小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

エンリコ・パーチェ(5/3.5/4.ラ・フォル・ジュルネ)

2018-05-15 01:31:03 | クラシック音楽
GW3日間に都内二か所で開催されたラ・フォル・ジュルネ東京が終わって一週間以上が経つが、「亡命」をテーマにした今年の開催の中で忘れ難い公演がいくつかあった。153席の会議室で行われたピアニストのエンリコ・パーチェのリサイタルはそのひとつで、演奏の充実度も聴衆の集中度もずばぬけて素晴らしいものがあった。
このエンリコ・パーチェ氏、2013年からトッパンホールで何度か聴いているが、フランク・ペーター・ツィンマーマンやレオニダス・カヴァコスの伴奏者としてで、ソロでは一度も聴いたことがなかった。ツィンマーマンもカヴァコスも彼ら目的で出向いたのに、気づけば伴奏者のやることに意識が集中して、いつの間にか弦楽器が脇役のように聴こえてしまっていた。
パ―チェは歴史上の音楽家のようなカリスマ的な外貌の持ち主で、演奏中は炎のように音楽に没頭したかと思えば、ひんやりとした静寂を醸し出したりとイメージ喚起力が多彩。テクニック的にもかなり高度なピアニストだという認識があった。

「デスノス」と名付けられた会議室ホールは天井が低く客席が極端に横長で、音響的にはかなりデッド。リスト「詩的で宗教的な調べ」から「祈り」を弾き始めたパ―チェの音は、この空間のアコースティックに相応しくないほど深遠でドラマティックな響きだった。大きくてしなやかな両手は鍵盤の上を舞う白鳥のようで、リスト特有のffの左手の連打も全く割れず、教会の鐘を連想させる清冽な和音の表現も美しい。聖なる音楽を聴いている心地がした。
2番目に演奏された「死者の追憶」から、何かただならぬピアニストの美意識を感じずにはいられなかった。「眠りから覚めた子への賛歌」ショパンの死に捧げた「葬送曲」と演奏は続くが、いずれも音楽の骨格が大きく、壮麗な和声感があり、弱音は芥子粒のように小さく小さくなるが、強音はシンフォニックで大編成のオーケストラの響きを連想させる。半音階で奈落へ落ちていく左手は、低弦の唸りのような迫力があったし、すべてのフレーズが台詞のようで、大袈裟ではない演劇性を帯びていた。

10曲目の『愛の賛歌』はワーグナーのトリスタンを思わせる歌い出しで、そこでこのピアニストが表している音は「すべてが美しい」ことに気づいた。究極の美を目的にしていない音がひとつもなかった。ある音の持続が次のパッセージへと続いていくとき、聴いているほうに独特の焦燥感が走る。美しすぎて息が出来ない。リストがそういう曲を書いたのだろう。しかし、実際にすべての効果を高めていくためにはかなりの研究が重ねられたはずだ。
夥しい音の裏に静寂を併せ持ち、それは静寂であると同時に真空であるとも感じさせた。膨大でカタストロフィックな音が鳴り響いているのに、ピアニストはどこか冷静で淡々としているのだ。悪魔的な香りもするピアニズムで、リストの両面性…若きは放蕩の限りを尽くし、晩年は僧として生涯を閉じた作曲家の二極性を始終「矛盾なく」感じさせた。テクニカル的にも、ピアノという楽器の効果を、これほどまで斬新に感じさせてくれる演奏家は初めて聴いたような気がする。客席には、二時間後に5000席のホールでショパンのピアノ協奏曲第1番を弾くはずのルーカス・ゲニューシャスがいて、感慨深そうな表情で一部始終を聞いていた。

エンリコ・パーチェは謎めいたピアニストで、なぜこんなにも聴衆を熱狂させる演奏家が日本では伴奏ピアニストとして認識され、一番小さな会場で演奏しているのかが不思議だった。ヨーロッパではメジャーなホールでも演奏しているようだが、なんだか本人が「それほど派手な演奏家にはなりたくない」と企んでいるようにも感じた。ソロリサイタルの翌日にはチェリストのヤン・ソンウォンとのデュオを聴いたが、近年のパ―チェがサロン的な空間での室内楽の演奏に夢中になっている理由が納得できた。相互作用が素晴らしく、ピアノが弦を触発している。カヴァコスのときにも感じたが、ピアニストが弦楽器ソリストを完璧に導いていて、知らないことを教えてあげているふうなのだ。いわば、指揮者とプレイヤーの関係で、カヴァコスもソンウォンもパ―チェの指導を受けているのだと思った。
ゲルギエフと共演しているときのカヴァコスと、パ―チェと一緒のときのカヴァコスは思えば別人のようだった。ピアニストの哲学に染まることを是認しているような演奏で、チェリストのソンウォンとの組み合わせも然りだった。皆、パ―チェのもとで成長したくてやってくるのかも知れない。
パ―チェ自身が、「二人で響かせること」が好きなのだということもデュオ公演では伝わってきた。無限のケミカルと色彩のヴァリエーションがあり、官能的といっていいほど激しい火花散る瞬間もあった。

チェリストは文句なしの熱演だったが、やはりここでもパ―チェの音に…そして演奏中のただならぬ瞑想の姿に釘付けになってしまった。ラフマニノフの『チェロ・ソナタ ト短調』では二人とも火のように燃えていたが、その情熱をどこか突き放してみているピアニストの冷静さがあらゆる瞬間に感じられた。同時に、驚くほど愛情深く、あの防空壕のような(!)天井の迫ってくる会場も、そこに集まった聴衆も、演奏会の時間も、すべて愛しうる限り愛していた。その愛が音の透明感となり、芳しい香りとなり、ときに電撃的な火花のように色鮮やかに飛び散った。
美についてあまりにたくさんのことを知っているピアニストなのだ。こんな人を見つけてしまい、驚きに眩暈して熱に浮かされているような日々を送っている。マーラーは交響曲第三番を書いたとき、助手をしていたワルターに「自然の優美さをすべて曲にしたぞ」と自慢していたというが、音楽には確かにそういうところがある。
パ―チェの音楽の美は、自然の美や星や太陽や子供や女性の美よりも美しいのだ。少なくとも、そう言い切ることが自分の人生には相応しいように思えた。たくさんの美は要らない。そう思うと、新緑も青空も夕焼けも若い女性たちも色褪せて見える…そんな演奏会だった。

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