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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『タンホイザー』(2/17) 

2021-02-18 18:07:09 | オペラ

二期会『タンホイザー』初日を東京文化会館で鑑賞。5時開演の15分前に到着したが、日が長くなったせいか周囲の景色は明るく、青空と澄んだ空気が嬉しい。春が近づくにつれ賑やかになるはずの上野はひっそりとしていて、どこかSF的なムードに包まれていた。

2021年春に日本で続々上演される「ワーグナー祭り」(?)のスターターとなった二期会の『タンホイザー』は1999年以来の上演。フランス国立ラン歌劇場との提携公演で、キース・ウォーナー演出はドレスデン版とパリ版を適材適所に組み合わせた構成。装置・照明・衣裳ともスタイリッシュで美しく、各々の人物の造形も納得のいくものだった。

指揮はアクセル・コーバーに代わって、読響の音楽監督セバスチャン・ヴァイグレがピットに入った。2020年12月に来日して以来、定期演奏会が終わってからも本公演のために東京に滞在していた。序曲から薫り立つ響きで、力で押すタイプではなく音楽の中にある繊細な構造を浮き彫りにしていた。透ける黒い幕を張った右側の段に金管楽器、左側にハープと打楽器。読響はシェフの元で物語の息遣いが感じられるような自在なサウンドを奏でた。

冒頭から闇に浮かび上がる、細長い鉄製のパイプのような構造物が気になった。これはタンホイザーが囚われている「籠」の象徴なのか。別次元へトリップするときの入り口なのか。

ヴェーヌス板波利加さんは、赤毛のロングの巻き毛にパープルのドレスで妖艶な女神を演じた。2017年のバイエルン国立歌劇場の来日公演(ペトレンコ指揮)で岩石と一体化したような巨大な裸体のヴェーヌスを演じたエレーナ・パンクラトヴァの姿を連想し、キース・ウォーナーはロメオ・カステルッチとは違う、異形性のシンボルではないヴェーヌスを構想したのだと理解した。

タンホイザー片寄純也さんとヴェーヌスとのやり取りは、子離れを悲しむ母と子の対話にも聴こえた。黙役の子役が出てきてヴェーヌスは可愛がるのだが(彼が書いた紙を破り捨てる芝居は何を表すのか)、タンホイザーもまたヴェーヌスの「可愛い子」という暗示なのかも知れない。ここには何でもあるのに、なぜつまらない地上に戻るのか…セクシーな衣装の女性ダンサー、遠目には裸体に見えるボディスーツを着た美しい男女のダンサーの動きが、「官能と快楽」でタンホイザーをヴェーヌスのもとに引き付けようとする魔術のようだった。

タンホイザーによるハイライト的な「ヴェーヌス賛歌」はこの役のテノールに多くの負荷を与えるのか、この日の片寄さんもゲネで拝聴した芹澤佳通さんも苦心しているようだった。有名な旋律で、名録音も多いので歌手の負担は大きいと思う。繰り返されるたびに半音上がっていくが、フォークトも三回目の繰り返しは、結構きつそうに歌っていた記憶がある。

この演出のヴェーヌスは怪物でも悪役でもなく、素直な愛の女神として描かれているふしがあり、「あなたはまた戻ってくる。そのとき歓迎するか分からないけれど」と歌うヴェーヌスは恋の達人のようでもあり、反抗期の息子に手を焼く母のようでもある。どこか天然なので、彼女が用意した快適な天のシェルターが、それほど毒にまみれたものではないような気がしてしまうのだ。板波さんは先日の「サムソンとデリラ」でも策略的な悪女デリラを演じたが、ヴェーヌスはまったく無意識の悪女で、すべてを与えたい女神は目の前の愛人を失いたくないだけなのだ。

地上に出奔するタンホイザーが求めていたのは「死」ではないか…終わりもなく始まりもない、母胎のような場所から出て、女神の愛玩物ではない一人の男として死にたかった。「どらえもん」ではのび太の机の中が母胎のメタファーだという。本来、男性はほの暗い安息の場に帰りたいという本能がありながらも、実際に叶ってしまうと地獄でしかないのかも知れない。

ヴェーヌス=月であり、エリーザベト=太陽なのだ。田崎尚美さんが太陽のような大きなオーラで無邪気な乙女を演じた。カタリーナ・ワーグナー演出の子供のためのオペラ「さまよえるオランダ人」でゼンタを演じられていた田崎さんだが、ワーグナーが描きたかった夢想的で無垢な若い女性を理想的に演じられる歌手だと思う。大きな羽を伸ばした天使のようなエリーザベトに目が釘付けになり、歓喜に溢れたソプラノの美声に心が洗われる。色々なオペラで田崎さんを見てきたが、エリーザベトは最高の当たり役で、全身が白い真珠のように発光しているように見えた。

