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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

日生劇場 オペラ『ルサルカ』(11/9)

2017-11-12 21:33:29 | オペラ
今年の日生劇場オペラはドヴォルザークの『ルサルカ』。難しいチェコ語のオペラに日本の歌手たちが挑戦し、指揮者の山田和樹さんと、山田さんが首席客演指揮者に就任したばかりの読響がオケピに入った。11/9の初日キャストを鑑賞。
舞台美術はごくシンプル。オケピに入りきらなかったのか、演出なのか、ステージ下手側に木管奏者が11名、上手側にホルン奏者が4名乗っていて、歌手たちと一緒に視界に入ってくる。その影響で歌手たちが使えるスペースが少なくなるのだが、演出的には問題がないようだった。転換なしでさまざまな照明によって人魚のルサルカが住む海の世界と、地上の人間界が同じ空間で演じられていく。

田崎尚美さんのルサルカは、変身前は赤毛の縮れ毛(?)でヒッピー風の衣裳をつけている。生命力に溢れた若々しい娘といった雰囲気だ。有名なアリア「月に寄せる歌」はオペラが始まって間もなく歌われるのだが、田崎さんの歌はとても清楚で、潔く、純粋な表現だった。田崎さんは二期会『イドメネオ』でのエレットラの迫力の演技や、カヴァー歌手による演奏会でのイゾルデが心に残っている。
声量豊かで、時には毒々しい女性にも変身する田崎さんが、すべての飾りを捨ててルサルカを歌っていた。色白でお顔立ちが美しいので、ルサルカはフィギュア的にも似合っている。エレットラやイゾルデにもなれるが、一番田崎さんの本質に近いのがルサルカなのではないのかと思った。

ルサルカを人間の世界へ送る手伝いをする魔法使いイェジババは、清水華澄さんが歌われた。絶妙な役作りをされていて、表情豊かで発声も鮮やか、見ていて心湧きたつ演技だった。清水さんは本気で役を突き詰めていくタイプで、これまで『ドン・カルロ』のエボリ公女でも、『アイーダ』のアムネリスでも、『仮面舞踏会』のウルリカでも、「何が正解なのか?」をご自身を苛め抜くような厳しさで追究されてきた(清水さんのブログより)。魔法使いや占い師など「この世とあの世を往来する女性」を演じさせたら清水さんに叶う人は少ないのではないか。
声楽的にも、不自然で奇妙な旋律が多く大変なイェジババだが、それが滑らかに歌われることで、逆にこの人間の世界が奇妙なものに思えてくる。
他の舞台でなじんだ歌手の皆さんが出ているだけに、全員が真剣に役作りを究めていることが感動につながった。

一度ルサルカを愛するが物言わぬ冷たい身体の人魚の娘に愛想をつかし、外国の公女に心移りする王子を、樋口達哉さんが歌われた。樋口さんが王子を演じたことで、オペラの想像界のさまざまな物語が浮き彫りになった。ルサルカの王子とは何者か…それは樋口さんが今までに歌われてきたマントヴァであり、ピンカートンであり、ウェルテルであり、ホフマンであった。一言では裏切り者とは言えない…二幕で、一言も言葉を語れないルサルカは白いドレスを着たままずっと塑像のように静止しているのだが、三幕では対になったかのように今度は王子が、机に向かって悩みながらずっとものを言わずにいる。そのときの樋口さんの表情をオペラグラスで凝視してしまったが…ルサルカを裏切った後悔と、彼女を忘れられないことの懊悩で、本当に苦しそうだった。

外国の公女は腰越満美さんが、鹿鳴館時代の貴婦人のようなファッションで妖艶に歌われた。少しサディスティックな魅力のある姫で、最初腰越さんだと気づかなかった。オペレッタの奥様役を思い出す。貴族的ですこし冷たく、生きた男のあしらい方を知っている役は、大人っぽい魅力の腰越さんによく合っていた。この公女には、モデルがいたのではないかと思うくらいキャラクターがはっきりしている。動かぬルサルカをあざ笑うように、世俗の人々はラジオ体操のような(!)運動を始めるのだが、それもすべて鹿鳴館テイストなのが面白かった。舞台の高いところには、大日本帝国の国旗によく似た旗が飾られていたのは何かの暗示だろうか。

山田和樹さんと読響は始終息ぴったりで、人魚の物語に相応しく幻想的でありながら、人間の心の闇をのぞき込むようなミステリアスな深みも感じさせ、完璧な劇場の音楽だった。読響はワーグナーをはじめピットでの経験豊富なオケなので、ドヴォルザークもワーグナーの森や湖、岩山を幻視させる。山田さんは一階席からもほぼ全身が見える高さで指揮をされており、柔らかい動きがオーケストラの流れを導いていく様子が詳しく見えた。

