藤原歌劇団『ラ・ボエーム』初日を鑑賞。東京文化会館でオペラ公演が行われるのは2020年2月の二期会『椿姫』以来だという。ミミ伊藤晴さん。ロドルフォ笛田博昭さん、ムゼッタ オクサーナ・ステパニュックさん、マルチェッロ須藤慎吾さん、ショナール森口賢二さん、コッリーネ伊藤貴之さん。鈴木恵里奈さん指揮・東京フィル。
岩田達宗さん演出のボエームは2014年に観ており、そのときは稽古見学もさせていただいた。役作りに関して妥協のない稽古で、特に心に残っていたのは、この時代の「貧困」の意味が男と女では違っていて、ボエームに登場する青年たちはまだ人生の重みを理解しておらず、一方女性は既に身に沁みて生きることの過酷さを実感している…という岩田さんの言葉だった。
今回はコロナ感染対策を踏まえての演出で、フェイスシールドの使用やカフェモミュスの場面での合唱の少なさ(児童合唱は事前に録音し、舞台には登場せず)、重唱でのディスタンスなどさまざまな変更が行われていたが、肝となる「男女の落差」というテーマは根強くオペラを貫いていた。
冒頭からはじまる屋根裏部屋の喧々諤々は歌手たちにとっても大変な場面で、めまぐるしくテンポを変えるオケとともに、ジェットコースターのような声楽のパスワークが行われる。歌詞もところどころ奇々怪々で「パセリを食わされた死んだオウム」の字幕を見て、毎回歌詞を忘れている自分に気づいた。プッチーニは『ファルスタッフ』の見事なアンサンブルを自分のオペラでも再現したかったのかも知れない。詩人、画家、音楽家、哲学者の卵たちの元気なやりとりは楽しく、まるで5人目の若者のように…指揮者の鈴木恵理奈さんがピットで飛び跳ねているのが見えた。プッチーニはオペラ指揮の中で最も難しい…というピーター・ゲルブの言葉を再び思い出す。東フィルはこのオペラをよく知っているというのも心強いが、指揮者も大変な度胸がいるだろう。来日不可能となった指揮者の代役だったが、新鮮な音楽に触れることが出来た。
ロドルフォ笛田さんとマルチェッロ須藤さんというのは、つくづく藤原のドリーム・コンビだと思った。血気盛んな若者を演じる二人の掛け合いは情熱的で、見逃してしまいそうなほど細かく作り込んでいる須藤さんのお芝居には唸らされた。「冷たい手を…」では、笛田さんのハイCを楽しみに待ち構えている聴衆の「圧」のようなものを肌で感じたが、短いアリアなのに、この音に至るまでにプッチーニはテノールに地獄の13階段を上らせる…笛田さんは勇敢で、高音も見事だった。
ロドルフォはもっと夢想的な部分があってもいいかな…とも思ったが、雄々しいテノールのアリアと「私の名はミミ」とのコントラストは美しかった。男の歌のあとの女の歌であることが強調された。ミミの伊藤晴さんは、2014年の公演ではムゼッタだったが…完璧なミミだった。受け身で慎ましく可憐。「あっ、鍵をなくした」と戻ってくるミミの一声は、台本としてかなり「ケモノっぽい」(!)と思うのだが、まったく嫌味がなかった。
ミミとは何者か…「食事はたいてい一人でとります。教会にはあまり行きませんが、お祈りはしています」という歌詞は、現代から見るとあまりに可哀想でみじめだ。ロシアの7つ星ホテルで、両手のほとんどの指に大きなダイヤをはめていたマリア・グレギーナにインタビューしたとき「この人にミミは歌えないな」と思ったのを思い出す。実際グレギーナはトゥーランドットを歌うが、ミミは歌わない。現代のソプラノ歌手にとってミミを演じるというのはどういうことなのか、改めて考えた。この役はファンタジーなのか、時代遅れの悲劇のヒロインなのか。
伊藤晴さんのミミの発声は清らかで、どこか聖母を彷彿させ、ロドルフォの突き上げてくるパッションを受け止める海のような大地のようなおおらかさが感じられた。ミミは演じすぎてもいけない。それでも3幕のアンフェール門のシーンでは、泣き崩れるミミの姿に胸がつぶれた。4幕では毎回客席で誰かがすすり泣いているのが聴こえるが…オケが「風前の灯」のような悲しい音を出すから泣けるというのもあるが…プッチーニはこのオペラに「弱い性」の宿命的な悲劇を見ていた。
ミミは小さな世界で生きていて「これだけのものしか持っていない」という貧しさを隠さず表す。まったく男女同権時代にふさわしくない、ちっぽけでみじめな存在だ。パスカルの「パンセ」の、有名な「人間は考える葦である」という言葉を思い出した。デカルトは「すべては論理だ」と主張したが、パスカルは人間はか弱い葦であり、幾何学的知性だけでは不完全で、繊細さなしでは哲学は築けないと反論した。男性の強さ=論理だけでは世界は見えないのだ。英雄でもない、平凡で貧しいミミは、祈りと刺繍の日々の中でひっそりと尊厳を保つ「考える葦」であった。