「愛の本質」をお題にして、ヴォルフラム、ヴァルター、ビーテロルフが歌合戦を繰り広げるくだりは、ハープ伴奏付きの哲学論のディベートのようでもあり、デカルト、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーの隆々たる思想が次々と古くなっていく「哲学者の無常」のようだと感じられた。道徳によって限定的となった愛を嗤いたいタンホイザーの境地もまた、哲学的だ。彼らの時代精神にとっては逸脱的であると同時に超人的なのだ。

「聖母マリア」の一言でヴェーヌスがへたり込んだように、神殿でも「ヴェーヌスベルク」のタンホイザーの一言が世界を暗転させる。バルコニーでは、ヴェーヌスもその様子をこっそりと見ている演出で、エリーザベトが絶望の淵に追い込まれた場面でヴェーヌスも影をひそめる。二幕の緊迫感は凄味があり、二期会の名歌手が次々と独唱を披露する火花散る様子も心湧きたった。ヴォルフラム大沼徹さんの深みのある歌唱とドイツ語が特に心に残る。

タンホイザーの堕落を知った男たちが彼を弾劾する中、最も傷ついたエリーザベトだけが「キリストの贖罪は彼のためにあった」と、罪人を庇う。この劇は贖罪がテーマなのだろうか…罪悪感に苛まれたタンホイザーはローマへ向かうが、教皇はタンホイザーの罪を永遠に許さない。現世に救いはなく、ただ一人エリーザベトの犠牲の死のみがタンホイザーを救う…これは結局宗教的ということなのか、その逆を言っているのか。

ワーグナーは「現世的な」宗教を信じず…これはヴェルディやプッチーニも見事に同じことをオペラでやっているが…女性の中にのみ救済があると信じている。宗教権力によって断罪されても、聖母のような女性がすべてを贖う。

異次元へのパイプのような細長い鉄の筒に吸い込まれていくタンホイザーが、天上から吊るされたエリーザベトと近づいていくエンディングは美しかった。吊るされているのは恐らく田崎さんではないと思うが…あの筒の象意が、なんとなく分かった。永遠なるものへの細い入口で、世俗の騎士たちの徳とは別の世界に通じている。道徳、理性、高潔さといった、人間を人間たらしめているものの中に潜む矛盾が、官能の本質なのだ…とワーグナーは語りたかったのではないか。

社会から罪を問われ、ローマ教皇にも許されなかったタンホイザーは、永遠に女性的なるものに救われた。極と極を結んでいるのはエリーザベトとヴェーヌスであり、この正反対の役は本当はひとつのものであったのではないか…。水平軸には大勢の男と言説があり、垂直軸には聖母と魔性の女神の愛がある。天地を結ぶ二つだけが大事で、他は要らない。「永遠に普遍的なものとは、死である」というどこかの哲学者の言葉をまた、思い出した。

二回休憩で4時間。ワーグナーは長い、という先入観は吹き飛んだ。二期会合唱団の霊性を感じる合唱の力に震撼。ソリストはさらに良くなりそう。読響の尊敬と献身を集め、心理面でも情景描写の面でも卓越した指揮をしたセバスチャン・ヴァイグレは、カーテンコールでは神にしか見えなかった。1階11列目から見える神は、少しうるうるした目でピットと客席を見つめていた。ワーグナーの魔力にとらわれ、楽劇の「筆圧」の強さに酔った一夜だった。

タンホイザーとヴェーヌス Otto Knille作


好色な神々 新国立劇場『フィガロの結婚』(2/7)

2021-02-08 21:12:01 | オペラ
新国『フィガロの結婚』初日を鑑賞。2020年12月28日の入国制限変更により、伯爵夫人のセレーナ・ガンベローニ、フィガロのフィリッポ・モラーチェ、指揮のエヴェリーノ・ピドの来日が叶わず、大隅智佳子さんの伯爵夫人、沼尻竜典さんの指揮、先日まで『トスカ』の悪役スカルピアを演じていたダリオ・ソラーリがフィガロの代役となった。アルマヴィーヴァ伯爵はヴィ―ト・プリアンテ、スザンナは臼木あいさん、ケルビーノは脇園彩さん。オーケストラは東京交響楽団。

序曲から沼尻マエストロと東響への拍手が自然に巻き起こり、上機嫌なムードでオペラはスタート。トスカ上演中からフィガロ役の稽古をしていた様子がTwitterにアップされていたソラーリの活躍が楽しみだった。スカルピアは音程の正しさに気を取られている印象で、プロフィールからヴェリズモよりモーツァルト~ベルカントのレパートリーの方が得意だろうと想像していた。フィガロの名演で面目躍如…を期待していたが、冒頭からやや表情が硬い。過酷なスケジュールでの準備だったので、初日は緊張していたのかも知れない。