ルサルカは悲恋の物語だが、これは王子の悲恋の物語でもあった。こう思えたのは初めてで、それはやはり樋口さんのお陰だった。ピンカートンもウェルテルもホフマンも、誰を愛すればよいのかわからない。女の心を傷つけた後には業罰が待っているのだが、未熟な男たちは実のところ無辜なのだ。ラスト近くで、ルサルカを追い求める王子とルサルカのやり取りは、『蝶々夫人』の書かれざる最終幕のように見えた。他の女に目がいったが、本当の妖精は君だった…そんな愚かな後悔がこのオペラにはきちんと書かれているのだった。

宮城聰氏のシンプルな演出コンセプトは、オペラ歌手たちにそれぞれの役を深く掘り下げさせた点で正解であった。一人一人が溢れるような魅力をもつ演劇人であることを知らせてくれた。「ルサルカ」はこの世と異界とが出会う物語だが、劇場の暗闇はこうした異次元のとの交流を描くのに一番ふさわしい場所なのだ。バレエもオペラも、闇と異界と変身と幽霊が出てこないもののほうが珍しい。ルサルカの父である水の精ヴォドニクを演じた清水那由太さんは、このオペラと「リゴレット」の類似性を浮き彫りにした。
華やかな魔女たちを演じた森の精1の盛田麻央さん、森の精2の郷家暁子、森の精3の金子美香さんは舞台を漂いながら魅力を振りまき、森番デニス・ビシュニャさん、料理番の少年・小泉詠子さんの掛け合いも楽しかった。東京混声合唱団も幻想的な合唱を聴かせてくれた。
チェコ語に関しては全く分からないので、ディクションについてはどう評価したらよいか分からない。私ならスペルを見ただけで縮み上がってしまう言語を、よく全幕で歌ってくれた…今後このオペラに挑戦する歌手たちへの大きな励みにもなったと思う。
(写真は森の精を演じた金子美香さんと、楽屋を訪れたときのツーショット)



東京芸術劇場『トスカ』

2017-10-31 01:22:32 | オペラ
全国共同制作プロジェクト『トスカ』の東京芸術劇場での上演を観た(10/29)。
このプロジェクトについては、夏に演出の河瀨直美さんにスカイプ・インタビューをさせていただいており、大きな期待をもっていた。観る前から、絶賛の評を書くスタンバイをしていたのだが、嘘を書くわけにはいかない。実際、終演後にお会いした複雑な表情のジャーナリストや評論家の方たちはどう思っていたのか…。笑顔で受付をしてくれたホールの皆さんを思うと、よいことを書きたいという思いも山々なのだ。
世界的な評価を得ている映画監督の河瀨直美さんが、オペラの演出をされるのは画期的なことだった。ローマ歌劇場でもソフィア・コッポラ演出の『椿姫』が話題になり、来年はキアラ・ムーティ演出の『マノン・レスコー』とともに日本でその舞台を観ることができる。古くはリリアーナ・カヴァーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』などもあったが、ロイヤルオペラ『マクベス』のフィリダ・ロイドや、過激演出のカロリーネ・グルーヴァーを数え上げても、まだまだ女性のオペラ演出家は少数派だ。河瀨さんが「女の物語」である『トスカ』を古代日本に似た設定で演出されると聞いたときは、嬉しく思ったのだ。

一幕で、左右に神社の鳥居のようなセットを見た時は興奮した。奥のスクリーンに霊山が映し出され、堂守がうやうやしげに山に拝んでいる姿を見た時は「やった!」と思ったのだ。トスカの信仰の物語を古代日本の自然崇拝に置き換える…という新しい試みは、一幕冒頭では成功していたと思う。世界の河瀨さんが日本のトスカを作り上げた…ということを、多くの人々に知って欲しいと思った。
最初の失望は、演出とは関係がないが…カヴァラドッシ(カバラ導師・万里生)役のテノール、アレクサンドル・バディアが、ひどく生気のない声で「妙なる調和」を歌ったことだった。海外のゲスト歌手は、ゲネプロで日本人歌手が全力で歌っているときも本番のために声を温存していることがあるが(つられて途中から本気を出す人もいる)、このテノール歌手の声を聴いて、ゲネプロなのかと思った。不調で変化球の歌唱をしているのかとも思ったが、そうでもないようだ。いつからかは分からないが、多分とうの昔に情熱を失ってしまったのだろう。ディクションも発声も演技も満足できなかった。通常、歌手についてこのような感想を書くことはない。

そのような相手役なので、トスカ(トス香)のルイザ・アルブレヒトヴァも頑張ってはいたが、自分の情熱と相手の演技が調和しないもどかしさがあったと思う。アルブレヒトヴァは経歴を見るとドイツ系のレパートリーがメインで、そのことを記者会見で質問したところ、トスカは既に3つのプロダクションで歌っており、自分なりの挑戦をしているという答えだった。理想のトスカとまではいかないが、発声も演技も頑張っていたと思う。

