人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

本心の座へ

2012-01-31 10:32:26 | スピリチュアル
本心と本心が
あいさつをかわして
光が
結ばれる
いのちと
いのちが
こもごもに
祈りを
かわして
神の
光を
あびる

私たちは
そのいのちを
本心を
この身に
おびているのだ

世界人類が平和でありますように
という
祈り言にのって
私たちは
かぎりなく
あたらしくされる

光の進軍
それは
人類の
高く
深い
進化のための
進軍である

宇宙の星々の
兄弟たちが
天使たちが
前後左右から
私たち
一人びとりのいのちを
ささえて
私たちを
宇宙神の
愛の
みふところへと
先立って
案内の
労を
執って下さるのだ

何も
わずらうことはない
何も
おそれることはない
赤児のように
純に
私たちは
私たち自身の奥にある
光を
世界平和の祈りのなかで
つよめて
ゆけば
いい

今こそ
地球は
平和に
なるべき
時が
きたのである
世界平和の祈り言が
宇宙にとよもし
我々一人びとりが
神の器として
用いられる時が
きたのである

ふんわりと
世界平和の祈りの
エレベーターにのって
光をむすび
いのちを
結んでゆこう
祈りの座
本心の座
神の愛へと
かえってゆこう

本心にかえるということは
ふるさとにかえるということです
ふるさとを
おもうことは
神を呼ぶことです


という
言葉のしたわしさ
なつかしさ
幾多の
詩人たちが
あなたへの
愛をうたった
郷愁をうたった
我しらず
人は
あなたをよび
あなたをしたう

神よ
わが愛のふるさとよ
わが愛のゆきつくところ
わがいのちの
いこうところ

私は
しずかに
本心の座へと
歩む
あなたの
愛へと
あゆむ
         平成元年12月26日

い の り

2012-01-30 09:42:44 | スピリチュアル
いのりというのはどういうものかというのは、考えれば
考える程わからなくなる。まじめな信者さん
である程そういう質問をよく受けます。そういう人ほど
良心的で考え込んでしまって、自分が出来ていないのに
人に薦める訳にはいかないとか、共に祈るような資格は
私にはないんじゃないかとか。そうなるとちょっと
ノイローゼに近い位に悩み込んでしまっている。

 祈りというものは、神様と私の対話なのです。と
同時に、世界人類と私の祈りでもあります。
 この場合の世界人類というのは、地球の世界人類
だけではなくて、宇宙全体の宇宙の星の兄弟たち
との一人一人との、その交信も含みますね。
 ですから、真に広い幅になる訳です。そこまで
考えていくと、私共の世界人類が平和でありますように
という祈りというのは、非常に大きいし深い。そして、
自分が出来るか出来ないかということではなくて、
もう向こうの方で抱きとってもらってる訳なんですね。
 ですから、何も考えずに祈るというのが一番いい
訳なのです。四の五の言ってる間は理屈なんです。
 祈りというのは理屈を超えたものなんです。

 そんなこと言ったって祈れませんという時は、
祈れなくていいのです。集会に行きたくないのに
無理に集会に行ったり、何か行事があるから絶対に
人数がいるからといって集めたって、それは
どうにもならないんです。その人の気持ちが
どうにも向かないという時に、無理に薦めたって
それは萎びるだけなんです。本体と肉体は違う
訳だから、本体は行きたければ、さっさと霊体が
行っちゃってる訳です。自分の肉体がどうであれ、
霊体は行って統一会に出たりなどしている
訳ですから、そこまで我々の肉体人間が神経質に
なることはないんです。

 ですから、真面目な人ほど色々色々考えるけれども、
しかし、そうじゃなくて、もう一回、子供みたいに
無邪気になって、世界人類が平和でありますように
という風に祈る。祈って任せる。そこからでないと
我々の道というのは開いていかない。そういう風に
思います。
        昭和63年6月13日(月)
             五井 昌久