新国の「トスカ」を見たばかりということもあって、わが脳内ジュークボックスはテノールの「冷たい手を…」「妙なる調和」「見たこともない美女」(マノン・レスコー)がループしていた。似たような歌で、初対面の女性に対して愛を語っていたり、教会でお祈りをする知らない美女に対して憧れを抱く歌だったりして、いずれも相手のことをよく見ていない。恋は盲目、の歌で、お互いをよく知ったからといって素敵なアリアが出て来るわけではない。女の方もそうした男の妄想なしでは生きていけないし、愛の夢をみることも出来ない。
最高のラブストーリーとは誤解の産物で、そこに生産性はない。儚い美があるだけだ。『蝶々夫人』のストーリーを悪くいう人があまりに多いので、あの話が大好きな私は毎回困ってしまうのだ。プッチーニが手を変え品を変え語る恋愛論は、あまりに見事で、そこに人間の鋭い本質が描かれていることを認識する。指揮者の鈴木さんは大物で、「女性の前ではつい暴走してしまう」男性心理も生き生きと描き出していた。オペラは指揮も演出も、両方の性を分かっていないと出来ない。ピットに若い女性指揮者が入ると、マエストラを軽視する伝統があるオケもあると聞いたことがあるが、東フィルはそんなことはしないのだろう。有難いサウンドだった。
『ラ・ボエーム』は確かに哲学的なオペラで、ラスト近くで哲学者のコッリーネが歌う「古ぼけた外套よ」は、そのことを強く印象づける。バスの伊藤貴之さんが、姿形も19世紀の人物のようで凄い迫力だった。ここだけプッチーニはヴェルディのような書き方をしているようにも思う。コッネーネ唯一のソロで、厳粛な気持ちになった聴衆は大きな喝采を送らずにはいられなくなるのだ。
ムゼッタのオクサーナ・ステパニュックさんはコメディエンヌ的な軽妙さでヒロインと正反対のモダンな女性を演じ「ムゼッタのワルツ」も楽しく聴かせた。声量よりもニュアンスと音程の正しさで聴かせ、3幕のマルチェッロとの痴話げんかも良かった。あの男女の罵り合いも充分に哲学的で、プッチーニほど男女のことをよく知っている作曲家もいるだろうか…と思ってしまう。
フェイスシールドは一幕のミミとロドルフォの出会いのシーンでは外され、ラストでは装着されていたが、万難を排しての上演には感謝しかなかった。しつこいようだが、この世界になくてはならないオペラは「トスカ、ボエーム、蝶々さん」だと改めて認識した(!)公演だった。
岩田達宗さん演出のボエームは2014年に観ており、そのときは稽古見学もさせていただいた。役作りに関して妥協のない稽古で、特に心に残っていたのは、この時代の「貧困」の意味が男と女では違っていて、ボエームに登場する青年たちはまだ人生の重みを理解しておらず、一方女性は既に身に沁みて生きることの過酷さを実感している…という岩田さんの言葉だった。
今回はコロナ感染対策を踏まえての演出で、フェイスシールドの使用やカフェモミュスの場面での合唱の少なさ(児童合唱は事前に録音し、舞台には登場せず)、重唱でのディスタンスなどさまざまな変更が行われていたが、肝となる「男女の落差」というテーマは根強くオペラを貫いていた。
冒頭からはじまる屋根裏部屋の喧々諤々は歌手たちにとっても大変な場面で、めまぐるしくテンポを変えるオケとともに、ジェットコースターのような声楽のパスワークが行われる。歌詞もところどころ奇々怪々で「パセリを食わされた死んだオウム」の字幕を見て、毎回歌詞を忘れている自分に気づいた。プッチーニは『ファルスタッフ』の見事なアンサンブルを自分のオペラでも再現したかったのかも知れない。詩人、画家、音楽家、哲学者の卵たちの元気なやりとりは楽しく、まるで5人目の若者のように…指揮者の鈴木恵理奈さんがピットで飛び跳ねているのが見えた。プッチーニはオペラ指揮の中で最も難しい…というピーター・ゲルブの言葉を再び思い出す。東フィルはこのオペラをよく知っているというのも心強いが、指揮者も大変な度胸がいるだろう。来日不可能となった指揮者の代役だったが、新鮮な音楽に触れることが出来た。
ロドルフォ笛田さんとマルチェッロ須藤さんというのは、つくづく藤原のドリーム・コンビだと思った。血気盛んな若者を演じる二人の掛け合いは情熱的で、見逃してしまいそうなほど細かく作り込んでいる須藤さんのお芝居には唸らされた。「冷たい手を…」では、笛田さんのハイCを楽しみに待ち構えている聴衆の「圧」のようなものを肌で感じたが、短いアリアなのに、この音に至るまでにプッチーニはテノールに地獄の13階段を上らせる…笛田さんは勇敢で、高音も見事だった。
