人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

神の愛念について(4)

2021-03-31 09:43:42 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
ところが、やっぱり人間というのは弱い
でしょう。
斉藤さんが、おれがおれがという
そのがを取ってと書いたでしょ。
そのが(我)を取ってというけども、
なかなか我というものはなくならないん
ですよ。
だから、世界平和の祈りがある。
その我をもって、すいません任せ切れない私
ですけれども、どうぞ世界平和の祈りの中で、
祈りのエレベーターの中で、五井先生の
柏手によって口笛によって、あるいは
霊団の皆さんの光によって、神様の愛によって、
そうして、この我を少しでも少なくして下さい、
消して下さいと言って祈る。
その時には、少なくして欲しいと想って
祈っていても、こっちから見ていれば、
もう空っぽになってるんです皆さんは。
だけども、皆私なんてとか私なんかが
祈ったってとか、そういう想いがしみつい
ちゃってるからね、だからできないんですよね。
空っぽになっていると想えないんですね。

昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命
やっている、それというのは、皆がね、
空っぽになってる、つまり、任せて
しまうと器になれるんだということね。
それは、私がやってるとか何とか想って
しまうと、苦しくってなれないんですね。
肉体の人間というものは、余分なものを
地球上に降りてから一杯くっつけちゃったから、
その肉体の人間を自分自身だと思っている
以上はね。
自分の感情の動き快不快だけを自分だと
思ってる以上は、そこへとどまっちゃうん
ですよ。
それが自分だと思っちゃう。
ところが、神様というのはそうじゃない。
あなた方の生き方とかおもい方とかね、
それから、過去の苦しみとか、全部、歴史
というものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命
そのものを引っぱり出そう引っぱり出そう
と思ってる訳ね。
で、素直にさせよう素直にさせようとね。
苦しいけども行ったらこうなるよということを
示しながら、何とか明るい方へ明るい方へ
というのが神様なんですよ。
何故かというと、あなた方の元の生命
というのは明るいんだから。
神様が明るい方へ明るい方へ、光明の方へ
光明の方へ、光の方へ光の方へなんです。
だから皆が光の子なんです。
          (つづく)

神の愛念について(3)

2021-03-30 09:33:50 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
いつも申しますように、信仰というのは、
例えば、キリスト教なら礼拝堂へ行き、
あるいはお寺に行って、神様とか仏様に
祈って、その祈る姿だけが信仰じゃない。
芸術家は芸術家で、音楽家は音楽家で、
大工さんは大工さんで、一所懸命に何か
一つのことに打ち込んで、無になって
一つのことを成し遂げる。
その中に神様がいらっしゃる。
その中で神様が働くんです。
自分をなくした時に神様というものが
現われてくる。
愛念というものは現われてくる。
その愛念というものが現出して、そうして、
本当に今度は神様の愛に洗われる。
我々の生命というものは、毎日毎日
毎瞬毎瞬新しくなってゆくんですね。
そういうことが本当は生きるということ
なんです。

そんなこと言ってもね、五井先生、
やっぱり毎日死んでゆく人がある、重病の
床にふしてる人がある、事故にあって
困ってる人がある、そういう悲しみという
のはどうなるんですかと、皆思う
でしょうねえ。
確かにそれはそうなんですよ。
私だって、愛弟子を何人も失くしたり、
大けがをして入院させたり、ありますよ、
この世の中にいた時にはね。
だけども、心配してるけれども心配
しないんだよ。
高橋君に答えたことがあるけれども、
分かるかね、やっぱり心配してるけれども
心配しないんです。
心配してるというのは、この肉体の人間の
気持ちというものを味わってしまうと、
確かに心配なんです。
オロオロしますよ。
どうなるだろう。
手術が必要ならば早く手術が成功してと
思います。
それは人間の情というものなんです。
自然なんです。
そこでオロオロしたり、弱くなったり、
神様がいるんだろうかと思ったり、そういう
ことは私は否定しませんよ。
私はそういう気持ちを通り抜けてきてるん
だから。
だけども、そこを通り抜けたところで、神様
というものは、もう一つ深いところでね、
人間を抱きとって、そうして、その人の
天命が真っすぐに明るく神様に向かって
貫いて行けるように、守護霊とか守護神が
道を備えてね、そして、あなたたちが
この世に生きていく糧も、肉体を養って
ゆくべきいろいろなものも、悲しみも辛さも
いつの間にか癒していくように、道をつけて
ゆく訳ですね。
そこへの信仰というものが、我々にとって
一番大事になっていく訳です。
             (つづく)

神の愛念について(2)

2021-03-29 10:06:12 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。
不安がある、いろんなことが起こってくる。
事故はあるし、災害はあるし、今年みたいに
天候が不順じゃあとか言ってるけれども、
実際に毎日毎日、今もどこかで大雨が降り
雷が鳴って、雷に打たれて死ぬ人だってある。
雨に流されて家がどっかへいっちゃう人もある。
つぶれて下敷きになってけがをする人や
なくなっちゃう人がある。
そういう不浄の世の中というもの、これを
見ていると、何を頼りにして何をよりどころ
にして生きていったらいいか分からない
という不安がつきあげてくる。
というのがこの世の中の本当のところで
あります。