宝について

2012-01-29 11:14:25 | スピリチュアル
 私のところへ色んな人が来ます。まあこういう
言い方をすると誤解する人もあるかも
しれないけれども、地位のある人も来るし、
お金を持ってる人も来るし、社会的に名誉を
もってる人にも会ったことはあるし、
かと思うと、その日をどうやってお米代を
出そうかといって悩んでる悲しんでる人も
来ましたし、未だに色んな人の姿を
こちらから見ておりますが、つくづく思う
事は、余分なものを持たないことの清しさ。

 ところが、人間というのは余分なものを
持ちたくなる。で又、持ちたいと想う時、
持たされている時というのは、余分なもの
だとは思わないですね。
 例えば、会社に勤めていて、月給が上がっ
ていく。上がっていくことはそれで生活が
楽になってくる事だから、それは安心立命の
元なんで、良かったですね、としか言い様が
ない。普通ならばそうなんだけれども、段々
段々10万円で生活していたものが20万に
なって、20万円で生活していたんが30万
になっていくと、これは、30万の生活に
慣れると、今度逆に、20万にする10万に
するというのは非常に難しいんですね。
 今までの生活の習慣といいますか、これ
だけの経済でこれだけの事をやっていく
というのが、もう多ければ多いことに慣れて
いるから、それを減らしてやっていく
というのは、何か自分の立場とか自尊心とか、
今までの経歴とかいうものも全部否定される
ような気になる。だから、なかなか諦めていく
ということは難しい。経済一つとっても、
人間というのはなかなか不自由に出来て
いるんです。

 たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲と
あってですね。悪い欲というととらわれて
いるみたいだけれども。何が何でもお金が
欲しい地位が欲しい名誉が欲しいというので、
ガリガリ亡者の様に、そういう気持ちでものを
求めていって手にしている人というのを見ると、
中身がカラッポと申しますか、外見だけ色々
あるんだけれども、中身が非常に空虚な感じが
する。物質的に色々持っていても何か非常に
虚しい。何によってこの人の心は救われて
いくんだろうかと気になる。そういう事を
つくづく考えてみると、人間がどういう時に
一番自由になるんだろうか、どういう時に
朗らかになるんだろうかということになると、
自分を忘れている時ですね。自分が何処に
属していて、どういう給料をもらっていて、
あるいは今どういう立場で、どういう顔して
生きていくか、生きていかなきゃいけないか、
そういう色んな煩いを忘れていって、そして、
本当に赤児の様な本来の自分の顔を出してる、
その一瞬の時に人間というのは救われて
いく訳ですね。

 それは別に、宗教を持ってるもってないに
関わりなくそうなんです。私共はそういう
我を忘れた本来の自分の素顔、ふっと出す
その素顔が5分でも10分でも15分でも
長続きをして、自分も人も良くなって
いくように祈っていく。光が満ちてく様に
祈っていく、想いや願いではなく、そこへ
祈りが加わって、ついには祈りによって、
自分も人も皆が救われていくといいますかね、
そういう大きな愛情に包まれる。そこを
目指す訳なんですね。

 だから、実は、そういう風にして空に
なって無になって、そこも突き抜けて
いきますと、本当に人間というのは、先程
から言ってるように、自由になって
解き放たれる。その時に、人間というのは
何も持っていないようだけれども、実は
身も心も突き抜けて、一番の宝物を持ってる
ことになる、それは何かというと、何もの
にも煩わされない、何ものにも強制されない
自分自身というのがそこへ素直に出せる。
 その時に人間というのは一番安心
するんです。

 それは私の方から言いますと、神様の愛
というものを知って、神様の自分が子供
であるということを知って、神様が全部
知って下すってるそのふるさとへ帰って、
ふっと安らぐ時に、人間というのは一番
安心するんです。そういう風に人間という
のは出来てるもんなんです。神様というのは
我々のふるさとだから、別に宗教でなくても、
芸術であっても何であっても、とに角人間
というのは、そのふるさとを目指して歩いて
いる旅人みたいなものですから、そこへ
我々は、どんな形であっても、その人達を
連れて行きたいと思う訳です。

