カンブルラン読響、シーズン開幕の3つめのプログラムはアイヴズ『ニューイングランドの3つの場所』とマーラー『交響曲第9番』。既にベートーヴェン、ストラヴィンスキーを中心とした2つの演奏会で、オケと指揮者の9年間の驚異的な達成を聴かせてくれたが、最後のマーラー・プログラムは決定打となる「外れなし」の内容だった。コンサートマスターは小森谷巧氏。
アイヴスの『ニューイングランド…』は嵐の前の曇天の空のような不安な響きで、『ボストン・コモンのセント・ゴードンズ』は瞑想的な音楽の中に、変形したポピュラーな旋律が幽霊のように去来する。『コネティカット州レディングの場トラム将軍の兵営』はその微睡みを打ち破るような強制的な軍隊的音楽で、複数の行進曲の旋律がコラージュ的に構成され、ピカソの『ゲルニカ』を思い出した。3曲目『ストックブリッジのフーサトニック川』は再び不協和音が帯のように拡がり、無意識が作り出す筋書きのない夢を現実で見ているよう。転生したばかりの初心な魂が、見るもの聴くものに反射的に共鳴するが、赤ん坊の視力ではゲシュタルトとして構成できないのでぼんやりとした色や香りの塊が提示されている…という印象の音楽だった。プログラムの解説で、マーラーの9番とほぼ作曲年代が重なっていることを知り、カンブルランが含むところを色々考えた。
後半の『マーラー交響曲第9番』はどのような演奏になるか、全く予想がつかなかった。蓋を開けてみると、鮮烈で知的で、100年の眠りから覚めたようなマーラーだった。
生前のマーラーが完成した最後の交響曲は、個性や趣向は違えど今まで聴いたどの演奏にも退嬰的で悲劇的な含意があった。作曲家の肉体的な死、精神的な失望、ワーグナーが『トリスタン…』で突き詰めた後期ロマン派の袋小路をさらに突き詰めた「終焉」のニュアンスが9番には含まれていて、それゆえに感傷的な気分で聴くことが多かった。読響が尾高忠明先生とこの曲をやったときは大号泣してしまったし、ヤンソンスとバイエルン放送響でも涙が溢れ出した。バーンスタインもこの曲の最終楽章の未練がましさを、脈拍が次第に遠くなっていく瀕死の人間に譬える。何かの「お仕舞い」の音楽がマラ9だと思っていた。
カンブルランはこの曲から一切の文学臭を抜き取り、クリアでスーパーリアルなサウンドを各パートから引き出した。その結果浮き彫りになったのは、マーラーがシェーンベルクに揶揄されるような時代遅れの作曲家ではなく、最後の最後まで前衛的で冒険的なアプローチを貫いていたということだった。譜面通りのことをやっているだけなのだが、今まで(思い入れが強すぎて)聴こえてこなかった楽器と楽器のぶつかり合いが作り出す奇矯な音、切っ先の鋭いアヴァンギャルドなトゥッティ、現代音楽の先を行く冒険的な和声が宝石のように輝きだし、あらゆる瞬間が閃光的だった。
1楽章ではオーケストラの大合奏の渦中に、渦巻きのような求心的なサウンドの塊が見えたり、弦の大海原の中に金糸のようなチェロの1音が浮き彫りになったり、オケの魔法が矢継ぎ早に提示された。オケが築き上げた圧倒的な基礎が作り出す魔法であり、読響が登り詰めてきたカンブルランとの軌跡がどれほどのものであったか改めて驚いた。
死に瀕した老人のようなマーラー9番がユニークな蘇りを見せたのは、大胆で積極的なホルンの活躍、その他金管木管の全く怯むことのない勇敢さによるところが大きかったと思う。とにかく管が攻める、微塵たりとも躊躇せず、完璧な反応を見せる。そのことで、第2楽章のイメージが全く塗り替えられた。グロテスク風味の牧歌的なダンスだと思っていたこの楽章が、オーケストラのためのキレキレの実験音楽であり、管楽器の遊戯的な尻取りであることが理解できた。第3楽章のロンド・ブルレスケはショスタコーヴィチの反抗精神を感じた。なるほど。バーンスタインが語るようにマーラーは預言者であった。2つの世界大戦を見ぬまま1911年に亡くなったマーラーは幸福ともいえるが、20世紀の戦争と大量殺戮の時代を予見していた。3楽章は反抗的でアイロニカルで、未来予知的なサウンドが溢れ出した。
カンブルランの姿勢は本当に一貫していると思う。正確に厳しく音楽を作り上げることで本質を見せ、そこでは音楽がまとってきた歴史的な衣装がすべて脱がされ裸にされる。マーラー9番は衰弱や心神耗弱とは関係がなく、1番から8番までの様々な響きが統合され、創造性において最高度の達成をみた傑作として再現された。これは「正しい」のか「正しくないのか」。実に正しいと私は思う。それぞれの指揮者が正解を出す権利があり、カンブルランは鮮やかに自己とマーラーを繋げた。