カヴァラドッシが今一つだった代わりに…スカルピア(須賀ルピオ)の三戸大久さんが誠実ないい演技をし、声楽家として筋の通った生きざまを見せた。スカルピアにも人間的な面がある、という演出の効果もあったのだろうが、オペラでもバレエでも結局はその人の本質というものは隠せない。声のひとつひとつが、胸に響いた。毎日真剣に積み上げてきた人の声だと思った。スカルピアのテ・デウムで一幕が終わったとき、この上演で一番の収穫は三戸さんなのではないかと予感した。

演出に明確な疑問を感じ始めたのは、二幕に入ってからだった。捕えられたカヴァラドッシが扉の向こうで拷問を受け、トスカがスカルピアの欲望の餌食となり、スリリングな駆け引きが行われるこの幕は、プッチーニがたくさんのことを演出家に託している。ホールオペラなので転換が難しいのは承知しているが、この幕で、演出らしい演出が見えなかった。スクリーンにえんえんと映し出される水疱や海底からみた海面の様子は、何を暗示しているのかわからないし(溺れる者が海から脱出しようとする暗示なのか)、それはあまりに長く続いた。カットも気になった。ナポレオンの勝利を聞きカヴァラドッシが「ヴィットーリア!」と歌い出すところは、その前のやり取りがごっそり抜けているので何に対して勝利を歌っているのか理解に苦しむ。スカルピアが完全な悪人でないという設定では、窮地に追い込まれたトスカが「歌に生き…」を歌う場面での切迫感にも欠ける。
古代日本、という設定はスカルピアの衣装などからもう無効になっていることは分かったが、トスカがどの瞬間に、何を使ってスカルピアを殺そうと思い立つのかは、プッチーニが演出家に託しているハイライトで、カルメンがどんなものでホセに殺されるか…ナイフか、割れたビンの切っ先か…と同じくらい重要なものだ。

トスカは、皿の横に置いてあるテーブルナイフをなんとなく見つけてスカルピアを殺すのだが、オペラグラスで見てもそれはバターナイフにしか見えず、女のトスカが食事に使う小さなナイフで大の男を殺せるとは、演劇的にも現実的にも可能だとは思わなかった。小さなナイフを振り上げて、スカルピアを刺した瞬間、スクリーンに打ち上げ花火がパーンパーンと映った。プッチーニがこれを望んでいるとは思えなかった…トスカが殺人を行うこの場面は、こういうことではなかったはずだ。

色々な違和感が重なったが、それでもオペラは「トスカ」だった。なんと、プッチーニは簡単に壊されない。その強靭に張り巡らされた「プッチーニの結界」には驚くばかりだったが、それはスカルピアの三戸さんをはじめとする、スポレッタの与儀巧さん、アンジェロッティの森雅史さん、堂守の三浦克次さん、シャルローネの高橋洋介さん、看守の原田勇雅さんらの真摯な演技の賜物だった。日本人のオペラ歌手は…今回は若手が多かったが…今やこんなにも立派なのだ。
カヴァラドッシのバディアは残念ながらミスキャストで、この先の公演で少しでもいい演技をしてくれることを祈るが「星は光りぬ」で気持ちは三段落ちし、トスカも彼に恋をしていないようだった。あのラスト近くのユニゾンが、まったくバラバラでちぐはぐに聴こえた。

東京フィルは素晴らしいプッチーニを奏で、細部に渡るまで洗練されていた。多少ボリュームが大きく感じられた箇所もあったが、客席をつぶして平土間にオケピを作っているのだから仕方がない。舞台の後ろにオケを持ってくるわけにもいかないし…起伏に富んだシンフォニックなサウンドで良かった。広上淳一さんの指揮は明快で、合唱にもわかりやすい動きで指示を出していた。時折陶酔するような動きでメロディアスなプッチーニを滔々と聴かせてくれたのもよかった。ある種の通俗性がプッチーニには必要なので、この指揮には異論はない。

プッチーニのリッチなスコアは、トスカのサンタンジェロ城からの転落に向かってピラミッドの先端のように研ぎ澄まされていく。あそこでトスカは「スカルピア、神の御前で!」と叫んで落ちていくのだ。自殺する自分も、罪を犯したスカルピアも、地獄に落ちる運命なので、私たちはそこで再び会う、という言葉である。
そのラストが、別の部分のトスカの歌の挿入によって、全く別のものになっていた。最後のアルブレヒトヴァの歌声は、録音であった。なるほど、コンヴィチュニーも譜面を変えるし、録音を使う……。
河瀨さんの映画では、自然光がとても美しい。自然な光を浴びた「演技を超えた」人々のありのままの表情は、観る者の胸を打つ。他の監督の映画では、すべてが人工的だ。河瀨さんは、窮屈な劇場の暗闇から「トスカ」を自然光の当たる場所へ出してあげたかったのだ。あるいは、そうして欲しいと強く薦める人がいたのかも知れない。
私は自然にはほとんど関心がなく、劇場の埃臭い緞帳や奈落や暗闇が好きなのだ…トスカや蝶々さんやミミがいる暗闇に深い安息を感じ、オペラの幽霊たちに癒されたいと思った。













