人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

人間のおもいを修正しつづけて 光にする

2020-06-30 09:31:21 | スピリチュアル
神は
正義を
ふりかざす方ではありません
神の名のもとに
たたかいを
すすめた
なんていう国があるけれど
あれは
人間の我というものです

神様の世界に
あらそいなんぞ
ありはしない
なぜって
神様は
大調和も大調和
光そのものの方なんだから
あらそうのは
肉をまとった
人間のならいがそうさせるのです
人間そのものがさせるんじゃない
人間は
自在な神のいのち
なんだから
そんなことには
なりっこないのです
天地が
ひっくり返ったって
なりゃあしません

だから
肉にまとわれた
人間の
おもいを
修正しつづけて
光にすること
それが私に
与えられた仕事なのです

人はすべて
光の
いのちを
もっている
光の
いのちから
生まれて
きたのだ
ということを
知らせて
人間の心に
よろこびと
永生の
よろこびを
味あわせて
みんなを
神の光の 
みちへと
先導して
ゆくのが
私の役目

世界人類が
平和でありますように
という
祈り言は
神の光への
すべての人々の
水先案内人
神の愛という
燈台に
てらされた
この案内人は
道に
まようことはない
平和の祈りという
案内人の頭は

みんな
私の後から
安心して
ついてくれば
それでいいのです

どんな
悩みや 
苦しみも
この祈りの
なかに
とけ込ませれば
光にかわって
しまう
この事実を
一番
よく御存知なのは
神様

どんなに
かなしいことが
おころうと
祈りの光は
かなしみの雲を 
吹き払って
あなた方を
神の愛のもとに
はこぶのです
私は
その船頭
平和の祈りという
船にのった
私たちは旅人

神と人間は 自然な自然な間柄(3)

2020-06-29 07:20:30 | スピリチュアル
  (前日からの続き)
さながらのいのち
ほがらかな
神の光に
みたされた
人々の心は
大きく広く
寛やかで
まどいが
いつもありました 


私をはじめとする
救世の大光明霊団が
目ざしているのは
この広く大きく
また
寛やかな
人間のこころへと
現代に生きる
すべての人を
かえすことなのです
それも
むりやりに
かえそうというんじゃ
ありません
世界人類が平和でありますようにという
すべての人の心が一つになり
ほんとうに
自由になる
祈りをとおして
かって
人々が
日常茶飯にみていた
天と地をつなぐ
光の柱を
顕現させるのです

この眼で
肉体の眼で
みえる
みえないは
問題じゃ
ありません
そうじゃない

肉体という
不自由な
かせにしばられた
人間の真に自由な真性を
肉体をもたせたまま
奥の奥を
よろこばせる
そうして
いつか
この肉の身のままに
生かされている
よろこびを知る
それこそが
自由を得る
ということなのです

今の世界
肉体を持った人間を
否定するんじゃない
その
肉体人間を
生かしている
真実の神の愛を
知らしめ
心によびおこしてゆくのです
それが
世界平和の
祈りの目ざす
平和と愛と
大調和の
目的です
いのりの光のすすむ
神へのみちです

私たちは
光のみちを歩く
旅人なのです
そのみちすじには
いくつもの
私たちを
きたえる
親の愛ゆえの
つまづきが
用意されているかも
知れない
けれども
神が
絶対の愛であり
いつくしみ深き方で
あることを
知っている私は
心の底から
神は愛であることを
つたえつづけて
やまないのです

神は愛
人はそのいとし子
永遠の神の
いとし子
なのです
    昭和62年1月30日

神と人間は 自然な自然な間柄(2)

2020-06-28 09:45:53 | スピリチュアル
  (前日からの続き)
我々は
生まれながらに
いや
肉体界に
生まれる
ずっと以前から
この永遠の
神の愛に
育てられ
守られて