『フィガロ…』の面白さは、身分も年齢も性格も異なる魅力的な女性たちがゾロゾロ登場することで、身分の上では伯爵夫人が一番上、女中頭のマルチェッリーナ、小間使いのスザンナ、庭師の娘でスザンナの従妹のバルバリーナの順となるが、女性として最も魅力的とされるのはスザンナで、以下はさまざまに解釈できる。男性も、伯爵とフィガロでは明らかな主従関係があるが、スザンナをめぐる欲望の争いではフィガロが伯爵に勝利している。言うまでもないが、現実社会と愛の次元では、下剋上が起こっている。

フィガロ以外の男たちからも愛されるスザンナの臼木あいさんのパーフェクトで瑞々しい魅力にも増して、嫌味攻撃をしかけるマルチェッリーナの竹本節子さんがたまらなくキュートだった。つけぼくろは毎回こんなに大きかったっけ…と、ヴァージョンアップしているマルチェッリーナの面白さと貫禄が頼もしかった。メゾの発声は上品で、スザンナとの重唱でも、テンポはそのままで「若い娘のような機敏さがない」感じをうまく出している。軌道も質量も違う天体同士がデュエットしている印象。歌手の身体に完璧に役が入っていることの凄味を見せられた。

フィガロのソラーリがなかなか温まらない中、伯爵役のヴィート・プリアンテが太陽のオーラをまとって登場。美声とともに勢いよく明るいオーラを発散し、颯爽とオペラの舵取りを始めた。プリアンテはフィガロ役も得意なので、全体を察して二人分頑張ったのかも知れない。役柄によって演劇の内容も違って見える…オケや相手役を味方につけて、伯爵の物語が展開されていくような感触だった。

大隅さんの伯爵夫人は安定感があり、登場のカヴァティーナではボーイソプラノのような(!)透明で際立った美声を聴かせた。伯爵夫人は横に大きく広がったパニエの純白のドレスを着ているので、動くのが大変そうだ。臼木さんと声楽的に相性がよいという印象。後半のスザンナと伯爵夫人の重唱も綺麗だった。
期待のケルビーノ脇園彩さんは観客の熱視線を浴び、少年役のコスチュームも映えた。6番「自分で自分がわからない」と有名な12番「恋とはどんなものかしら」をゆったりとしたテンポで豊かに聴かせたが、沼尻さんの指揮もケルビーノの箇所では特別テンポを落としていた印象。これはあくまで想像だが、ソリスト側の要請だとしたら、大変よい効果があった。全体の劇の進行を指揮者に一任するのもよい態度だと思うが…いずれにせよ稽古もリハーサルを見ていないので真実のほどは分からない。

新国で『トスカ』と『フィガロの結婚』が上演される間に、地上(?)では森喜朗オリパラ組織委員会会長の問題発言があった。劇場と社会はつねにつながってるので…このことと二つのオペラを紐づけずに鑑賞することは、個人的に難しかった。オリンピックが関係した公の場で、「女性が多いと会議がまとまらない」「わきまえない」などの言葉が発され、日本だけでなく世界が激しく反応した。社会が変動する中で、全くタイミングが悪く、あそこまで徹底的に問い詰められると一種のスケープゴートだと同情したくなるが…性差をめぐるデリカシーは今や大きく変動している。考えてみるともオペラはセクハラ、モラハラ、パワハラの宝箱で、プッチーニもモーツァルトも、現代から見ると酷く由々しい劇を書いている。

ケルビーノは伯爵夫人の胸を触り、伯爵はスザンナを追いかけまわし、バルバリーナを犯す。バルバリーナの「なくしてしまった」の歌が、処女喪失(?)の歌であるという解釈は芸劇の野田版フィガロで初めて知ったが、この演出でも…ケルビーノといちゃついていたバルバリーナは伯爵の怒りを買い、伯爵は恐らくそれまでは手加減をしてお触り程度だった娘に対して、お灸を据えるような最後の行為をし、ズボンの裾を改めて背中を向けるのだ。スザンナは賢いが、バルバリーナは無礼で「わきまえない」からそのような目に遭ってしまうのか…。

『トスカ』も『フィガロの結婚』も性的デリカシーの観点から見るとかなり野蛮なオペラであり、森会長の発言どころではないはず。それでも不朽の名作であるのは、モーツァルトが人間の姿をした神々を描いたからだという気もする。好色な伯爵はジュピター神で、スザンナというヴィーナスの新婚の部屋に金の雨となって浸透しようとする。伯爵夫人は嫉妬に苦しむジュノー。ケルビーノはナルシス神というより、あらゆる階層の女性の懐に水銀の玉のように転がって忍び込もうとするマーキュリー神のようだ。

