナのように美しく、優雅なお姫様のペルセフォーヌを若々しく演じた。二日目はかなり勢いよくはじまり、フランス語の溌溂とした声が昔のブリジット・バルドーにそっくりだった。金髪になる前のBBは皇帝ネロの愛人や芸術家のミューズをよく演じていたのだが、そのことも急に思い出された。
児童合唱はかなりたくさんのフランス語の歌詞を歌っていたが、録音で聴くどの『ペルセフォーヌ』よりも完成度が高かった。透明感があり、まさに神々の神殿に響き渡る声で、数えてみると少年は少女に比べて人数が少ないのだが、特別に際立つボーイソプラノが何人かいた。もちろん少女たちも素晴らしい。カーテンコールでラザレフは指導の長谷川久恵先生をひしと抱きしめていたが、この児童合唱の出来栄えはかなりハイレベルだったのではないか。
オーケストラは機知に富み、いくつかのシーンでストラヴィンスキーの中のヴェルディをあぶり出した。『オイディプス王』は『アイーダ』からの借用の旋律や和声があるが、『ペルセフォーヌ』にもヴェルディが隠れていた。フィリップ・グラスがストラヴィンスキーから多くの霊感を得ていたことも知る。いくつもの薄いヴェールが重なり合うミステリアスな世界で、香り立つ気品は高級な白葡萄酒のように耳を酔わせた。神たちの名前がシャガールの絵画のように無重力のオブジェとなって浮遊し、その中には私が占星術で扱うプルートやメルキュールもいた。
ペルセフォーヌとは、神話の中の女性意識であり、女性の中の神話意識だ。春の女神として生き、半分は悲しき存在への同情ゆえに冥界の女神として生きる。それが四季の起源だという。ストラヴィンスキーの豊饒な夢が毎秒ごとにホールで飛沫をあげた。
ラザレフはいつもの「客席ふりむき」もあり、終演後はバッカス神のように陽気になり、700回の祭りごとを仕上げて見せた。「祭り」と「祀り」をかけたのだろうか。
こんなにも粋で、太っ腹で、凄いマエストロが日本のオーケストラを愛していることが嬉しかった。
まるで巨匠のいたずら心で実現したかのような魔法の公演は、馥郁とした香りをふりまいて幕を閉じたのだった。