ここで聴き手として、覚醒することもあった。音楽は茫洋としていて、聴き手はいかようにも聴ける…というのは、半分真実だが半分は無責任だと思う。真摯に道筋を作ってきた音楽家の、揺るぎない志向性を読み取らなければ聴いている意味がない。
カンブルランは「目の前の混濁や闇の行く末には、必ず光がある」という音楽を作り出す人で、演奏会によってサウンドの印象は変わることがあっても、この理念は全く曲がることがない。メシアンでも、ベートーヴェンでも、ハイドンでもモーツァルトでも数多の現代音楽でもそうであった。
そうした強靭で未来的で、ある種の「楽観」からなる指揮者の理念が、マーラー9番のアダージョをどう演奏するのか…これだけは全く予想がつかなかった。3楽章までの攻めまくりの成り行きを捨てて、全く違う音楽が展開されることも予想した。実際に4楽章で起こったことはあまりに鮮烈で、驚異的だったのだ。
絶望的で悲劇的なアダージョ楽章が、蘇生と新たなる誕生の音楽に変貌していた。少なくとも、私個人は明確にそう思えた。この1週間前に聴いたノットと東響のブルックナー9番のアダージョでは、神といよいよ一体化していく作曲家の喜悦を感じたが、マーラーはさらに宇宙的な喜悦とともに、この楽章で新しい朝を迎える準備をしているのだと思えた。楽譜にしつこく書き込まれた未練がましい死の暗示は、次に生まれるための期待感とつながっていた。読響の成熟した弦の響きが、同時に若々しさも暗示し、曲の展開とともに光彩がどんどん増して、最後の弱音では眩しい一筋の光が見えた。一生を通じて「生まれたくない!」と時間の逆行を試みていたマーラーが、いよいよ母親の胎内から出て世界の光を浴びようとする、意思決定の瞬間に感じられた。
ベートーヴェン、ストラヴィンスキーではカンブルランのカーテンコールはなかったが、この日は流石にマエストロを呼び出さないわけにはいかなかった。3つのプログラムで、カンブルランは本当に心から幸せそうだった。今シーズンの読響とカンブルランは前人未到の境地にある。こういう演奏会を聴けるのは当たり前だとは思わない。誇張と誤解されることがあっても、ライターとしては文字にして残していかなければ…と決心した。日本のオケの芸術的達成ということでも、今後長く記憶にとどめるべき演奏会だと確信した。
アイヴスの『ニューイングランド…』は嵐の前の曇天の空のような不安な響きで、『ボストン・コモンのセント・ゴードンズ』は瞑想的な音楽の中に、変形したポピュラーな旋律が幽霊のように去来する。『コネティカット州レディングの場トラム将軍の兵営』はその微睡みを打ち破るような強制的な軍隊的音楽で、複数の行進曲の旋律がコラージュ的に構成され、ピカソの『ゲルニカ』を思い出した。3曲目『ストックブリッジのフーサトニック川』は再び不協和音が帯のように拡がり、無意識が作り出す筋書きのない夢を現実で見ているよう。転生したばかりの初心な魂が、見るもの聴くものに反射的に共鳴するが、赤ん坊の視力ではゲシュタルトとして構成できないのでぼんやりとした色や香りの塊が提示されている…という印象の音楽だった。プログラムの解説で、マーラーの9番とほぼ作曲年代が重なっていることを知り、カンブルランが含むところを色々考えた。
後半の『マーラー交響曲第9番』はどのような演奏になるか、全く予想がつかなかった。蓋を開けてみると、鮮烈で知的で、100年の眠りから覚めたようなマーラーだった。
生前のマーラーが完成した最後の交響曲は、個性や趣向は違えど今まで聴いたどの演奏にも退嬰的で悲劇的な含意があった。作曲家の肉体的な死、精神的な失望、ワーグナーが『トリスタン…』で突き詰めた後期ロマン派の袋小路をさらに突き詰めた「終焉」のニュアンスが9番には含まれていて、それゆえに感傷的な気分で聴くことが多かった。読響が尾高忠明先生とこの曲をやったときは大号泣してしまったし、ヤンソンスとバイエルン放送響でも涙が溢れ出した。バーンスタインもこの曲の最終楽章の未練がましさを、脈拍が次第に遠くなっていく瀕死の人間に譬える。何かの「お仕舞い」の音楽がマラ9だと思っていた。