モーツァルトは好色な神々と人の浮世をつなげて『フィガロの結婚』を書き、てんやわんやの男女の完璧な声楽アンサンブルは、ヘキサグラム=六芒星のような模様を描き出す。新国の初日では、主役のフィガロのノリが今一つで六芒星のアンサンブルは作られず、そのせいか…特に前半が退屈な劇に見えてしまった。2003年のアンドレアス・ホモキの演出は、2000年代初頭に多く見られた白い背景のモーツァルトオペラで、傾斜した床や歪んだ閉所の装置は、当時はモダンでスタイリッシュな感じだったと思うが、18年経つと昔日のトレンドに見えてしまう。白と黒と段ボール箱しか見るものがない、というのは、アンサンブルが完璧でない場合かなり苦痛だ。
『フィガロ』は天界と地上を往来するようなカラフルな新演出がそろそろ出てきてほしい…と思った。伯爵のプリアンテは最後まで魅力的で、初夜権を受け入れたスザンナの奸計に気づいたときの怒りの演技は、見ていて身が引き締まる思いだった。伯爵はオペラの中で3回、雷神のように激昂するが、スザンナへの怒りが一番大きい、というプリアンテの解釈は素晴らしい。
このアルマヴィーヴァを見るためにもう一度劇場へ行きたいと思わせた。あと3回の上演。


「ユピテルとユノー」




藤原歌劇団『ラ・ボエーム』(1/30)

2021-01-31 23:23:03 | オペラ
藤原歌劇団『ラ・ボエーム』初日を鑑賞。東京文化会館でオペラ公演が行われるのは2020年2月の二期会『椿姫』以来だという。ミミ伊藤晴さん。ロドルフォ笛田博昭さん、ムゼッタ オクサーナ・ステパニュックさん、マルチェッロ須藤慎吾さん、ショナール森口賢二さん、コッリーネ伊藤貴之さん。鈴木恵里奈さん指揮・東京フィル。

岩田達宗さん演出のボエームは2014年に観ており、そのときは稽古見学もさせていただいた。役作りに関して妥協のない稽古で、特に心に残っていたのは、この時代の「貧困」の意味が男と女では違っていて、ボエームに登場する青年たちはまだ人生の重みを理解しておらず、一方女性は既に身に沁みて生きることの過酷さを実感している…という岩田さんの言葉だった。
今回はコロナ感染対策を踏まえての演出で、フェイスシールドの使用やカフェモミュスの場面での合唱の少なさ(児童合唱は事前に録音し、舞台には登場せず)、重唱でのディスタンスなどさまざまな変更が行われていたが、肝となる「男女の落差」というテーマは根強くオペラを貫いていた。

冒頭からはじまる屋根裏部屋の喧々諤々は歌手たちにとっても大変な場面で、めまぐるしくテンポを変えるオケとともに、ジェットコースターのような声楽のパスワークが行われる。歌詞もところどころ奇々怪々で「パセリを食わされた死んだオウム」の字幕を見て、毎回歌詞を忘れている自分に気づいた。プッチーニは『ファルスタッフ』の見事なアンサンブルを自分のオペラでも再現したかったのかも知れない。詩人、画家、音楽家、哲学者の卵たちの元気なやりとりは楽しく、まるで5人目の若者のように…指揮者の鈴木恵理奈さんがピットで飛び跳ねているのが見えた。プッチーニはオペラ指揮の中で最も難しい…というピーター・ゲルブの言葉を再び思い出す。東フィルはこのオペラをよく知っているというのも心強いが、指揮者も大変な度胸がいるだろう。来日不可能となった指揮者の代役だったが、新鮮な音楽に触れることが出来た。

ロドルフォ笛田さんとマルチェッロ須藤さんというのは、つくづく藤原のドリーム・コンビだと思った。血気盛んな若者を演じる二人の掛け合いは情熱的で、見逃してしまいそうなほど細かく作り込んでいる須藤さんのお芝居には唸らされた。「冷たい手を…」では、笛田さんのハイCを楽しみに待ち構えている聴衆の「圧」のようなものを肌で感じたが、短いアリアなのに、この音に至るまでにプッチーニはテノールに地獄の13階段を上らせる…笛田さんは勇敢で、高音も見事だった。
ロドルフォはもっと夢想的な部分があってもいいかな…とも思ったが、雄々しいテノールのアリアと「私の名はミミ」とのコントラストは美しかった。男の歌のあとの女の歌であることが強調された。ミミの伊藤晴さんは、2014年の公演ではムゼッタだったが…完璧なミミだった。受け身で慎ましく可憐。「あっ、鍵をなくした」と戻ってくるミミの一声は、台本としてかなり「ケモノっぽい」(!)と思うのだが、まったく嫌味がなかった。

