小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×マキシム・パスカル 東京芸術劇場

2020-12-05 10:29:31 | クラシック音楽
読響と85年生まれのフランス人指揮者マキシム・パスカルの共演。東京芸術劇場開館30周年記念公演で、客席は最近の在京オケのコンサートでは珍しいほど埋まっている。
2週間の隔離待機中は、静かに楽譜を読みながら日本茶を楽しんでいたというマキシム君。いつもピットにいるイメージなので、「陸に上がった」彼がこんなに背が高いことにあっと驚いた。栗色のくせ毛が耳の後ろで葡萄の房のようになっていて、癒しの大天使ラファエルのような雰囲気。望月京さん(1969~)の「むすび」から始まった。初めて聴く曲だが、ラストにプログラミングされているラヴェルの『ラ・ヴァルス』と鏡像関係にある曲だと直観で思った。前衛的だが、温かい「情」が息づいていて、和洋の感覚を面白く往来し、古代的な時間ともつながっている。何より、最初と最後の二つの曲はダンスとの関連を感じさせる。指揮棒なしのマキシムは地面から空へ何かを吸い上げるようなジェスチャーを繰り返し、読響と呆気なく一体化していた。

2017年のパリ・オペラ座バレエ団の来日公演では東フィルとの共演だったし(これが途轍もない名演だった)、昨年の二期会の『金閣寺』は東響とだったから、読響とは初共演のはずなのだが何かすべてを分かり合っているような感じだ。カンブルランとの最後の年は、現代音楽の知られざる名曲・珍曲のオンパレードをマエストロとともに繰り広げた読響だが、そこで得たボキャブラリーの豊かさは奇跡的で、忘れられることなくオケに蓄積されていた。同じフランス人であるマキシム・パスカルも驚いたのではないかと思う。宿命のオケと指揮者が「ついに出会ってしまった」感があった。
反田恭平さんがソロを弾いたラヴェル『左手のためのピアノ協奏曲』では、ラヴェルのオーケストレーションの魔力に陶酔した。反田さんもこうした巨大なスケールの音楽にはいい反応をする。反田さんの魅力はアルゲリッチに似ていると思う。器用であるとか派手であるとかというより、生命力が破格なので、人が寄ってこずにはいられないのだ。とりすました「一流」には、これほどたくさんの聴衆は反応しない。枝ぶりの見事な幹の太い樹木のような音楽で、聴いていると臓腑からダメージが修復されていく感じがする。左手だけの超絶技巧はピアニストにとっても過酷なはずだが、熱量を保ったままラストまで見事に弾き切った。

後半のドビュッシー『海』は、先日ゲルギエフとウィーン・フィルで2回聴いたばかり。ウィーン・フィルも良かったが、読響パスカルの演奏に上書きされてしまった印象だ。こちらのほうが北斎っぽい。輪郭線にクールさがあってスタイリッシュなドビュッシーだ。ラヴェルとドビュッシーが並ぶと、どうしてもクラシックの歴史観の中でのドビュッシーの優位性ということを思い出す。バーンスタインも矢野顕子さんも「ドビュッシーの発明に比べたら、ラヴェルのやったことなんて」と言う。しかし「カブトとクワガタはどちらが強いか」ではないが、オーケストレーションではラヴェルも相当「強い」。 ドビュッシーはラヴェルよりある意味ほっとする。太陽のもとで正しく書いている印象があり、『海』は勇壮で英雄的でさえある。悪魔の三音階(トライアド)を使ってもなおアポロン的なドビュッシーに比べると、ラヴェルはあまりに妖しい。バッカス神というよりウラヌス神やネプチューン神的で、無意識をジャックされる。考古学的で神秘主義的で、天地東西南北のゲージの取り方が巨大なのだ。

マキシム・パスカルのユニークさは、やはりラヴェルで爆発した。最初に彼の才能に驚いたのも『ダフニスとクロエ』だったが…。恐らくラヴェルはいくつもの水準で演奏されている作曲家で、どんな指揮者でもいい気分にさせてもらえるが、精度においては100ほどの階層があり「ラヴェルのチャンネル」に正確に波長を合わせられる指揮者は一握りなのではないかと思われた。『ラ・ヴァルス』は読響とカンブルランの妖気ぷんぷんのオカルト的な名演が忘れられないが、あのヴァルスを知っているオケが若いフランス人指揮者と再び奏でる音楽は、ちょっとセンセーショナルすぎた。
ラヴェルは毎回「そこから始めるの!?」というところから書き始める。「ラ・ヴァルス」は太古の宇宙発生の0地点から音楽が始まる。何もない…まったくなんにもないところにひとつの風が吹き、微かな歪みから時間と空間が生まれ、微生物や生命の兆しのようなものが現れて、それが一気に巨大化してロココの応接間になる。豪華な三拍子。それをクレイジーと呼ばずに何というか。ディアギレフの委嘱で書かれたが、バレエの上演を拒否されたというのも理解できる。
 哲学者マキシムは、何か得体が知れないほど強烈な渇望感をもってラヴェルの世界を掘り起こしていた。掘れば掘るほど、土器や骨や勾玉のようなものが出てくる。「これ以上掘っても仕方ないですよ。近所は住宅地だから掘るのはもうやめましょう」と言われても、考古学者は掘りたいのだ。
 この好奇心はどこかで見たことがあるぞ…読響の楽員たちの表情がそう言っている気がして、マキシム=読響のさらなる共演が楽しみで仕方なくなった。