ロドルフォはもっと夢想的な部分があってもいいかな…とも思ったが、雄々しいテノールのアリアと「私の名はミミ」とのコントラストは美しかった。男の歌のあとの女の歌であることが強調された。ミミの伊藤晴さんは、2014年の公演ではムゼッタだったが…完璧なミミだった。受け身で慎ましく可憐。「あっ、鍵をなくした」と戻ってくるミミの一声は、台本としてかなり「ケモノっぽい」(!)と思うのだが、まったく嫌味がなかった。
ミミとは何者か…「食事はたいてい一人でとります。教会にはあまり行きませんが、お祈りはしています」という歌詞は、現代から見るとあまりに可哀想でみじめだ。ロシアの7つ星ホテルで、両手のほとんどの指に大きなダイヤをはめていたマリア・グレギーナにインタビューしたとき「この人にミミは歌えないな」と思ったのを思い出す。実際グレギーナはトゥーランドットを歌うが、ミミは歌わない。現代のソプラノ歌手にとってミミを演じるというのはどういうことなのか、改めて考えた。この役はファンタジーなのか、時代遅れの悲劇のヒロインなのか。
伊藤晴さんのミミの発声は清らかで、どこか聖母を彷彿させ、ロドルフォの突き上げてくるパッションを受け止める海のような大地のようなおおらかさが感じられた。ミミは演じすぎてもいけない。それでも3幕のアンフェール門のシーンでは、泣き崩れるミミの姿に胸がつぶれた。4幕では毎回客席で誰かがすすり泣いているのが聴こえるが…オケが「風前の灯」のような悲しい音を出すから泣けるというのもあるが…プッチーニはこのオペラに「弱い性」の宿命的な悲劇を見ていた。
ミミは小さな世界で生きていて「これだけのものしか持っていない」という貧しさを隠さず表す。まったく男女同権時代にふさわしくない、ちっぽけでみじめな存在だ。パスカルの「パンセ」の、有名な「人間は考える葦である」という言葉を思い出した。デカルトは「すべては論理だ」と主張したが、パスカルは人間はか弱い葦であり、幾何学的知性だけでは不完全で、繊細さなしでは哲学は築けないと反論した。男性の強さ=論理だけでは世界は見えないのだ。英雄でもない、平凡で貧しいミミは、祈りと刺繍の日々の中でひっそりと尊厳を保つ「考える葦」であった。
新国の「トスカ」を見たばかりということもあって、わが脳内ジュークボックスはテノールの「冷たい手を…」「妙なる調和」「見たこともない美女」(マノン・レスコー)がループしていた。似たような歌で、初対面の女性に対して愛を語っていたり、教会でお祈りをする知らない美女に対して憧れを抱く歌だったりして、いずれも相手のことをよく見ていない。恋は盲目、の歌で、お互いをよく知ったからといって素敵なアリアが出て来るわけではない。女の方もそうした男の妄想なしでは生きていけないし、愛の夢をみることも出来ない。
最高のラブストーリーとは誤解の産物で、そこに生産性はない。儚い美があるだけだ。『蝶々夫人』のストーリーを悪くいう人があまりに多いので、あの話が大好きな私は毎回困ってしまうのだ。プッチーニが手を変え品を変え語る恋愛論は、あまりに見事で、そこに人間の鋭い本質が描かれていることを認識する。指揮者の鈴木さんは大物で、「女性の前ではつい暴走してしまう」男性心理も生き生きと描き出していた。オペラは指揮も演出も、両方の性を分かっていないと出来ない。ピットに若い女性指揮者が入ると、マエストラを軽視する伝統があるオケもあると聞いたことがあるが、東フィルはそんなことはしないのだろう。有難いサウンドだった。
『ラ・ボエーム』は確かに哲学的なオペラで、ラスト近くで哲学者のコッリーネが歌う「古ぼけた外套よ」は、そのことを強く印象づける。バスの伊藤貴之さんが、姿形も19世紀の人物のようで凄い迫力だった。ここだけプッチーニはヴェルディのような書き方をしているようにも思う。コッネーネ唯一のソロで、厳粛な気持ちになった聴衆は大きな喝采を送らずにはいられなくなるのだ。
ムゼッタのオクサーナ・ステパニュックさんはコメディエンヌ的な軽妙さでヒロインと正反対のモダンな女性を演じ「ムゼッタのワルツ」も楽しく聴かせた。声量よりもニュアンスと音程の正しさで聴かせ、3幕のマルチェッロとの痴話げんかも良かった。あの男女の罵り合いも充分に哲学的で、プッチーニほど男女のことをよく知っている作曲家もいるだろうか…と思ってしまう。
フェイスシールドは一幕のミミとロドルフォの出会いのシーンでは外され、ラストでは装着されていたが、万難を排しての上演には感謝しかなかった。しつこいようだが、この世界になくてはならないオペラは「トスカ、ボエーム、蝶々さん」だと改めて認識した(!)公演だった。