ミミとは何者か…「食事はたいてい一人でとります。教会にはあまり行きませんが、お祈りはしています」という歌詞は、現代から見るとあまりに可哀想でみじめだ。ロシアの7つ星ホテルで、両手のほとんどの指に大きなダイヤをはめていたマリア・グレギーナにインタビューしたとき「この人にミミは歌えないな」と思ったのを思い出す。実際グレギーナはトゥーランドットを歌うが、ミミは歌わない。現代のソプラノ歌手にとってミミを演じるというのはどういうことなのか、改めて考えた。この役はファンタジーなのか、時代遅れの悲劇のヒロインなのか。

伊藤晴さんのミミの発声は清らかで、どこか聖母を彷彿させ、ロドルフォの突き上げてくるパッションを受け止める海のような大地のようなおおらかさが感じられた。ミミは演じすぎてもいけない。それでも3幕のアンフェール門のシーンでは、泣き崩れるミミの姿に胸がつぶれた。4幕では毎回客席で誰かがすすり泣いているのが聴こえるが…オケが「風前の灯」のような悲しい音を出すから泣けるというのもあるが…プッチーニはこのオペラに「弱い性」の宿命的な悲劇を見ていた。

ミミは小さな世界で生きていて「これだけのものしか持っていない」という貧しさを隠さず表す。まったく男女同権時代にふさわしくない、ちっぽけでみじめな存在だ。パスカルの「パンセ」の、有名な「人間は考える葦である」という言葉を思い出した。デカルトは「すべては論理だ」と主張したが、パスカルは人間はか弱い葦であり、幾何学的知性だけでは不完全で、繊細さなしでは哲学は築けないと反論した。男性の強さ=論理だけでは世界は見えないのだ。英雄でもない、平凡で貧しいミミは、祈りと刺繍の日々の中でひっそりと尊厳を保つ「考える葦」であった。

新国の「トスカ」を見たばかりということもあって、わが脳内ジュークボックスはテノールの「冷たい手を…」「妙なる調和」「見たこともない美女」(マノン・レスコー)がループしていた。似たような歌で、初対面の女性に対して愛を語っていたり、教会でお祈りをする知らない美女に対して憧れを抱く歌だったりして、いずれも相手のことをよく見ていない。恋は盲目、の歌で、お互いをよく知ったからといって素敵なアリアが出て来るわけではない。女の方もそうした男の妄想なしでは生きていけないし、愛の夢をみることも出来ない。

最高のラブストーリーとは誤解の産物で、そこに生産性はない。儚い美があるだけだ。『蝶々夫人』のストーリーを悪くいう人があまりに多いので、あの話が大好きな私は毎回困ってしまうのだ。プッチーニが手を変え品を変え語る恋愛論は、あまりに見事で、そこに人間の鋭い本質が描かれていることを認識する。指揮者の鈴木さんは大物で、「女性の前ではつい暴走してしまう」男性心理も生き生きと描き出していた。オペラは指揮も演出も、両方の性を分かっていないと出来ない。ピットに若い女性指揮者が入ると、マエストラを軽視する伝統があるオケもあると聞いたことがあるが、東フィルはそんなことはしないのだろう。有難いサウンドだった。

『ラ・ボエーム』は確かに哲学的なオペラで、ラスト近くで哲学者のコッリーネが歌う「古ぼけた外套よ」は、そのことを強く印象づける。バスの伊藤貴之さんが、姿形も19世紀の人物のようで凄い迫力だった。ここだけプッチーニはヴェルディのような書き方をしているようにも思う。コッネーネ唯一のソロで、厳粛な気持ちになった聴衆は大きな喝采を送らずにはいられなくなるのだ。
ムゼッタのオクサーナ・ステパニュックさんはコメディエンヌ的な軽妙さでヒロインと正反対のモダンな女性を演じ「ムゼッタのワルツ」も楽しく聴かせた。声量よりもニュアンスと音程の正しさで聴かせ、3幕のマルチェッロとの痴話げんかも良かった。あの男女の罵り合いも充分に哲学的で、プッチーニほど男女のことをよく知っている作曲家もいるだろうか…と思ってしまう。
フェイスシールドは一幕のミミとロドルフォの出会いのシーンでは外され、ラストでは装着されていたが、万難を排しての上演には感謝しかなかった。しつこいようだが、この世界になくてはならないオペラは「トスカ、ボエーム、蝶々さん」だと改めて認識した(!)公演だった。





新国『トスカ』(1/23)

2021-01-25 01:30:41 | オペラ
新国『トスカ』の初日を鑑賞。アントネッロ・マダウ=リアツの古典的な演出はこの劇場で何度か観ているが、プログラムに2000年のプロダクションとあるので初演から21年目となる。コロナ対策で演出に変更があったとのことだが、トスカとカヴァラドッシの距離は不自然ではなく、客席からはドラマに充分に沿った絡みをしていたように見えた。トスカはこの役がデビューだった(2013年)イタリア人キアーラ・イゾットン。カヴァラドッシはスター歌手フランチェスコ・メーリ、スカルピアはウルグアイ出身のバリトン歌手ダリオ・ソラーリ。指揮はダニエーレ・カッレガーリ。オーケストラは東響。

