人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

行為の光明化(3)

2020-04-30 07:22:37 | スピリチュアル
        (前日からの続き)
霊能力なんてものは、皆が皆あるといえば
あるんです。
そういうものが見えるとか見えないとか、
いろんなものが出てくるというのは、これは
前生からの因縁といいますか修行の結果で、
そうしてしかも、それが見えても聞こえても、
なかなか把われないところまでいくには大変な
ことでありますけれども、見えてる人、
聞こえてる人、何かさせられてる人というものは、
神様が必要あってそこでなさる訳ですから、
させる訳ですから、それはそこで素直になって
やっていけばいいんです。

ただし、そういう役割の人であっても、やはり
日常の営みを忘れるというふうなことがあっては、
これは人間として宗教者としても、やはり片輪に
なってしまう。
片輪にならないでどうやってバランスをとって
生きていくかということになると、いろんな所へ
飛びこんで、あるいは飛び込ませて、苦労を
させなくちゃなんない。
その苦労というのも、何もお金の苦労をさせる、
人付き合いの苦労をさせて守護霊さんが魂の修行
だからといって、こっちでじいっと冷然と見てる
という訳ではなくって、苦労してるな苦労してる
なと想いながら光を差しのべている訳であります
けれども。
当の苦労をさせられてる本人というのは、
苦労の方が目前にきていますから、光がなかなか
自分の方へ向いてるなんていうことは考えも
及ばない。
五井先生にこんなふうに頼んでおいたのに
なかなかこっちの方へやってもらえないとか、
まあ給料少ないとか、いろんな愚痴がこっちへ
届いて来る訳です。
それこそ人間的な愚痴がこっちへ来る訳
ですけれども。
              (翌日に続く)

行為の光明化(2)

2020-04-29 11:52:15 | スピリチュアル
        (前日からの続き)
日常の生活というものは、お金を儲けなければ
ならない。
生きていかなければならない。
食べていかなければならない。
そういうことがあります。
そういうものを捨ておいて、それでただ神様
神様と言ったって、なかなかそれはやっていける
もんじゃない。
覚悟もできるもんじゃない。
そういうことは、皆さんの私たちの守護霊さんが
もう百も承知千も承知でありまして、だからこそ
日常のいろんな苦しいことがあっても守ってるんだ
ということを、世界平和の祈りの中で教えている
筈でありますけれども、なかなか目に見えない
ことでありますから、そこで、愚痴も辛いという
言葉も涙も出てくる訳であります。
で、私どもは愚痴ってもかまわない、とに角、
光の本体である自分をその都度その都度、
五井先生出して下さい、神様出して下さい、
というその祈りを受けてやっていく内に、
だんだんだんだん人間というものは光そのものへ、
光明そのものへ本来の自分そのものへ還って
ゆくんだということを教えてゆかなければ
いけない。

そのためには、日常というものを馬鹿にしないで
生きるということ。
現実に人間である我々は、肉体身が終わるまでは
肉体をかぶってですね、いくら霊体が本物だ
神体が本物だっていったって、この世の中生きて
ゆかなきゃいけない訳ですから、その肉体を
大事にして愛して、そしてやっぱりそれを養って
生きていく。
そのためにどうすればいいかということを、
この智恵というものを祈りの中で考えついて
ゆかなきゃなんない。
そのお手伝いを、私ども宗教者はしなきゃ
いけない訳であります。
ですから、私は無理なことをしろとはいいません。
あるいは無理な霊能力をつけろともいいません。
つけさせようとも思わない。
              (翌日に続く)

行為の光明化(1)

2020-04-28 08:35:59 | スピリチュアル
世の中に、不思議なこととか、思いもかけない
こととか、何でこんなことが起こるんだろう、
とか。
ということが沢山あることですけれども。
そういうことに把われてると、人間という
ものは心がだんだん苦しくなってきて、
そして、がんじ搦(がら)めになってきて
自分というものが分からなくなってくる。
私どもの方で自分というのは、この肉体の自分
だけではなくて、何十回も何百回も言って
おりますように、本体の本心の自分という
ことを私たちは問題にして、そうしてそこへ
自分が還っていくように祈りを重ねて生きて
いく。
そのお手伝いをしている訳であります。