 自分の中にある宝というものを持ち腐れに
しないで、その宝を確認して祈ってやって
いくと、益々自分自身も張り切ることが
出来るし、輝くことが出来るし、まわりも
喜ぶことが出来る。

 これはもう、自分も他人も両方の成道
なんでしてね。道が成っていくのであります。
 ですから、そこをすべての宗教家は
目指しましたし、私自身もそれを目指して
今までやって来ている訳だし、これからも
やっていく訳であります。その為に、
世界人類が平和でありますようにという
祈りは、誠に絶大な力を発揮する訳で
ありまして、唯無心にこの祈りを唱えて、
そうして神様に任せていく。その時に本当に
自分自身が自分自身として生きる。その
喜びの瞬間というものを取り戻すことが
出来る。そうして、それがずっと続いて
いくと、やがて道がついていって、自分も
知らない間に、あーこんな所まで来て
しまったかというような所まで、神様
というのは連れていって下さる。そういう
事を信じて、そうして謙虚になって、
この祈りを唱えていきたいものだと思います。
       昭和63年6月13日   
          五井 昌久

ゆるされている生命

2012-01-28 09:26:38 | スピリチュアル
 我々の生命(いのち)といいますか、生命
と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと又
面倒なんですけれども。我々自身ですね。この
色んな性格を持ってる我々自身というものを、
そのままに、神様というのは抱き取って、そして、
ゆるして下さってる。

 特に我々のまわりですとね、日本など、そんな
事をすると罰が当たるよとか、それも微風を
残す為に穏やかに、そんな事をしちゃいけないよ
と言うのならいいけれども、そうじゃなくて、
この頃ずうっと世の中を見ておりますと、それは
先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが悪いから
だとかそういう何か、責めるといいますかね、
苛めると申しますか、そういう形で強制しようと
する。正していこうとする。自分の説いてる道が
一番正しいんだと言って、これを信じなければ駄目だ
という形で、我々の生命というか心を向けさせよう
とする。

 だけれども、何か強制されてですね、強いられて
心をそこへ向けたとしても、果たして人間の気持ち
というものが素直に、その人達の言う、何だか
分かりませんけれど、その絶対者に向いていくか
というと、そういう風には人間の心というのは
造られていないんですね。

 人間の心というのは、唯ひたすらに素直になりたい
というか、神様の方へ向いて行きたいというか、
それが本来なんですけれども、この世の中の憂さ、
辛いこと苦しいこと悲しいこと色んなことによって、
素直になりたいけれども素直になれない状況
というものが自分の中に生まれてきて、あるいは
まわりに生まれてきて、とてもじゃないけれど
この世の中は公平だとは思えない。とてもじゃ
ないけれど、今自分が幸せな状態だとは言えない。
という風なことが色々生まれて来ますとね、これを
こちらへ向けばこうなるんだというような、
そういう強いられ方でその絶対者に向けと言っても、
向けられるもんじゃないんですね。
 で、簡単に申しますとね、人間の心というものは
本来自由です。何故自由かというと、神様から
来ている我々は分生命なんですね。そして、我々は
どんな柵(しがらみ)からも解き放たれて自由に
なりたいと思うけれども、もっともっと我々の本体、
本来の生命というものは、何ものにも把われない
ものだから、この世の中は表面的に何処かに
属しているとか誰かを養っていかなきゃいけないとか、
色々な義務というものを負ってはおりますけれど、
そうじゃなくって、自分の中で何ものも強いられる
ものがない、そして、何ものからも自由である。
 それは何かというと、元々神様そのものが、人間を
強いるとか何かをしなければ生かしていかない
とかですね、そういう類の方ではないからなんですね。
 要するに、もう全くの無、無を突き抜けた朗らかな
心、それが神様の御心でありまして、その御心から
分かれて来たのが我々人間でありますから、そこで、
何をしないといけないとか、これをすると罰が当たる
とか当たらないとか、そういうことはないんですよね。