印象的だったのは、冒頭の3つの音が、爆音ではなく非常に示唆に富んだ「それほど大きくない音」だったことで、圧政者スカルピアを象徴する恐怖音なので、大くの指揮者は序章の刻印として暴力的な音を出す(譜面ではfff)。ダニエーレ・カッレガーリは含蓄に富んだ、心理的に怖い響きを東響から引き出し、その後もオペラの先入観を覆すような「繊細で一歩引いた」音楽を奏でた。弦の響きが特に美しく、トスカとカヴァラドッシがいちゃつく場面(!)では愛の陶酔そのものの夢心地のサウンドとなった。『トスカ』は改めて人間関係が重要なオペラなのだ。

フランチェスコ・メーリは気品あるオーラで、登場してすぐ『妙なる調和』を見事に歌い切り、客席から長い喝采が巻き起こった。勢いがあり、正確で華があるアリアに満足。カヴァラドッシは強い声だが、がなり立てないのが良かった。堂守の志村文彦さんは、新国でこの役をやられるのは何度目だろう。ますます磨き込まれていて、ぶつぶつ言いながら筆を洗うシーンも、腰を痛そうにして歩く仕草もリアルで素晴らしかった。

イゾットンの「マーリオ!マーリオ!」の声がとても深く、ほとんどコントラルトのように聴こえたので一瞬驚いた。正真正銘のソプラノで高音も伸びるが、声に独特の憂いがあって、違う声種にも聴こえる。ネトレプコはベルカントからスタートして徐々に重い役に成長していったが、イゾットンは若いうちから既に声に重みがあるのだ。メーリの明るい声とのコントラストが最初のうち不思議だったが、ドラマティックで演技力もあり、どの場面も迫力満点だった。30代前半くらいだろうか? 若いトスカはいいものだと率直に思った。

スカルピアのダリオ・ソラーリは上品な紳士の風情で、「テ・デウム」もそれほどどす黒くなかった。音程をしっかり守って、輪郭を保ちつつ正確に歌うタイプなので、悪代官も嫌らしさが少な目なのだ。ヴェルディやベルカントのレパートリーがメインとプロフィールに記されているが、必要以上に威嚇しないスカルピアというのもある意味深読みできる「怖さ」がある。
 
それでも二幕では、スカルピアもほどほどに腹黒さを増す。一幕の一瞬で空気が転換していくオーケストレーションも見事だが(トスカ去る→カヴァラドッシとアンジェロッティの会話→アンジェロッティ逃走と堂守の再登場→児童合唱のくだりは手品のよう)、二幕は聴いていて全身が息苦しくなるほど圧倒される。あまりにリッチなスコアなので、それを聴いていることが快感なのかストレスなのかも判別しがたくなるのだ。拷問もレイプ未遂も殺人もファルネーゼ宮の「密室」で起こり、そうした美術が作られるが…オーケストラもつねに「密室」をサウンドで作り上げる。四方八方からの圧が凄いので、最終的に誰かが血を流さなければならないのは、物理的な帰結にも思える。五線譜でここまでの演劇を書き上げたプッチーニは、間違いなく規格外れの天才だった。

メーリの「勝利だ!」の熱唱、イゾットンの「歌に生き愛に生き」には完全に魅了されたが、二幕で大変なのはスカルピアとトスカの「真剣勝負」で、芝居的にも集中力を求められる正念場だと思う。イゾットンの初々しい、少しの嘘もない表情に胸打たれた。自由と誇りと愛する男を傷つけられたトスカが、スカルピアの心臓を一刺しする瞬間に、これほど共感したことはない。

古典的演出が素晴らしいのは、それぞれの幕がひけたときに「さっき死んだのは嘘ですよ」と登場人物が飄々と出てくることで、個人的にそこが大好きだ。血で息が詰まってもがき苦しんだスカルピアは、喝采のときポケットから何かを出して客席にアピールしたかったようだが、うまくいかなかったみたいでニコニコして袖に引っ込んだ(何を見せたかったのだろう)。

歌手の熱演にも増して、この再演では指揮者のプッチーニ解釈に感銘を受けた。カッレガーリはミラノ出身で、スカラ座管弦楽団に12年いたというが、オペラと音楽全般に対して非常に柔軟で広範な知識を持っている音楽家だと感じた。ヴェリズモ然としたところが少ないのは、恐らく歌手の声質に合わせているのだろう。「濃いドラマ」を聴かせようとすると掻き消えてしまうような、レース編みのような見事なオーケストレーションを詳しく聴かせてくれる。初日だが、東響は素晴らしい演奏をした。三幕の入りのとき、指揮者への喝采がそれほど大きくなかったのが気がかり。「濃い口」のドラマを求めてきた人は、もしかしたら予想外だったかも知れないが…オペラに対して内なる理念を秘めた、卓越した指揮者だと思う。