ここにこうして
空気と
霊気とを
呼吸して
生きているのです

空気は
肉体を
やしなう
いのちを
霊気は
我々の
霊体から
ずっと
奥の
からだにまで
神の愛をうけて
生かされている
よろこびを
与えつづけて
いるのです

生かされる
よろこび
これこそ
神から生まれた 
神の血をわけられ
神の愛を受けて
ここに 
生きている
生きている
我々の
いのちの
みなもとです
すべて
神様に目をむけ
こころを向ける者は
このいかされるよろこびによって
生きています
それは
大神様から
たまわった
いのちに
畏れをいだきながら
よろこびつつ
生きるということであり
そのよろこびも
心の奥底から
おのずと湧いてくるものなのです

なぜなら
人間は
神の愛によって
おのずと生まれしめられた
さながらのいのちだからです
じねんほうにの存在なのです
義務で存在してるんじゃない
神様といのちを
高らかに
うたい上げ
うたい合う
そういう存在なのです

親と子なのですもの
血のつながりがあるのですもの
遠慮なんてありゃしない
そうでしょ
自然な
自然な間柄
自然な
自然なことなんです

いのちということは
言葉をかえるなら
いのちというのは
すなお
ということ
単純というんじゃありませんよ
純ではあっても
単純じゃない
おのずと
よろこぶという
いのちの
相(すがた)の
なかには
すべてをきよめ
濾過しつくす
きよらかな
神様の前に
まっすぐな性(さが)が
一本徹っているのです

この一本の性を
古代のおおらかな心の人々は
光の柱とみたのです
それは
はなれて光るんじゃない
自分のからだのなかから
おのずと光がみちあふれて
天の私(自分自身)へと
通じるのです

天地の自分自身
人間の相が
合体した瞬間を
古代には
ごくあたりまえの
純な人々が
目にしたのです

自分にも
人にも
かがやき
天と地とをつなぐ
光の柱
その柱一本の光の橋を
かけて下さっているのが
大神様の愛であることを
古代の人々は
一人のこらず知っていたのです

古代の人々が
神様に近かった
というより
神様のことを
本当に
自分の親だと感じ切って
くらしていたのです
丁度
現代の人間が
空気を吸うことを
当然だと思うように

それ以上に
神と人間とは
親しい
親しい間柄だったのです
    (つづく)

神と人間は 自然な自然な間柄(1)

2020-06-27 07:04:13 | スピリチュアル
いのち
というものの
朗らかさは
神様の
朗らかさ
神様は
子どものように
無邪気な心と
純な魂
風のように
自由な
本心をてらす
光をもって
私たちの
いのちのなかに
住んでいらっしゃるのです
私たちはみんな
その子どもたちなのです

神様の血をわけた
子どもたちなのですよ
血をわけた親子と
みんないうけれど
正真正銘
私たちは
神様の血がながれているのです

その血というのは
何だといえば
それは
思いやりであり
やさしさです
神様の
人間に対する想いが
やさしさが
どれほど深く 
真実にみちた
ものであるか
それは
神様を知れば知る程
わかってきます

全く
つきることのない愛で
私たちを
つつんで下さっている
それが神様です
永遠の親の愛ですよ
しかも
その愛は
五十年
六十年といった
ちっぽけなものじゃない
何万年
何億年
いや
もっともっとかぎりなく
続いてゆくのです
 
こんなに深い
こんなにたしかな愛は
世界中どこをさがしてもないですよ
しかも
我々が
肉体を脱いで
むこうへ行けば行ったで
益々のその愛の証を
我々は
この身にもこころにも
いや
その世界いっぱい
我々が
住む場所
住む場所
霊体が
神体が
余計なものを
そぎおとして
光のひとすじとなり
神のみこころの
一部となるまで
なってもなお
いとし子への
この親の愛は
ずっとつづいて
ゆくのです

そりゃあ
親ですから
たまには 
きびしく
叱ることもあるでしょう
たたくことだって
あるかも知れない
けれど
いつも
いつも
この親の愛は
人間を
さながらのいのちにかえし
ほがらかな光そのものの
いのちへとみちびくために
叱りたたくのであって
それ以外では
ないのです

