小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京ニューシティ管弦楽団×矢崎彦太郎(12/17)

2020-12-19 03:24:04 | クラシック音楽
12/17はいくつかの重要なコンサートがあったが、池袋の東京芸術劇場で東京ニューシティ管弦楽団を聴いた。矢崎彦太郎さんは9月に新日フィルとの共演を聴いてから「あ、理想の指揮者だ」と思っていた方。フランスを始め多くの国で活躍されてきたマエストロのことをもっと知りたくて、チケットを購入した。
オーケストラを聴き始めてしばらくして、指揮者というのは同じことをやっているように見えて全く別のことをやっているのだと知った。オケをどのように鳴らしているか、その共同作業のやり方が矢崎先生は理想的なのだ。リハーサルを聴いたわけではない。聴こえてくる音楽が平和で、サウンドを裏側から支えているものが他の指揮者とは違う感じがする。ドビュッシー『組曲《子供の領分》』(アンドレ・カプレ編曲)は、凍った地面から春が湧きだすような音に感じられた。自然な響きで、何と何をミックスして、どう遠近感をつければあんな素敵な音が出るのか見当がつかない。強制的なことは何一つ行われず、ひとつの神秘に包まれて皆が軽い催眠術にかかっているような雰囲気だ。
「指揮」は本当に錬金術だと思う。矢崎先生の持つ色彩感はあまりに見事過ぎて、変化していく響きのグラデーションがとても柔らかい。ピアノ曲のオーケストラ編曲版はラヴェルがよく書いているが、カプレが編曲したドビュッシーは何だかユーモラスで可愛らしく、威張ったところがまったくない。『小さな羊飼い』はピアノでは簡単な曲で、よく子供の頃に弾いていたが、なぜあんなに寂しい気持ちになるのか不思議だった。オーケストラ版でも少しセンティメンタルな気分になった。「ゴリウォーグのケークウォーク」は管弦楽版で聴くとほぼ外山雄三先生の曲だ。魅惑的な6曲があっという間に終わってしまった。

プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第2番』は、務川慧悟さんがソロを弾いた。予定していたピアニストが来日できず、結構急な代役だったが、短期間で難曲をマスターして凄味のある演奏を聴かせた。ウィーン・フィルとマツ―エフで聴いたばかりだが、ゲルギエフとマツ―エフが零下50度の厳冬の世界を表現していたのに対し、務川さんは悲観よりも強烈な力で、春の戦士のようにこの曲の扉を開いていた。どれだけ「正確な」演奏だったのかということより、アブストラクトのような旋律を次から次へと勢いよく響かせていくピアニストの迫力に圧倒された。プロコフィエフは、メロディを憎みながら愛しているようなグロテスクな曲を書き、聴く方も3番の躍動感に比べて荒涼とした気持ちになることが多いが、これは名演だった。

フランクの『交響曲ニ短調』は、ブルックナーに通じる宇宙的な広がりを感じさせた。一楽章からこんこんと湧き出す響きの美しさが凄まじく、ステージの上で合奏しているプレイヤーの幸福感はいかばかりかと溜息が出た。プロコフィエフに比較すると臆面もないほど「歌」が溢れ出す。歓喜の合唱のように楽器が昂揚する。その歌が垢抜けないものだったら、さぞ退屈なシンフォニーになっていただろう。美意識が卓越している。ピツィカートとハープの組み合わせが、エレガントな香水のように香っていた。快楽的というのとも違う。素晴らしい道徳観が底にある。人はなぜ絵を描いたり映画を撮ったり音楽を演奏したりするのか…命をどのように使って世界に証を見せるのか…その決意と極意を考えさせる音楽だった。
 音楽の中の歌とは何か…バーンスタインは「自分がなぜ調性音楽を作るのか」言語学を引用してまで長々と説明していたが、メロディとは命そのもので、どんな皮肉も冷笑的な考えも、これを死滅させることは出来ない。死ぬ間際に脳裏をよぎるのはシェエラザードや悲愴のような音楽で、無調の現代音楽的ではないと思った。

 フランクのニ短調はこのひどい2020年に様々な答えを与えてくれる奇跡のシンフォニーで、変わりゆく世界と、太古から変わらぬ不変の世界が、同時に矛盾なく描かれている。変わらぬものは人の情や優しさで、変わっていくものは…あまりに未知だ。何億光年先にあったとしても、芸術家は遠くにある星を諦めない。巨大な問い。「人間性とは何か」。哲学書を読まずとも、こういうコンサートを二時間聞けば答えが出る。人は生まれて死ぬ。運命を受け入れるのだ。他人を傷つけず、この世界を明るくして「ありがとう、さようなら」と去っていく人生こそ最高だ。そんな者に私はなりたい。矢崎先生がフィナーレ楽章で、人差し指を天に向かって振り上げた時、音楽は宿命のままに死に向かい、間髪入れず天国が現れた。よりよく生きるために、哲学書なんか要らない。指揮者とオーケストラは凄い問いと答えを見せてくれる。
実際に、素晴らしいリハーサルの後であの本番だったのだろう。楽員さんの様子を見ていれば分かる。そういうときほど、喝采は手短にさせて袖に隠れようとするマエストロの姿が微笑ましかった。生きている人間が神様のようなことをすると、こんな風に照れてしまうものなのだな、と納得した。