人は、ふるさとびと

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下さる神様は、私達の
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世界平和の祈りと五井先生の唱名(4)

2023-03-21 09:32:39 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
だけれども、私の本当の所というのは、
それはもう神様と本当に一つになった、
朗らかな生命そのものである自分が、
それから以後は働いて行った訳なんです。
だから、五井先生と呼びなさいという時には、
その五井昌久という、小っちゃいね、
こういう個性を持ったね、そういう個人を
呼んでどうのこうのじゃなくて、
私の真実の自己、誰もがみんな持っている
真実の自分自身、光り輝いている
迷いようのない疑いようのないね、
把われようのない自己自身ですね、
神様の愛ですよ、その自分自身を拝みなさい
という事なんですよね。
だから、それが私という名前、五井先生
という名前になる。
例えば、クリスチャンの人だったら、それが
イエス・キリストになる。
キリストはね、神様の言葉を語った時には、
やっぱり光そのものになっているんです。
あの人の中にはイエスという個人もなければ
何にもない。
語っている時には全く何もなくなって、
あの人自体は肉体を持っているけれど、もう
空になって、その時には光だけになっている。
釈迦にしてもそうですね。
つまり、そういう場所としての自分は
あるけれど、しかし、奥で何か眠っていた
自分を引きずり出されて、それが自分の主だ
という事に気がついて、そこを本当に
拝んだらね、本当に拝んでゆけば、本当に
祈りの光が増していって、自分の生命の
光が極まっていって、光明燦然とした世界に
なって行くんだ、そうして、神様に一直線に
つながって行くんだ、その事を私は体験した
訳なんです。

それと同時に、世界人類が平和であります
ように、あの祈りをいただいた訳なんです。
ということは、あれは神様のみ心だけれども、
もちろんそうだけれども、あの時に、神様が
本当に愛だ愛だ、神様という方は裁いたり
責めたりね、人間を悩ましたり、本来的
にですよ、本当のところ人間を愛しこそすれ、
我々をいじめたりとかね、そういうことは
決してなさらない。
そこの底のところで絶対に肉体人間を理解を
して、気持ちを理解して、心を抱いて下さる、
そういう方なんだということをね、あの時に
思い知った訳ですよ。
だから、そういう神様のみ心の中に私は
飛び込んじゃった訳ね。
だから、世界人類が平和でありますように
という、あの文字に書けば何行かの祈りに
なるけれども、あの祈り言葉の中にも私自身の
本体は輝いているし、そして、五井先生と
唱える時にはですね、それは個人の
このちっぽけな男を指して、それを拝め拝め
と言ってる訳ではなくてね。
五井先生が、本当に天の私を見い出してね
地上の私と合体させて、そして、朗らかな
本当の生命の源、大生命のもと、大宇宙の
宇宙神の愛のみ心を、ここで自分のもの
とした、そういう朗らかな人になった、
そういう意味での五井先生を、五井先生と
呼ぶ時に、我々は五井先生を通して神様へ
行くんだと。
          (つづく)