小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『フィデリオ』(新演出)

2018-05-27 11:19:21 | オペラ
新国『フィデリオ』を観賞(5/24)。カタリーナ・ワーグナーによる新演出で、初日から終末部分の読み替えが大きな話題になっていたプロダクションである。新国立劇場オペラ芸術監督の飯守泰次郎さんとバイロイト音楽祭総監督のカタリーナ・ワーグナーとの悲願の共作、それも日本での新制作ということで大きな期待が集中したが、ゲネプロは非公開で、カタリーナ氏を囲む記者懇親会でいくつかの上演のヒントを与えられたものの、どういうドラマになっているのかは蓋を開けてみるまで分からなかった。
このオペラに対する愛着はそれぞれで、感想も百人百様だと思うが、個人的には非常に卓越した上演を観たという満足感があった。レオノーレとフロレスタンは脱出に失敗し、ドン・ピツァロに瀕死の刺し傷を与えられて夫婦で息絶えるというドラマ。従来的な「善は勝ち、悪は滅びる」という大団円とは正反対の終わり方なのだ。その読み替え(書き換え)は入念にさまざまな段階を経て、非常に洗練された形で観客に提示された。少なくとも、悪ふざけや驚かしの演出などではなかった。

巨大な装置は三層に分かれ、上階の右側の空間ではレオノーレが思いつめたように女性の肌着の上に看守の制服を着て、蓬髪を断髪の鬘に隠し込む。上階の真ん中では男装したレオノーレ=フィデリオに恋するマルツェリーネが人形遊びをしている。ピンクの壁紙には「pretty」「little」「lovely」などという文字が書かれ、ティーンエイジャーの部屋のようだ。そこにジャキーノが「結婚してくれよ」とちょっかいを出す。この冒頭の場面はモーツァルトのブッファそっくりで、ベートーヴェンといえどオペラでは天才モーツァルトを規範にせずにはいられなかったのかと可笑しくと思う。マルツェリーネの石橋栄実さん、ジャキーノの鈴木准さんが若者の恋の際宛てを好演。下の暗い空間は地下牢で、上でブッファ的になやりとりが行われているときも、暗闇の中でフロレスタンは岩に天使の絵を描いている。衰弱と闘いながら憑かれたような表情で、岩のすべてに天使の姿を書き込んでいるのだが、囚われた人間の孤独と狂気が静かに描写されていて恐ろしい雰囲気だった。上階の右側は看守の指令室のような空間になっていて、ドン・ピツァロやロッコが出入りをする。最下層には大勢の囚人がうごめいている。装置は巨大で圧倒されるようだった。

リカルダ・メルベートのレオノーレとステファン・グールドのフロレスタンは素晴らしく、この二人が出ているせいかワーグナーオペラの次元を想像せずにはいられなかった。最初からもうこの「フィデリオ」は「トリスタンとイゾルデ」なのではないか。死んでいるのかも知れない夫の生存に一縷の望みを賭け、監獄へ乗り込む…という筋書きはオペラが書かれた当時に流行っていたという「救出劇」の典型だが、それよりもこの設定が、本能的に「究極の愛と死」に向き合っている男女の試練に思われたのだ。フロレスタンは少しずつ食事を減らされ、衰弱死させられようとしている。妻は夫を見つけ出してすべてを与えて蘇生させたいと思う。その熾烈な感情がメルベートの歌唱から湧出していて、「あなたを癒したい」という歌詞が狂気に近い愛の渇望に聴こえた。本能的な性愛を暗示しているようにも感じられたのだ。
オペラは深刻味をどんどん増し、成敗されるはずの総監ドン・ピツァロはフロレスタンとレオノーレを刺し、二人は致命的な傷を負う…これはまるで『トスカ』だ。スカルピアがトスカを刺すのだ。夫婦の愛の凱歌は裏切られたトスカとカヴァラドッシのデュエットと二重写しになった。ピツァロの暴行によって『フィデリオ』はどんどん暗転し、瀕死の夫婦はピツァロが楽し気に積むレンガの堆積によって外側から生き埋めにされる。これはまるでヴェルディの『アイーダ』のラストではないか。確かに、ベートーヴェン亡き後、オペラは『アイーダ』と『トスカ』を生み出した。後戻りはできないということなのだろう。

救出劇の大団円が残酷なエンディングへ突入することで、従来版とは違う大きなエモーションが巻き起こったが、それはレオノーレとフロレスタンの「死に至る愛」のエクスタシーだった。ベートーヴェンの『フィデリオ』はどこか真面目腐った、中途半端な勧善懲悪劇のようなところがある。ラストの大団円はホームドラマのようだ。カタリーナ・ワーグナーの大胆な読み替えのもとでも、歌詞と音楽は変わらない。すべての意味が反転し、アイロニカルなものになる。夫婦の愛の勝利は「この悪が栄える地上では叶わないが、あの世で再び夫婦になろう」という祈りになるのだ。それは意外な驚きであると同時に、ベートーヴェンの作曲家としての魅力を「正しく」提示してみせた瞬間だった。

初日の数日前に行われたカタリーナ・ワーグナーを囲む懇親会では「われわれはドイツ的なものをあなたに期待しています」という記者からの発言に対して「ドイツ的ってたとえばどういうものですか?」「我々が意識せずにドイツ的なものを表現しているとしたら、逆に教えて欲しい」という彼女からの強めの反論があった。時代設定を特に決めず、権力とは何かを描きたい…という彼女のトークからは、外側からきめられた役割ではなく、内側から感じる演劇を作り出したいという情熱が感じられたが、一方で「リヒャルト・ワーグナーのひ孫」という巨大な「ストーリー」は彼女の宿命としてついて回る。「それでも」というか「だからこそ」というか、世界全体を劇場にして、カタリーナにしか出来ない英断というものが可能になるのだ。
読み替えが、原作への無関心や愛情のなさの証明だというのは誤解で、本当に作品や作曲家に対して愛着を持っていないと、みすみす返り血を浴びるようなリスクは取れない。音楽の高まりが登場人物の死のカタルシスと融合してオペラは完成する…という知恵を、演劇人の采配によって大作曲家に捧げたかったのだと認識した。

飯守泰次郎氏と東京交響楽団はドラマのスケールと機微を顕した名演で、このプロダクションでは新国立劇場合唱団のハイレベルな合唱に度肝を抜かれた。特に囚人たちの男声合唱の「霊力」とも呼びたい響きは、ベートーヴェンの唯一のオペラでしか聴くことのできない、貴重なものだったと思う。血も涙もない極悪人ドン・ピツァロを演じたミヒャエル・クプファー=ラデツキー、要所要所で和みを与えてくれるロッコの妻屋秀和氏も最高の出来栄えで、歌手たちにも非の打ち所がなかった。少し前の深作「ローエングリン」のときに「演奏はいいが演出は…」という人たちがいたが、新制作を準備している指揮者と演出家の姿を見れば、音楽と演出が分かちがたく一体化していることは明白なのだ。どちらかだけがよい、という評価を私は信じない。ドラマの構想がこの音楽性を引き出したのだ…と確信している。劇場の英断に感謝。『フィデリオ』は5/27.30.6/2にも上演が行われる。








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