3幕では、予想外のシーンで涙した。好きなオペラは「トスカ・ボエーム・蝶々さん」と言って憚らない自分だが、『トスカ』は泣くオペラではない…しかしこの演出では、カヴァラドッシを救いに来たトスカが「あなたはお芝居で処刑されるの!」と言った瞬間に、本人は自分の死を理解している。大きな声では言わないが、メーリの姿を見ていればそれは明白だった。死を覚悟したカヴァラドッシが、お喋りなトスカに「ずっと喋っていてくれ…」と語るくだりは、絶望的な孤独感とともにある、最後の愛情表現に心臓が止まりそうになる。処刑されたカヴァラドッシを確認しようとするトスカに「お姫様、さあご覧ください」とばかりにお辞儀をするスポレッタの今尾滋さんが、最後まで気を抜かない見事な演技だった。
『トスカ』は1/25、1/28、1/31、2/3にも上演される。

















東京二期会『サムソンとデリラ』セミ・ステージ形式

2021-01-06 12:22:35 | オペラ
今年最初のオペラは二期会コンチェルタンテ・シリーズ『サムソンとデリラ』。渋谷駅からオーチャードホールまでの景色は、例年に比べて極端に人が少ない。13時からのゲネプロ(1/6キャスト)と、19時からの初日キャストの公演を聴いた。
指揮者はフランスの若手マキシム・パスカル。2020年12月4日に読響と共演して一か月以上経つが、年末年始も東京に滞在して二期会の『サムソン…』を振ることになった。「ヨーロッパでは劇場やコンサートホールは全て封鎖されているのに、日本で指揮できるのは素晴らしい。クレイジーでエキサイティング」と映像インタビューでも語っていたが、コロナの影響で急な代役に抜擢されるとは日本と不思議な絆があるのかも知れない。パスカルの音楽をひとつでも多く聴きたいと思う私のような者にとっては嬉しい事態だ。

『サムソンとデリラ』は実演で聴いた経験がほとんどない。歌手たちには高度な技術が求められる。ワンフレーズの中で転調が多く音程をとるのが難しいし、ヴェリズモ並みの声量と表現力が必要な上、デリラはロッシーニばりのアジリタも歌う。ゲネプロでは福井敬さんがサムソン、池田香織さんがデリラ、小森輝彦さんがダゴンの大司祭を演じた。サムソンが歌い出す前のオーケストラと合唱は長く、その間歌手は黙役のように舞台上を放浪するのだが、福井さんの演技は見事だった。「神よ!」の第一声もめざましい。ロシアの歌劇場などではゲネプロで「歌わない」歌手も多いが、日本の歌手は全力で歌う。ほとんど観客のいないゲネプロで、福井さんの本気の声を聴くのは大変な贅沢だった。

池田香織さんのデリラは高潔で、巫女のように感じられる演技だった。信じ難いほどの精緻さでサン=サーンスの奔放な旋律を歌い、音程が正確であればあるほど役に秘められたものの大きさが浮き彫りになる。ペリシテの神ダゴンを信仰するデリラは、ヘブライの神エホバから神の力を与えられ、ペリシテ人の圧政に反抗するサムソンを心から憎む。憎しみの根源にあるのが神であり、信仰なのであり、個人の情愛のスケールを超えているのだ。自分の神のために女の魅力を使ってサムソンの力を奪おうとする。

マキシム・パスカルと東フィルのサウンドは、合唱とソリストと一体化しつつ、もうひとつの声楽パートのように生き生きと、美しいモティーフを幾つも浮き彫りにした。フランス人だからフランス語の歌詞の一語一句を理解しているのだが、それに加えて全体から妖艶なフランスの「香り」を引き出していた。木管と絡む弦やハープが夢のような響き。指揮棒を使わず、全身で踊るようにオケを鼓舞するやり方は、2017年のパリ・オペラ座バレエ団の「ダフニスとクロエ」のときと同じだ(オケも東フィルだった)。あのときも、オケピで大活躍するパスカルに釘付けになった。
 東フィルのレスポンスは卓越していた。東フィルはオーチャードホールで定期を行っているから、ホールのアコースティックを味方につけていたと思う。コンマスは三浦彰宏さん。三浦さんはオケが「ラグジュアリーに鳴る」感覚を知り尽くしている方だが、その切り札をひとつだけでなく、いくつも持っていることに改めて驚愕した。イタリアオペラにはイタリアの、フランスオペラにはフランスの「グラマラス」があり、『サムソン』ではマキシム・パスカルが求めているオペラの神髄を現実化していた。軽やかさと透明感を保ちつつも、サウンドには宝石で出来た壁のような豪華な存在感がある。心臓が高鳴るほどハイセンスで洗練されていた。

