小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

聖戦としての第九 東フィル×尾高忠明

2020-12-20 02:40:06 | クラシック音楽
東フィルの今年の第九は途轍もない名演だった。ベートーヴェン・イヤーでありベートーヴェンの誕生日の三日後である12月19日、196年前に初演されたこの曲が異様なまでのリアリティをもって演奏された。指揮は尾高忠明さん、コンサートマスターは三浦彰宏さん。一楽章は素朴な雰囲気で始まった。わざと艶消しにしている地味な音楽作りにも感じられた。平凡な民たちが、圧政に苦しめられながらも何とか善良に生きながらえる術を探しているような…そんな無防備さがあった。しかし、何かに気づいている。この閉塞状況を打破しなければ。丸腰でこの場をやり過ごすのか、相手からナメられたままでいいのか。「闘いの前夜」のような一楽章だった。

毎年第九を聴いていて、指揮者がこの曲に創意工夫を盛り込もうとしたり、していなかったり、オーケストラのトレンド的なものを取り入れて、無茶苦茶に早かったりピリオド的にしたりするのを見てきた。日本のオケは同時期にこの曲を取り上げるので、どうしても聴き比べとなる。何か冴えた創意工夫がなければ、やはりオーソドックスな演奏になってしまう。

前日に同じサントリーホールで聴いた読響とセバスティアン・ヴァイグレの第九は、不自然さがなく優美であったが、東フィルほどのインパクトはなかった。ヴァイグレがドイツ人で、大戦後のドイツが大きな傷跡を癒すためにあらゆる人間的営為を文化に注いできたからだと思う。第九が人間の過ちや愚かさを照らし出す音楽だというアイロニーを認識し、時間をかけて反省し続けてきたので、1961年生まれのヴァイグレはその感覚を強く持つ必要がないのだ。日本の戦後はどうであったか。我々の戦後の歴史の一時的な豊かさ、繁栄はまやかしで、世界の最も病んだ闇とつながっていたのではなかったか。その歪みを、この十年で段階的に気づかされてきたはずなのだが、大方はまだ眠っている。古い何かに騙されている。西洋文化に対して最もスピーディな受容を果たしたのが日本だと日本人は思っているが、他国の進化を知らない。テクノロジーも何もかも、下に見てきた国々に追いこれさている。

第九に関して、曲をもっと内側から感じなければならない…という切迫感が尾高先生の解釈にはあったのではないか。奇矯さはないが、鋭い音楽だった。「ここでもっと鳴るはず」と思う箇所で、そのパートが意外なほどの弱音となる。そうなると、フレーズの意味を深く考えずにはいられなくなる。ベートーヴェンは何を暗示し、何を望んでこれを書いたのか。
二楽章の始まりは、プレイヤー全員の呼吸の音が聴こえるような勢いだった。細かい音が無駄なく緻密に演奏され、そのことで聴いたことのない清冽さがホール全体を満たした。弦からも管からも注意深い呼吸が感じられる。高度な知性を想像した。第一楽章で無力な無辜の民であった人間が、様々な工夫を凝らして敵と闘うための武器を製造しているイメージだった。強弱は自由自在で、指揮者の意図が通じていない箇所はひとつもないように聴こえる。時折訪れる全パートの空白が、刃物のように鋭利だった。

三楽章の美しさには息を呑んだ。ベートーヴェンがこの曲を書いたとき難聴はかなり進んでいたはずで、この響きがほぼ「内観」によって書かれていたことに改めて驚愕した。肉体的な条件を、精神的な志向性が凌駕している。ある意味、肉体を置き去りにしているから出来る芸当で、そうして自死の誘惑を断ち切った精神のアクロバットがある。肉体が「目に見え、具体的に感じることのできる現実の領域」を担当しているとしたら、精神は「目に見える世界のその上をいく」無限の可能性を請け負っている。
 ベートーヴェンが確信していたのは、認識は現実に先立つという、およそ凡人には考えつかない可能性で、どんな悲惨な状況にあっても精神の光明が、新しい現実を創り出すという真実である。
 イメージが現実を作る、というと何かの啓発セミナーみたいにも聞こえるが、このどん詰まりの2020年、楽観的であるか悲観的であるかは運命の明暗を分ける選択だ。我々はもっと真実を知りたいし、自分を愚かなままであるとは認めたくないし、善良さと正義が勝つという「結果」が見たい。尾高さんの音楽作りには、「未完成のままではなく、最後の結論まで到達しよう」という気概が感じられた。

第四楽章では、歓喜の歌のモティーフを奏でるコントラバスが意外なほどの弱音で、別の曲を聴いているような感覚に見舞われた。遅い早いではなく、弱音は時間を引き延ばす。感覚と意識の不思議なサイエンスで、秘められたものの価値を見つけようと聴衆はその旋律の真意について考察を始めるのだ。「おお友よ…」のバリトンの歌い出しが最高だった。勇敢で高潔で、それまで慎重に積み上げられてきた音楽の価値が爆発的に増殖した。歌手の伊藤貴之さんとは、2014年の藤原歌劇団の『ラ・ボエーム』の終演後のパーティで少しだけお話したことがある。そのときのマエストロの感想や、歌手が置かれている現実について素晴らしく率直に語ってくれた。音楽家が正直であることに感動し、伊藤さんの誤魔化しのない生き方に共感した…そういうことを一気に思い出し、緊張を強いられる場面で迷いなく大きな力を発揮している姿を眩しく見つめた。テノールの清水徹太郎さん、ソプラノの吉田珠代さん、アルトの中島郁子さんも神々の国からの使者のようだった。新国立劇場合唱団のパワフルな合唱が加わって、尋常でないほどの幸福感が押し寄せてきた。ラストに向かってオーケストラも祝祭感を高めていく。

ベートーヴェンの音楽は星空を連想させる。すべての楽器が堰を切ったようにボリュームを上げていったとき、星空がパヴェダイヤのジュエリーのように「星づくめ」になった。すべてのパートが混濁せず、同時に固有の音を発し、共存していた。この感覚を正確に描写するにはどうしたらいいか。不幸をもたらす不可視の力に対し、最初は武器で抵抗しようとしていた平凡な人間が、今や敵よりはるかに知的な存在となり「我々は丸腰で、ただここに存在して勝利する」と宣言しているようでもあった。
 尾高さんの指揮なのだから、このタイミングでの第九は凄いものになると予想はしていたが、遥か頭上にある世界を見せられた。マエストロの視点をクリアに表現する東フィルは本当に凄いオーケストラで、裏方スタッフも含めこの演奏会を成就させたすべての人々の意志の強さにも胸打たれた。「この時だからこそ」という底力が伝わってきて、ここから先は本気で幸福であることを目指して生きなければならない…と気づかされた。第九は確かに永遠の名曲なのだ。