 つまり、冥加(みょうが)という言葉があります
けれども、生命冥加とか何だとか。冥加というのは
何かというと、我々が自覚しないところの神仏の
加護なんですね。神仏の守りなんです。つまり、自覚
しないところのというのが、これが有り難い事
なんでしてね。
 神様というのはそうなんです。こちらが眠ってる
時でも忙しくって神様の事を忘れている時でも、
何でもずっと守ってる。愛している。ゆるしている。
 神様の方からは、一度も罰を当てようとしたこと
というのはない訳なんです。今まで。どんな
歴史の中でも。じゃあ、何故戦争が起こったか、
何故人間と人間が争うのか、ね、ノアの大洪水は
先生あれは何だったんですか、色々聞かれる
でしょうけれど。それは、人間の業というものが、
何度も何度も掃除していかないといけないという、
その節目(ふしめ)節目というものがありまして、
歴史の中で、そして、じゃあ罰も何も無いんだったら、
何の為に人間が悩んで苦しむのか、全くずっと平穏に
平和にやっていければいいのにと思うけれども。
つまり、人間の、何といいますかしら、深さ
ですね、神性。そういうものは何によって浄め
られるか高められるかというと、人間の苦を
通してのね、涙を通しての経験によってだけ
高められるんですね。

 苦労が一概に全部いいかというとそうではない
けれども、そうじゃなくって、それは何かというと、
自己ではない他己の生命、その人の立場その人の
気持ち、その人が何故そういうことを言ったか、
何故そんな風に怒ったか、自分に敵対したか、
あるいは協力をしてくれたか、何故あそこまで
骨惜しみせずにあの人は生きることが
出来るんだろうかとか・・・。それはやっぱり、
相手の立場というものを想いやるということが
ないとやれないんですね。で、その想いやると
いうのは、神様でもない限り、自分の環境以外の事、
自分の価値観以外の事を分かる、理解してね
寄り添ってそして生きて祈って、そうだなあと
思いながら、共に生きるというのはなかなか
難しいんです。

 それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで
苦しむ。例えば病気になる。父と息子がうまいこと
いかないとかですね。嫁と姑が駄目になってるとか。
 何か平和じゃない、そういう状況というものを
通して、ああ本当に大変だなあー、これは本当に
一緒にやっていくということは大変だなあー、家族
というものは重たいものだなあーとか、色々なことを
身に染みる訳ですね。そうすると、自分の身近で
そういう風な人を見ると、あああの人も大変
だろうなあーと、同じような経験を持てば、やっぱり
その時に、我しらずその心が分かって寄り添える
訳なんですね。その時に、その人の為に、ああ本当に
あの人が幸せになりますように、天命が完う
されますように、よろしくお願いしますという風に
言えるようになる。

 ところが、悲しいことに人間というのは、自分の
経験以外の事というのは、そういう何か思い知ら
される様な事がないと、他の人の複雑な苦しい辛い
気持ちというのは、なかなか分からないように
今なっている。

 で、それを曇らされてるのは、もちろん大きく
言えば、肉体の我だけれども、その人その人の
環境や、お金があればあるで、お金が無いなら
無いで、あるにも無いにも何か不足が出てくる、
欲が出てくる。色々なところで苦しむ。そういう
ものがある訳なんです。社会的な状況もある訳
なんです。それは霊の生命からいったら余分なもの
なんだけれども、だけれども、余分なものだ
といって、我々はそれを捨て去ることは出来ない
訳ですね。その中で生きていかなきゃいけないから。