東京二期会『蝶々夫人』(10/9)

2017-10-09 21:15:55 | オペラ
プッチーニの『蝶々夫人』は大好きなオペラだ。6日から東京文化会館で上演されていた二期会の名作オペラ祭は4日間全部観たかったが、色々重なって最終日だけを観た。歌だけでなくオーケストラや合唱すべてがよく出来ている作品なので、これが舞台で上演されるだけでも嬉しい。指揮はあいちトリエンナーレの『魔笛』も振っていた1978年生まれの若手指揮者ガエターノ・デスピノーサ。
冒頭部分、指揮者によってはすさまじい風圧(?)で低弦を鳴らすところを、コントラバスの音がほとんど聞こえなかった(一階席前方)。ピットは深め。一幕を通じて、指揮者はプッチーニを「薄めに」作っていた印象だった。テンポはかなり速く、東響は素晴らしく忠実についていったが、スズキの山下牧子さんの歌い出しがあんなにアクロバティックに感じられたことはなかった。ただでさえ早口言葉のようなスズキの最初のフレーズが、つむじ風のようだった。コンマ一秒もズレずにグッド・タイミングで決めたのは流石スズキのエキスパートの山下さんだ。

ピンカートンの宮里直樹さんはこれが二期会デビューで、若々しく瑞々しいピンカートン。前半は緊張気味だったが、それでも高音の持っていき方に度胸があり、声量もある。ピンカートンは軽率な男だが、嫌味があるかないかは歌手のキャラクターによって決まる。二期会の舞台を初めて踏む宮里さんは、ピンカートンにとって日本のすべてが初めてで、恋をするのも初めて…といった「初めてづくし」の演技に見えた。昔はやきもきしながらこの役を睨んでいたが、最近では危なっかしい自分の息子のように思えてしまうことがある。
蝶々さんに夢中で、せかせかと落ち着きない恋心を歌うピンカートンを諭すように「実は昨日、領事館に彼女がきたのだよ」と歌うシャープレスのメロディはとても美しい。デスピノーサはようやくここでテンポを落としてくれたが、もっともっとゆっくりでもよかった。シャープレスは今井俊輔さんが歌われた。

蝶々さんは森谷真理さん。このキャスティングを聞いたとき、ドイツもののイメージが強い森谷さんがドラマティックなイタリアものを歌うことが意外だったが、よく準備をされていて、音程にも隙がなかった。蝶々さん登場のシーンは、オペラの中でも好きな旋律のひとつ。森谷さんは完璧主義者なのだろう。音程やディクションへの細やかな努力が伝わってきたが、演技の面ではラブストーリーには見えなかった。
これは演出に起因しているのかも知れないが、ピンカートンと蝶々さんは愛の二重唱を歌っているときもずっと離れていて、蝶々さんはピンカートンから距離を置き続けているのである。避けているようにも見える。前回の上演もこうであったか…記憶が曖昧なのだが、二人の間に恋が生まれているようには見えず、声楽的に「歌っている」印象しか残らなかった。

この齟齬感は何なのか…ひとつは指揮にもあった。
前半はテンポが速すぎたし、ドラマ作りへの関心も希薄であるように思えた。歌劇場のコンマスの劇場経験もあるデスピノーサだが、「蝶々夫人」に対してはあまり物語に関心がないのか、みんなを怖がらせる叔父ボンゾの登場も、本気で驚かせようとはしておらず「譜面の通りやってる」感じだった。折角のボンゾなのに迫力が半減だったのだ。
もしかしたら、蝶々さんに過剰な愛情を抱いているのは私だけで、指揮者もけったいな物語だと思っているのかも知れない…などという不安が頭をよぎる。

蝶々さんは本当に、異国文化を誤解したオペラで、その罪を誰に問おうとしても詮なきことだが、同時に真実の物語でもある。文化の摩擦や政治的葛藤より大切なのは、男女のラブストーリーであるということだ。物事にはダブルの意味があるが、アメリカと日本の主従関係は、恋物語であるほどには重要ではないと思う。エキゾティシズムという要素は大きい。
男女の間にはつねに誤解が存在するが、この「エキゾティックな誤解」は、宗教的な罪悪感が多くを占めている。ピンカートンはキリスト教徒で、蝶々さんも夫にならって一人で改宗を行うが、ピンカートンから見れば蝶々さんは自分の宗教の埒外にいる存在で、それゆえに性的な罪悪感を感じずに済む快楽の対象なのだ。
若さと勢いで他人の痛みをかえりみず、自分勝手な結婚をするピンカートンだが、基本的にだいたい、男は女を誤解しているし、若い頃は相手のことなどロクに考えないものだ。
ピンカートンは凡庸な男なのだ。それゆえラストの三重唱では懺悔のような歌を歌う。