カンブルランはこの曲から一切の文学臭を抜き取り、クリアでスーパーリアルなサウンドを各パートから引き出した。その結果浮き彫りになったのは、マーラーがシェーンベルクに揶揄されるような時代遅れの作曲家ではなく、最後の最後まで前衛的で冒険的なアプローチを貫いていたということだった。譜面通りのことをやっているだけなのだが、今まで(思い入れが強すぎて)聴こえてこなかった楽器と楽器のぶつかり合いが作り出す奇矯な音、切っ先の鋭いアヴァンギャルドなトゥッティ、現代音楽の先を行く冒険的な和声が宝石のように輝きだし、あらゆる瞬間が閃光的だった。
1楽章ではオーケストラの大合奏の渦中に、渦巻きのような求心的なサウンドの塊が見えたり、弦の大海原の中に金糸のようなチェロの1音が浮き彫りになったり、オケの魔法が矢継ぎ早に提示された。オケが築き上げた圧倒的な基礎が作り出す魔法であり、読響が登り詰めてきたカンブルランとの軌跡がどれほどのものであったか改めて驚いた。
死に瀕した老人のようなマーラー9番がユニークな蘇りを見せたのは、大胆で積極的なホルンの活躍、その他金管木管の全く怯むことのない勇敢さによるところが大きかったと思う。とにかく管が攻める、微塵たりとも躊躇せず、完璧な反応を見せる。そのことで、第2楽章のイメージが全く塗り替えられた。グロテスク風味の牧歌的なダンスだと思っていたこの楽章が、オーケストラのためのキレキレの実験音楽であり、管楽器の遊戯的な尻取りであることが理解できた。第3楽章のロンド・ブルレスケはショスタコーヴィチの反抗精神を感じた。なるほど。バーンスタインが語るようにマーラーは預言者であった。2つの世界大戦を見ぬまま1911年に亡くなったマーラーは幸福ともいえるが、20世紀の戦争と大量殺戮の時代を予見していた。3楽章は反抗的でアイロニカルで、未来予知的なサウンドが溢れ出した。
カンブルランの姿勢は本当に一貫していると思う。正確に厳しく音楽を作り上げることで本質を見せ、そこでは音楽がまとってきた歴史的な衣装がすべて脱がされ裸にされる。マーラー9番は衰弱や心神耗弱とは関係がなく、1番から8番までの様々な響きが統合され、創造性において最高度の達成をみた傑作として再現された。これは「正しい」のか「正しくないのか」。実に正しいと私は思う。それぞれの指揮者が正解を出す権利があり、カンブルランは鮮やかに自己とマーラーを繋げた。
ここで聴き手として、覚醒することもあった。音楽は茫洋としていて、聴き手はいかようにも聴ける…というのは、半分真実だが半分は無責任だと思う。真摯に道筋を作ってきた音楽家の、揺るぎない志向性を読み取らなければ聴いている意味がない。
カンブルランは「目の前の混濁や闇の行く末には、必ず光がある」という音楽を作り出す人で、演奏会によってサウンドの印象は変わることがあっても、この理念は全く曲がることがない。メシアンでも、ベートーヴェンでも、ハイドンでもモーツァルトでも数多の現代音楽でもそうであった。
そうした強靭で未来的で、ある種の「楽観」からなる指揮者の理念が、マーラー9番のアダージョをどう演奏するのか…これだけは全く予想がつかなかった。3楽章までの攻めまくりの成り行きを捨てて、全く違う音楽が展開されることも予想した。実際に4楽章で起こったことはあまりに鮮烈で、驚異的だったのだ。
絶望的で悲劇的なアダージョ楽章が、蘇生と新たなる誕生の音楽に変貌していた。少なくとも、私個人は明確にそう思えた。この1週間前に聴いたノットと東響のブルックナー9番のアダージョでは、神といよいよ一体化していく作曲家の喜悦を感じたが、マーラーはさらに宇宙的な喜悦とともに、この楽章で新しい朝を迎える準備をしているのだと思えた。楽譜にしつこく書き込まれた未練がましい死の暗示は、次に生まれるための期待感とつながっていた。読響の成熟した弦の響きが、同時に若々しさも暗示し、曲の展開とともに光彩がどんどん増して、最後の弱音では眩しい一筋の光が見えた。一生を通じて「生まれたくない!」と時間の逆行を試みていたマーラーが、いよいよ母親の胎内から出て世界の光を浴びようとする、意思決定の瞬間に感じられた。
ベートーヴェン、ストラヴィンスキーではカンブルランのカーテンコールはなかったが、この日は流石にマエストロを呼び出さないわけにはいかなかった。3つのプログラムで、カンブルランは本当に心から幸せそうだった。今シーズンの読響とカンブルランは前人未到の境地にある。こういう演奏会を聴けるのは当たり前だとは思わない。誇張と誤解されることがあっても、ライターとしては文字にして残していかなければ…と決心した。日本のオケの芸術的達成ということでも、今後長く記憶にとどめるべき演奏会だと確信した。