 それではどうすれば良いかというと、やはり祈りの
中でね、祈りの時には、自分が何億持ってるとか
何とかいう、それは祈りの場所じゃないですね。
 祈りの時間というのは、神様と私の時間なんですね。
 神様に私の心を開いていただく、そういう時間
なんです。そうして、自分の本来心を解き放って行って、
そして、自分はこの世の中にあっては、とてもじゃ
ないけどたまらないような状況にあるけれども、
だんだん解き放って行くと、ああ自分の中にも
朗らかなものがあるなあー、静かなものがあるなあー、
神様ありがとうございます、と言える時に思える時に、
神様と一致することが出来る。だからそれは、
「世界人類が平和でありますように」というあの
祈り言の中に全部入ってる訳ですね。教義に
ありますけれども、個人も人類も真の救いを体得
できるものであるというあの祈りですね。あの祈りを
唱える時に、我々というのは目には見えませんけれども、
自分の中にある余分なものがその時パーッと掃除を
される訳なんですね。で掃除をしたところで、色々な
経験を積んでいって、そして色々な場所で、例えば、
支部じゃなくったって集会じゃなくったって、宗教的な
ものを離れたってね。色んな人に会って色んな立場の
人の話を聞くことがあるかもしれない。悩みを
聞くことがあるかも知れない。そういう時に、
どれだけ、祈りの場じゃない所で、そういうことを
無になって聞けるかということ、やっぱりそれが
大事なんですね。

 祈りの場というものは、人間が作る様に思う
けれども、本当は、人間というのは見えないところで
祈って祈って祈り抜いてる。自分が意識しようと
しまいと、本体というのはずっと祈りの座に
ついていて、自分というのは神界にいて、光になって
祈ってる。神界にも自分自身がいる訳ですから。
 そうして、御心と一体になって、こっちに光を
送ってる。こっちからも光を送ってる。光の
呼びかけ合い、呼び合いをやってる訳です。
 呼び返しの中で我々は生きてる訳なんですね。

 それは何の光かというと、ゆるしの光なんですね。
 だから罰も何も無い。罰を当てるとか当てないとか、
そんな狭苦しい、そんないい加減な世界じゃなくって、
その光のシャワーを浴びてる時というのは、人間は
本当に自由になってる。本当に神の御心の中に
入っている自分自身になってる。それは、自分が意識
しようとしまいとそうなんです。そうやって人間
というのは生きているんですね。ちょうどこの我々の
肉体というものが、飲んだり食べたり眠ったり、
ある程度動いたりしないと、この肉体の生命を保って
いけないように、我々の奥の複雑な霊妙な体
というものは、神様の光を受けていかないと生きて
いけない。

 これは随分と申し上げて来たことですけれども、
その光というものは何から出来ているかというと、
ゆるしから出来てる訳ですね。あるいは愛から
出来てる訳です。愛とゆるしというのは何処から
出てるかというと、神様から分かれて来ている生命
である人間に対する、極まりの無い愛なんですね。

 それは、我々がこの地球に降りて来た時は、この
地球を、神様の御心に従って、神様の御心が顕現
されるような、そういう方針にするべく、我々は
ここに降りて来て、やってた訳なんだけれども、
それが、霊性が働いている間はよかったけれども、
だんだん肉体を被っていく内に、それを忘れちゃって、
人が霊止にならなくなって、つまり、霊止まる
という霊止(ひと)の方を忘れて、人間の人(にん)
という、そっちの方の肉体の方の人だけが
残っちゃって。だけど消えてはいないんです。霊止
というのはね。何故かというと、霊が無ければ我々は
生きていない訳ですから。ただそれが何か、我(が)の
世界の中に今はなっていて、それが押し込められてる
感じなんですね。その押し込められてる、ちょっと
しか顔を覗かして今は生きていけない、息が出来ない、
その状態を何とか解きほどいて、解き放ってやって
いかないと、今はもう地球も大変だし、自分自身も
大変だし、世界人類も大変だし、ひいては宇宙も
大変だしね。人間だけじゃない宇宙生命そのもの
だって大変なんです。

 という時に、じゃあ、その全部の生命を健やかに
柔らかに、有るがままの有りのままの生命を
宣り出そうというその祈りというのは、
「世界人類が平和でありますように、日本が平和で
ありますように、私達の天命が完うされますように、
守護霊さま守護神さまありがとうございます」
というあれなんですね。あれで全部救われていく訳
なんですね。だから、あの祈りというものは、
大変な光明体なんです。その光明体を我々は
持ってるんです。それは唯単に、白光の人が
あの祈りをするから救われるとかそういう事では
なくて、元々の神様の御心を祈り言にしたら
ああいうことになる。そうして、その元々の神様の
御心の光そのものというのは、どんな人の中にも、
例えば無神論者の人の中にも、物質主義者の人の
中にもね、皆入ってる訳なんです。