日本の『蝶々夫人』は、プッチーニの書いたエキゾティシズムに対して防御的であり続けてきたと思う。「本当の日本はこんなふうに正しく着物を着て、こんなふうにおしとやかな所作で…」という「オウム返し」なリアクションで、どのオペラ団体でもそれをやる。二期会の栗山演出が不朽の名作であることを認めつつ、そろそろ変わってもいいのではないかと思う。世界中の歌劇場で蝶々さんは上演され、はみ出した演出はブーイングを浴びているが、そもそも「誤解」がベースにあるオペラなのだから、演出が多少逸脱的であっても、逆に正解なのではないかと思う。
「どうですか。これが正解なのです」という純和風の蝶々さんは、藤原、新国でも上演されているが、未来永劫これが続くことは、オペラ的によいことだとは思えない。日本で蝶々さんを初演した藤原は「お家芸」だからいいとして二期会、新国はそろそろ新しい冒険をしてもいいのではないか。
西洋という「他者」からの視線が結実しているオペラに、冴えた返答を行う…それは「蝶々夫人」という機会しかないのだ(『イリス』や『ミカド』も名作と言えば名作だが、蝶々さんは桁外れな名作だ)。

後半、オーケストラはだいぶ呼吸感が寛いできたが、デスピノーサはドラマティックなヴェリズモ・オペラとしてではなく、淡い語り口の劇付随音楽としてサウンドを作っていたという印象。「ある晴れた日に」は森谷さんの絶唱に会場が湧き、見せ所を完璧に決める歌手のメンタルの強さに驚いた。演劇的には、やはりスズキの山下さんが一人だけずば抜けていて、この役のことも深く愛していた。蝶々さんでは、もっと歌手たちに自分の役を愛して欲しいのだ。狂おしくてたまらないほど役を愛して愛して愛し抜いてほしい…と思うのは、プッチーニのオペラのファンの勝手な言い分だろうか。
蝶々さんの死を予見したかのようなスズキ、ピンカートン、シャープレスの三重唱は、プッチーニがヒロインのために書いた「先取りされたレクイエム」のような曲。ここで、シャープレスは居丈高に直立したままなのが腑に落ちなかった。これはもっといい役で、譜面にもそのことが書かれているのである。


















バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』

2017-09-22 13:49:23 | オペラ
バイエルン国立歌劇場の6年ぶりの来日公演は『タンホイザー』で幕を開けた。総勢400名以上の歌手、オーケストラ団員、スタッフを伴っての大規模な引っ越し公演で、初日のNHKホールのエントランスにはドイツ国旗の赤・黄色・黒の幕が威風堂々とたなびいていた。前回の来日公演は震災直後の混沌とした時期に行われ、NHKホールでの『ローエングリン』では降板したヨナス・カウフマンの代わりにヨハン・ボータがタイトルロールを歌った。そのボータももはやこの世にはない。
記者会見では、ニコラウス・バッハラー総裁が2011年当時を思い出し「日本の人々が冷静で、音楽に集中しているのを見て、音楽の力の大きさを思った」という言葉を述べた。
ドイツの歌劇場と日本との特別な友情と揺るぎない信頼がベースとなっている、という意味の公演でもあったのだろう。ホールを彩ったドイツ国旗の色が眩しかった。

この来日公演では「初登場」がたくさんあった。最も注目されていたのはバイエルン国立歌劇場の音楽総監督で、次期ベルリンフィルのシェフとなるキリル・ペトレンコで、自らをほとんど語らずインタビューも受けない神秘のヴェールを被ったマエストロの「初来日」であった。記者会見でのペトレンコは始終微笑みを絶やさず、質問にも気前よく答え、至極まっとうな人であったが、同時に「どこにもいないが、どこにでもいる」魔術師のような存在感も放っていた。
『タンホイザー』は序曲からただならないオーケストラの響きで、ロングヘアの美しいアマゾネス風(騎馬族でないワルキューレ?)の美女たちがずらりと並び、その幻影のようなシルエットと音楽がぴったりと寄り添っていた。美女たちが髪の毛をさらりとほどくシーンでは、弦のさざめきが髪の毛のような絹の悲鳴をあらわした。ノセダと同じく、ペトレンコも演出の視覚的な要素に限りなく近づくタイプのオペラ指揮者で、総合芸術としてのオペラの可能性を限界まで引き上げて行こうとするタイプなのだ。
指揮をするペトレンコの左手は催眠術のようで、柔らかくフェミニンな音をオケから引き出し、音は伸縮自在で宇宙のかなたまで引き延ばされたかと思うと、宝石箱に収まるくらいに縮まったり、驚きの瞬間が無数に訪れた。
「そうか…ワーグナーはこんなに美しい音楽だったのか」と呆気にとられた。