なぜなら
私たち
一人一人の
なかに
神様から
さずけられた
それぞれが
果たすべき
天命が
大光明となって
かがやき
わたって
いるからです

一人の天命を果たさせ
さらに
何十人
何百人
何千人
この
地球上に生きる
すべての人間の天命と
宇宙人類の天命とをつないで
無限のいのちの光を
大神様のもとに
かがやかせる
丁度
この肉体界で
親と子が
情をかよわせ
心をかよわせるように

それよりも
さらにつよく深い絆で
神(親)と
人間(子)の
二人ながらの
光の交流が
ずっと奥の奥まで
なされて
十字交叉の
光と愛の世界を
完成させてゆくのです

我々一人一人の存在は
そのための
いのちなのです
誰が
この事実に気付き
誰が
気付かない
というんじゃない
肉体を
もちながら
気付いている人も
いない人も
みんなのいのちを
そのために
用いられるのです
それと
気付かせずに
みんなを
いのちの
本道へと
みちびいてゆく
守護の神霊は
この永遠の
いのちの親である神の愛を
身にしみこませた
みつかいなのです
   (つづく)


人類を光の世界へ(4)

2020-06-26 07:41:06 | スピリチュアル
  (前日からの続き)
神界は
あなた方の
なかにあるのです
一人として
神界の住人でない
人はいないのです

みんな
神様の働き手
神様は
公平なやとい主
みんなの個性を
みんなのいのちを
明るくして
明るく使って
自在な天地をつくって
ゆかれるのです

天地は自分自身
神は
あなた方のなかに住んで
光をたえまなく
送っているのです

人間は
伸縮自在
どこにでも
誰のもとにでも
おもいを
とばしてゆける
だから
そのおもいを
すませれば
それは
祈りになり
光そのものに
なって
我々の心を
まわりを
この地球を
宇宙をみたしてゆくのです

世界人類が平和でありますように
という祈り一念
その祈りのなかに
肉の身のかなしみ
この世でのやり切れなさも
すべて放り込んでゆけば
光一元の世界へと
みちびかれてゆくのです

我々が
やるんじゃない 
一人の人間の力はよわい
けれども
この肉体人間を
愛して愛して
愛し抜き
肉体人間の奥の
天命を
いとしんでやまぬ
宇宙神の
愛と智恵の心は
それぞれの
守護の
神霊を
動かさずには
おかない力を
もっています
それは
まさに
きわみのない
愛であり
ゆるしの世界です
この世的な
おもわくや
利害などというものを
一切浄め切って
全く本来の
人間のすがたを
あらわさずにはおかない
神の愛なのです

弱い人間には
かぎりがある
といったのは
肉体にとじこめられた
我々の
肉体世界で
おのずから受ける制約といおうか
限界をさしているのです
けれども
決して人間が
さながらに持っている
ほがらかないのちを
指しているのではありません

おもいというものが
この肉体界に
渦まいて
いつか
とらわれとなり
業となり
それを放って
真実の人間にかえすために
神が私をつかわされたというのは
度々申し上げたとおりです

おもいが
つくる世界には
限りがあるが
おもいを解き放った
真実
自由な世界には
全く
枠もへだてもありません
ただ光かがやいて
いるばかりなのです

人間というものは
永遠の進化
こうした 
神様の愛と真理にとけこむ
祈りとなるための進化を
ずっとずっと
なしつづけてゆくものなのです
霊界も神界も
何百
何千という
向こうの世界の
修行場も
そのために
存在している場所なのです

真実に
人間が
自由になること
つまり
神様の 
愛と光が
この地上に
そして
宇宙にみちあふれて
大調和という
大神様の
永遠の
いのちの 
ながれと
一体になること
その進化のはじまりが
今この時なので 
みんな
こうした人間本来の
相(すがた)をあらわし
すがたにかえる時なのです
中心に帰一し
老子のいう
無為のいのちに
遊ぶそのときなのです

祈りは命
そうして光
光は
我々とともにあり
光は
神様の愛を
放射して
我々のいのちをはげまし
久遠のながれへと
みちびいてゆくのであります
          昭和62年1月30日