ところが、この日常の中で自分がという場合
には、その自分の中の見えない世界の自分
というものは、もう忘れ果てておりまして、
なかなかその自分が自分がの自我の方の自分が
たくさん出てくる。
それで、いろんな人と付き合ったり、
付き合った末に悩んだり悲しんだり喧嘩を
したり、まあ取組み合いの喧嘩をするか
どうかはわからないけれども、何か
そんなふうなことが重なり合って、そこで
窮屈になって、何で自分がこんな目に合うん
だろう、何でこれだけ自分がやってあげたのに
相手に感謝されないんだろうとか、何で自分の
想いが通じないんだろうとか言うけれども、
それは大きく言えば、我の世界の自分で
ありまして。
その把われの世界に生きてる以上、人間という
ものは非常に不自由な窮屈なものになるので
あります。

そこで私は前から消えてゆく姿という
ものをですね提唱して、そして、いろんな想いが
出てきても、それは自由自在な自分に還るための
消えてゆく姿なんだと。
だから、いろんな想いが出てきても、ああこれは
過去世からの業が消えてゆくその姿なんだと
思って、その瞬間に、神様五井先生と言って、
こっちへ返してくれれば、それでこっちはパーッと
サーッと浄めてゆけるんだということをずっと
申し上げて来ているのであります。
それでも尚且つ出てくる。
出てきても構わないんだということを私は
申し上げている訳であります。
            (翌日に続く)


ありのままの世界(6)

2020-04-27 07:41:04 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
ある時に我に把(とら)われる。
自分で我に把われることもあるけれども、
把われさせられることだってある。
それによって自分の魂が何を欲しているか、
自分がどう生きなければならない人間なのか、
自分の持ち場は何なのか、真実に生きるという
ことはどういうことなのか、そういうことを
やっぱり知らされるということもある訳
なんですね。
だからその辺のことをやはり弁えて祈っていく。
とに角、祈りの中へ自分を放り込んでいく。
ということが一番大事なんだということを、
我々は心の中に静かに想い返して、そうして、
世界平和の祈りをしてまいりましょう。
          昭和63年5月5日
            五井 昌久


ありのままの世界(5)

2020-04-26 23:09:04 | スピリチュアル
        (前日からの続き)
光というものは闇を被います。
被いますけれど、やっぱり一旦暗いところの
その気持ちに一回沈んで、底の底の気持ち
というものを人間として味わって、だから、
光を今度あの人のためにまわりのために
祈らせて下さいってことを言えるわけでしょ。
その経験がなければ、我々はこの光を
分け与えるといいますか、自分が光である
ことを自覚をして、そうして世界人類が
平和でありますようにというこの祈りの
運動をですよ、世界中に広めてゆくという、
このことはなかなか出来ないんですね。

人間が光の子であるならばね、神様からの
光の一筋であるならば、そこでもう何も迷う
ことなくそのまま行けばいいじゃないか
という人がある。
確かにそうなんです。
そこに行けば苦労がなかったわけ。
だけども今この地球のこの世の中に生きてる
我々の肉体というものを、肉体によって
養われている生命というものを、やっぱり
愛しんでやらなければいけない。
今の自分のありのままの姿というものを
認めてやらないと、一挙に光のところに
行ったら、それこそそれはもう気死しちゃう
訳ですよね。
で、やっぱりだめになっちゃう。
その辺の所は向こうの世界はようく
分かってるんですね。

だから、ちょっとずつでいい訳です。
ちょっとずつでいいけれども、と同時に
神界は、最速度で何とかできないかという
ことで、世界人類が平和でありますように
という世界平和の祈りを私に与えてね、
私の生命を使ってこの教えを広めさせてる
訳ですから、だから、このエレベーターに
乗ればいい訳ですよね。
エレベーターに乗って、そうして自分を
素直にして、自分を見る、まわりを見る。
そうして、ありのままで生きてく。
その事が自分の人生を深くし、まわりを
愛深くみることになり、自分自身を充実させる
ことにもなる。
精神性だけじゃいけませんよ。
現実の泥まみれになるという経験もやっぱり
守護霊さん守護神さんから与えられるもの
なんですよね。
            (翌日に続く)