クラウス・フローリアン・フォークトもタンホイザーはこのプロダクションが初役となる。
日本では『ローエングリン』歌手として何度も招聘されているが、タンホイザーはどうなるのか注目が集まった。ホルン奏者からスター歌手に転向した珍しいキャリアのテノールだが、少年のようなリリックで透明な声はこの役によくはまっていた。演劇的な先入観さえ覆すステージ・プレゼンスがある。「フォークトは何を歌ってもフォークトだが、同時にローエングリンそのものであり、タンホイザーそのものである」と感じられた。
ヴェーヌス役のメッゾ、エレーナ・パンクラトヴァは巨大な肉襦袢を着て、グロテスクな肉欲の女神を演じていたが、目を瞑って聴くと声は天上的な清冽さに溢れていて、フォークトの少年のような声と溶け合うと、同じ声がからまりあっているような印象を受ける。
ヴェーヌスとは胎内であり、タンホイザーは生まれることを拒む胎児なのではないか…と思った。エロスの化身であるヴィーナスが病的な姿をしていることに対しては、色々な解釈をしてしまう。美醜の判断もつかなくなるほど、タンホイザーは完全な安息の中にいて、それは臨月の母親の胎の中であった…という暗示にも思えた。
フォークトの音程は僅かな不安定さもあったが、フォークトがそこにいることが無防備なタンホイザーの善良さや無辜の魂の表現であった。あの清澄な声を聴いていると、彼を甘やかしたくなり、危なっかしさから守ってあげたくなる。「楽器的な歌手」ともいえるが、あの声質はそれだけでも貴重だ。

驚くべきはペトレンコの音色に対する鋭い感性で、歌手の声にぴたりと合う、これ以上ないほど相応しいサウンドをその都度オケから引き出す。フォークトのあどけない声と木管のシルク毛布のような滑らかな音は見事に溶け合っていたし、ゲルネの哲学者のような深い声には地鳴りのような低弦の渋いアンサンブル…といったように、声とオケが一体化して初めて浮き彫りになる次元を作り出していた。譜面からさらに掘り下げた楽器のキャラクターを発見しているのだ。オケには細かく細かくアドバイスを重ねているのだろう。実際、リハーサルはかなりハードらしいが、オーケストラは皆ペトレンコを信頼し、彼についていっているという。

偶然なのだが、メインキャストのダッシュ、ゲルネ、フォークトのリートのリサイタルをすべて聴いたことがあって、ダッシュはトッパンホール、ゲルネは紀尾井ホール、フォークトは東京文化の小ホールで素晴らしい公演を過去に行っていた。それぞれの歌曲の表現は面白いほど個性が異なっていたが、オペラのステージで一堂に会すると実に面白いコントラストが立ち現れる。ダッシュはドイツリートを歌うときも、どこかイタリアオペラのヒロインのような激しさがあって、信仰心と良心の塊である『タンホイザー』エリーサベトはどこか直情的なトスカにも似ていた(声楽的にではなく、演劇的にという意味で)。
ワーグナーの世界を包み込むような深みと癒しを感じたのは、ヴォルフラムのゲルネだった。リート的な表現であり、同時に演劇的にも的確であるという目からウロコのアプローチで、この役柄においては役(パート)を演じるより、楽譜とリブレットの本質を理解し、ワーグナーの思想に触れることなのかも知れないと思った。「夕星の歌」では声そのものが宇宙の慈愛のようで、不安や無念が癒されていくのを感じた…このときのオーケストラは星空そのもので、音が見えるということの奇跡に改めて震えた。

休憩を二回挟んで5時間弱という公演だったが、これほど呆気なく終わってしまったワーグナーもない。退屈する音がひとつもなく、すべてのシーンが触発的で、歌手とオケの作り出すオペラの次元が途轍もなく刺激的だった。ペトレンコが創造するオーケストラの美は、退屈な美ではなくつねに「驚き」と「革新」をともなった美であり、新しいバランスとアイデアに貫かれているが、荒々しいマッチョさが皆無の平和でなだらかなサウンドでもあった。恐ろしいほど、すべてが俯瞰で見えているのだろう。
歌手の声に対しても、何層もの次元から考察をしていて、それぞれのアリアが物語の時間の流れの中で一番ひらめきに溢れた瞬間になる準備をしている。ヴェーヌスにも多層性を感じた。ヴェーヌスが魔女でも怪物でもなく、男が去っていく悲しみに割れそうになっているか弱い心であるということを感じたのは、これが初めてだった。それはオケが作り出した「演出」でもあったのだ。