で、そういうところをふまえて、私は
何を申し上げるかというと、我々という
ものは、常に神様の愛によって生きて
いるのであるということ。
これを忘れてしまっては困るんです。
ここが本道なんです。
なくなったり何だかんだしているが、
それが何で神様の愛なんだと、肉体を
もつ人間は思うけれども、しかし、神様の
愛というのはね、あなた方一人一人の
天命を抱きとって、この世だけじゃなくて
ずっと深い天命を愛して、そうして、
もちろん、あなた方という一人一人を愛して、
そこを見つめての光をむこうから流し続けて
いらっしゃる。
その愛なんですね。
だから、個人の小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。

こう言うと、非常に無情のように
思うけれどもね、そうじゃない。
つまり、本当に人間の姿、そして、神様の愛
というものを知って行く時には、肉体の死とか、
いくつで死んだとか、若くて死んでしまって
かわいそうだとか、そういうことというのは
何となく問題にならなくなってくる。
私なんかは、むこうの方からこっちを今
見てますでしょ。
そうしますと、本当にこっちもむこうも
ないんですよね。
むこうの世界もこっちの世界も、ずうっと
連なっている。
ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼という
目でもってみているから、あっちの世界が
見えてこないだけで。

しかし、そういう把われも何もかも
捨ててしまってね、祈り一念、世界平和の
祈り一念になって、五井先生、神様、
お願いしますと。
世界平和の祈りで教義を唱える。
その教義を唱えるということはどういう
ことかというと、つまり、無になって、
自分もなく人もなく、自分が祈るという
ことも忘れて、その大きな流れの中へ
入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が
消えるんですよ。
肉体の波が消えて、そうして、自分が
ここにいるということも忘れて、ただ、
祈りの光と一緒になっていく。
そういうものなんですね。
本来そういうものなんです。
それは、どんな赤ん坊であっても子どもで
あっても、あるいは、老人であっても、
神様を知らないと思っている様な人であっても、
あれは無神論者だと皆が非難するような
人であってもね、そのスイッチという
ものはもってるんです。
            (つづく)

神の愛念について(1)

2021-03-28 08:13:32 | スピリチュアル
神の愛念についてということでありますが、
いつも申しておりますように、神様の愛念
というものは、これは絶えることなく、
ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から
流れてきているものであります。
そして、神様の愛念というものは、
我々人間のこの肉体や想いや、我だとか
何だとか、余分なものがいろいろ
くっついてはいるけれども、しかし、
その中を貫いて流れている。
つまり、神様の愛念というものは、
離れて何か遠くにあるものではなくて、
自分の中に絶えず息づいている、生命
そのものなんだということをまずここで覚えて
おかないと、我々は大変な間違いを
することになってゆく。
           (つづく)

五井先生と呼んで下さい(7)

2021-03-27 05:13:46 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
その生命というものは、どんなに豊かで
あることか。
これは分からないほど豊かなんですよね。
言葉なんかでは言いつくせないでしょう。
量とか質の問題じゃない。
存在そのものが愛なんだから、その愛に
抱きとられて、そこから出てきた生命
というものが我々自身だとすれば、我々
というのはすごい宝物をもっていただいて
この世の中に出てきてる訳ですよ。

だから、その宝物をもってながら、
もちきれませんすいませんということは、
やっぱりこれは傲慢不遜になる訳です。
いただいたものなんだから、それをどう
使うかは神様の方でお決めになるんだから、
そこですっきりと神様にお任せをしてね、
そうして、どう使っていただくかはわかり
ませんけれども、日々私どもはつとめて
まいりますというつもりで、世界人類が
平和でありますようにとやっていきますとね、
いつの間にか我々を使って下さるわけですね。
我々は、我々も気づかない内に器になって
まいります。
その器になるということは自分を磨くという
ことでもあれば、皆さんに喜びを分ける
ということでもあれば、自分の深い本心が
そこで満たされて光になってゆくということ
でもございます。
そんなに難しいことでもないけれども、
しかし、不断に祈って、そうして、超越者に
任せて愛の源に任せてやっていくという
ことが大事だろうと。

そのために、いろいろ申しましたけど、
てっとり早いのは、五井先生と呼ばれれば
私はゆく訳ですから。
呼んで下されば、引き出すお手伝いを
致しますからね。
その引き出しがいくつあるか、その幅とか
量とかそんなものは神様の方で決めること
であって、皆さんの方で、私量が少ないから
なんて、そんな遠慮することはありません。
ただ、そういうものを引き出すお手伝いを
私はしにまいりますので、どんな時でも
構いません。
文句たらたら恨みごとたらたら、いろんな
ものを引き受けます。
私はずっと十字架にかかっておりますから、
かかりっ放しですから。
私に全部言って下すって結構です。
だけども、神様の御心というものは、そういう
深いところにあるんだということをね、
やはり承知なすって、その上で祈って
下すったら、光のエレベーターももっと輝いて、
皆さん方を光の世界へ引きつれてゆくことが
できる。
そうして、自己のためにも他己のためにも、
世界人類のためにも宇宙人類のためにもなって
いく。
そういう世界が、皆さんとともに築いて
まいれることだと思っています。
          昭和63年8月26日