デリラは相手をあざむくために変幻自在でカラフルな歌唱を披露するが、サムソンは一途で一直線で簡単に騙される歌を歌う。カルメンとドン・ホセであり、ジュリエッタとホフマンであり、ダゴンの大司祭はジュリエッタを操るダペルトゥットそのものだ。小森さんの大司教は確かにダペルトゥットを彷彿させた。この組は素晴らしい。オペラの陰と陽はふたつでひとつであり、サムソンとデリラは完璧なカップルだった。福井さんと池田さんは「トリスタンとイゾルデ」なのだ。二人の登場人物はどうしようもなく引き合う。憎しみと愛によって無限のドラマが生まれ、サムソンが目をつぶされてもまだ何かに飢えているようなデリラの演技が凄かった。デリラの憎しみは、何によっても癒えない。

闘っているのは神と神なのだ。紀元前から続いているこの執拗な争いが簡単に収まるはずはない。サン=サーンスは教会のオルガン奏者で宗教的な人物だったが、愛に関しては矛盾を抱えていた。愛が人生の苦しみであり、喜びであったと思う。マリア・カラスの名録音でも有名なデリラの二つのアリアが、この世のものならぬ陶酔だった。池田さんはどのような気持ちで歌われていたのだろうか。

終盤近く、目を潰されたサムソンをいたぶり、喜びの凱歌を歌うデリラとダゴンの大司祭の二重唱の旋律は奇妙だ。メロディは無味乾燥で何の魅力もなく、ただ空疎に「我々は復讐を果たした!」と歌っている。ロッシーニ風のアジリタが出てくるのはここだ。そのあとに、サムソンが自分の神に最後の問いかけをする。神は答える。見事なラストシーンだった。福井さんはオペラの中で役を完成させようとするより、オペラの終わりが新たなご自身の始まりとして捉えているのではないだろうか。歌手がすべての恐れを捨てて未知の可能性に飛び込もうとするラストに思えて仕方なかった。


同日の本公演では、板波利加さんのデリラ、樋口達也さんのサムソン、門間信樹さんのダゴンの大司祭で全く異なるオペラが展開された。オーケストラのサウンドも違っていた。樋口さんの声楽的なキャラクターが、初日組のオケのグラデーションを作っていたと思う。華やかでオペラティックで、「神に選ばれた」英雄の表現が鮮烈だった。デリラ板波利加さんは、これ以上のデリラがいるだろうかと思われる歌唱で、第一声から何か超自然的な力を感じた。板波さんは名歌手ジュリエッタ・シミオナートの愛弟子で、1幕ではシミオナートから譲り受けたドレスをお召しになっていたのだ。デリラの独唱は時空を超えた歌で、戦士サムソンを自分の家に招き入れようとする「癒し」の力も溢れ出ていた。2幕、3幕の見どころも素晴らしかったが、1幕ではほとんど…目を開けていられないほど涙が出た。感傷とは違う、何か深い感慨に貫かれた。この役は、魂から演じないと成立しない役なのだ。
勇敢でドラマティックな樋口さん、悪女の多面性を凄まじい香気で演じた板波さん、そしてこの公演ではダゴンの大司祭を歌われたバリトンの門間信樹さんが鮮烈だった。門間さんの歌を意識して聞くのは初めてかも知れない。長い歌が続く場面でも声が足りなくなるということがない。大司祭はこのオペラでは主役の一人であるということを教えていただいた。

マキシム・パスカルは、憎しみの表現によって自由を得ていくデリラを支え、矛盾こそが人間の本質であると音楽で伝えているようだった。どうしても指揮者のあの動きを見てしまう。東フィルの活躍が誇らしい。どんなオペラ指揮者の知性にも想像力にも応えていく力量に改めて胸を打たれた。
二回観ることで、映像演出に多くのメッセージが込められていることにも気づく。映像は栗山聡之さん、舞台構成は飯塚励生さん、舞台監督は幸泉浩司さん。セミ・ステージ形式とはいえ丁寧に作られている。
 
二期会合唱団の取り組みは果敢で、年末の第九を始め合唱は準備に困難を極めたこの時期だったと思う。そこで、思うように力を発揮できない団体も見てきた。二期会合唱団が歌う歌詞は、まるで2021年1月のこのときのために書かれたのではないかと思うほど黙示録的だ。すべては偶然のようで、偶然ではないのかも知れない。
2回休憩込み2時間55分。1/6午後7時からもオーチャードホールで公演が行われる。


タロットカードの「力」。サムソンの力を封じるデリラを彷彿させる。