映像とダンサーをスタイリッシュに使ったロメオ・カステルッチの演出はミステリアスで、理性的に考えてひとつずつ納得するというより、イメージの集積によって肌に沁み込んでいく質感があり、決して悪趣味でも退屈でもなかった。カステルッチは演劇畑の人だが、日本でも色々な上演を行っているという。ワーグナーの尽きせぬ懊悩…女性への巨大な憧れと罪悪感…と本気で向き合っていたと思う。二体の人形が次々とすり替えられ、最後に「骨」となって朽ちていく描写は、西洋的なメメントモリが感じられた。また、クレジットには記されていないが、東京バレエ団のダンサーが献身的にこのオペラを支えていたのも誇らしい(ヴェーヌスの近くにいた動く脂肪の塊もダンサーたちの貢献である)。
重要な役目を果たした合唱のクオリティも高く、全部で何人いたのか数えきれなかったが、70人は乗っていたのではないだろうか? 舞台を埋め尽くしている「気配」が濃厚で、そこにはオペラに関わる人々の本気が漲っていた。
新鮮な「初めて」の詰まった『タンホイザー』、あるホールの方との会話で気づいたのだが、最も重要なのは、5月に完成したばかりのこのプロダクションを今東京で観られることだろう。
これを上演する、と招聘元が決めたとき、このプロダクションは現実には存在していなかったのだ。どんな(とんでもない前衛的な?)ものが出来上がるか分からないが、相手の才能と誠意を信頼して上演する…そこには月並みならぬ勇気と誇りを感じずにはいられないのだ。

バイロイトで人気急上昇のゲオルク・ツェッペンフェルトの領主ヘルマン、フォークトの息子さんカレ君が演じた黙役の小さな羊飼いも、有難い演技だった。個性的な演出ゆえにミュンヘンでの初演では評価も割れたというこの『タンホイザー』、日本初演は熱狂的な喝采によって迎えられた。無数の勇気と才能がひとつの空間に集中したときの奇跡を経験した稀有の公演だった。
バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』は9/25,9/28にもNHKホールで上演される。





新国立劇場『ミカド』

2017-08-27 10:08:45 | オペラ
新国立劇場の地域招聘オペラ A・サリヴァン作曲『ミカド』を中劇場で観た(8/26)。
本作はびわ湖ホールによるプロダクションで、キャストはびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバー、
指揮は園田隆一郎さん、演出は中村敬一さん、オーケストラは日本センチュリー交響楽団(コンサートマスター松浦奈々さん)。
日本を舞台にしたエキゾティック・オペラといえば『蝶々夫人』に『イリス』に『ミカド』と3つ並べて語られることが多いが、圧倒的人気は『蝶々夫人』で、最近ぽつぽつ演奏機会が増えた『イリス』に比べても、『ミカド』はかなり陽のあたらないオペラだという気がする。
プッチーニ、マスカーニのイタリア・オペラに対して、音楽的にも折衷的で、ストーリーも荒唐無稽でキッチュ、日本に対する誤解が大きすぎるというのも、舞台となった日本で上演回数が少ない理由だろう。
それを逆手にとって、ぎりぎりまではじけ切った演出をした中村敬一さんは、最高に冴えていた。

ミカドとは「帝」のことではあるが、トゥーランドットのような紫禁城が現れるでもなく、どの時代かも厳密に特定できず、ヒロインの名前はヤムヤム、恋人はナンキプー、横恋慕する最高執政官はココ、ヤムヤムの女友達はピープボーにピッティシングという、ベトナム料理のようなネーミング。当時ロンドンで人気を博した「日本村」の人気にあやかって作られたファンシーショップのようなオペラなのだから、女性歌手たちの装束もきゃりーぱみゅぱみゅのようなファッションモンスターで、美術はニューオータニのギフトショップで売っているガイドブックのような世界になる。
日本語での上演で、歌も台詞も日本語。舞台の左右に日本語字幕(芝居のときは字幕なし)で、舞台上には英語の歌詞と台詞が投影される。英語もかなりハチャメチャなのだが、日本語はさらにその上をいく。議員の失言や時事ネタなどもたくさん盛り込まれていたが、あと三か月もすると鮮度を失ってしまうようなネタを使うやり方がかっこいいと思った。
優しい声でプレトークをしてくださった中村敬一さんは、演劇的には振り切った決断をされる方で、最後の最後までその姿勢には妥協がなかった。訳詞も中村さんがやられている。

物語は、しがない歌手(吟遊詩人)に扮したミカドの息子ナンキプーが美しい町娘ヤムヤムと相思相愛になり、ヤムヤムと結婚したいミカドの臣下ココと、ナンキプーと結婚したい年増の醜女カティーシャがあの手この手を使って二人を引き裂こうとするラブストーリー。そこにミカドが加わって、権力者の残酷さ、官僚主義の愚かさ、適当さが次々と描かれる。
「いつともどことも知れぬ作り物の物語」なのであるが、これが妙に今の日本にはまった。
台詞は暴れ出し、ギャグの嵐となりながら、永劫不変の人間のいい加減さを浮き彫りにしていく。

びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが大活躍で、ナンキプー二塚直紀さんとヤムヤム飯嶋幸子さんのカップルは歌唱もお芝居もハイセンスで「決して真面目になってはいけない」ことの成り行きを、うまく演じていた。音程も台詞の活舌も見事だった。膨大な早口言葉を何度も語らなければならないブーバー(政府の重鎮を兼任しまくる人物)を演じた竹内直紀さんも大健闘だった。はげかつらをかぶったブーバーは、髪型を罵倒されたりポコポコ殴られたり、最も怪我をしやすい役だったのではないかと思う。個性的なコスチュームで歌う合唱も少人数とは思えない賑やかさで、コミカルな作品で演じ手が客席に向かって放つエネルギーの大きさに感心した。
喜劇は悲劇の何倍も難しいと思う。中村演出では、ギャグもその日のコンディションで打率が変わるような作り方をしていて、ちょっとしたタイミングで笑いが少なかったり大きくなったり全く起こらなかったりで、「もっと笑ってあげたかった」と思う箇所も含めると、膨大な弾が用意してあった。
カラフルな浮世絵のパノラマを背景に、英語字幕と日本語字幕をはべらせて、きゃりーぱみゅぱみゅが大暴れする舞台を見ている自分を客観視する瞬間があり「はっ」とした。
これはなんというか…最高のシチュエーションで、作ったサリヴァンとギルバートにも見てほしいし、人間の面白さ、文化の誤解への寛大さを表しているアートだと思った。
オペラは猥雑なアートだが、猥雑の限りを尽くすと逆に神聖なものになる。
嘘から出た真のような話だが、『ミカド』はオラトリオのようなオペラでもある。
愚かさの中に真実があり、誤解の中に和解の種があり、どうでもいいようなギャグに人間性の最もおいしい部分がある。
心の中の、最も敏感でエモーショナルな部分をかき乱されて、『ミカド』のことが頭から離れなくなった。

タイトルロール(!)のミカドを演じたのは松森治さん。白塗りでエリザベス女王と志村けんのバカ殿をミックスしたような装束で、素晴らしい美声の低音で歌われた。決然とした歌唱は、最高権力者にして「登場人物全員の運命を握る」生殺与奪の神にふさわしい。ミカドの最後のコスチュームには会場も湧いた。イギリス人が見てもわからないかも知れないが、『ミカド』が日本人の手にわたった瞬間だったと思う。
横恋慕する年増カティーシャはこのオペラの中でも異質な存在で、重くシリアスな旋律で、『ドン・ジョヴァンニ』の不幸なドンナ・エルヴィーラを思い出させる。エルヴィーラもあのオペラの中で、一人だけ四角張ったバロック的なメロディを歌っていた。正論ではどうにもならないのに、どうにかしようとする。悲劇的な存在だが、彼女にもハッピーエンドが用意されている。吉川秋穂さんが卓越した演技だった(豪華なかぶりものもとても重かったと思う)。

音楽的には、ドニゼッティをまず思い出し(「愛の妙薬」そっくりの部分がある)、次にロッシーニを思い出し、さらにモーツァルトも思い出したが、ヴェルディの破片もあり、「恋は優し野辺の花・・・」的なフロトウのオペレッタが隠されている部分もあった。さらには、バロックオペラ、ヘンデルのオラトリオもオペラの骨格部分にあり、『ミカド』明らかにインテリ(!)が書いた作品なのだとわかる。サリヴァンという作曲家が何を考えていたのか、知りたくなった。
ベルカントオペラの良質な部分を感じられたのは、園田隆一郎さんの指揮のせいもあるだろう。園田さんは日本の未来のルイージかパッパーノになる指揮者で、アルベルト・ゼッダさんを心から尊敬し修練を積んでこられた方だ。
音楽がふんわりと優美で、いたるところにソット・ヴォーチェの繊細さがあり、歌手たちの自然な呼吸を作り上げていた。日本センチュリー交響楽団のサウンドは、オペラへの共感を惜しむことなく、一度も集中力を途切らせずに観客の耳を楽しませた。
『ミカド』の東京公演は2回切り。8/27にも新国立劇場中劇場で上演される。