 この世の中でいえば、信仰しない人は救われない
とか色々言うけれども、そんなんじゃないんです。
 それだったらもう小乗(しょうじょう)以下
なんですね、大乗(だいじょう)と小乗とあって、
大乗というのは勝れた乗り物という意味だけれども、
勝れた乗り物というのは神様の大きな大きな大愛で、
その愛とゆるしの光そのものなのです。その愛と
ゆるしからいうと、神様というのはついぞ人間を
責めた事がない。ついぞ人間を裁いたことがない。

 その裁いた事がない神様に、我々がこの生命を
この心を捧げて生きていくことが出来たら、その時に、
神様の方の喜びも大きくなるし、我々の方に
いただいている光だってますますその輝きを増して、
この世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体の
中で関わっていかなきゃならないこと、悩まなければ
ならないこと、苦しまなければならないこと、
あるいは喜(よろこ)び事、そういうものも、何と
いいますか、スーッと来てスーッと通り過ぎるんです。

 決して私の申し上げてる事は、ご利益の宗教じゃ
ないんです。人間が果たしていかなきゃいけない
務め、そうして、どうしても果たしていかなきゃ
ならない宿題というものはあるんです。その為に、
肉体の時間が随分くっちゃって、もうとてもじゃ
ないけど五井先生どうにもなりませんという人の
嘆きを一杯聞きますけれども。どうにもなりません
というのは、肉体の我の方の叫びなんでして、その
我というのを溶かして、そして祈りの中へ入り込んで
しまうと、まだまだ、自分の中に、永遠の生命
としての人間の本来心がそこに顔を覗かせてきまして、
そうして、その切羽つまってどうにもならない
というところから反転して、今度は、大生命の生命の
道へスーッと入っていくんですね。

 そのスーッと入らせていく、入らせていただく、
それが「神様」という素直な呼びかけであり、我々は
一人として一度として、罰っせられた事がない、
責められたことがない、ずっとゆるされてる、
そういう存在なんだ生命なんだ、皆そうなんだ、
白光の人であろうとなかろうと、世界人類が全部、
どんな人であっても、例えば、どんなに罪を犯したと、
この世で裁かれている人であっても、そうじゃない人
であってもね、皆光なんです。皆光明ですから、
そこでお互いを礼拝する。尊敬する。そこで祈る、
一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。一人で祈っても
共に祈っても、そのひびきが世界中をかけ巡る。宇宙
全体ひびき合う。

 そういう祈りですから、その祈りに乗って宇宙神の
御心の中にふっと入っていくと、穏やかになって
気が楽になって。そうして、本当に余分なこと、
思い煩い、そういうものはね、肩の力を抜いて、
なるべくこう受けとめていったら、本当に重荷
というものも重くならないで軽くなっていくもんだ
というと、これは私の人間としての経験からも
申し上げることができると思うんですね。

 重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を軽くする
のが神様なんです。ですから、今どんなに
打ちひしがれてる人でも、どんなにどうにもならない
と思ってる人でも、どうにもならないと思ってる
ことが、それが消えてゆく姿なんですよね。

 どうにもならないというのは、だから、それを
押し込めるんじゃなくて、自分は白光の教えを
聞いてるのに何でこんなんだろうと責めるんじゃ
なくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだと
思って、そして、それを思いっきり出して、泣くなら
泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消していただいて、
そして又生命をいただいてね、ゆるし放しの愛と
平和の元の神様というものに礼拝をし直して、
いただき直しの生命で、毎日を明るく生きていく
ということが、一番我々がこの困難の中から
救われていく大元の元になっていく訳なんです。

 そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に
神様というのは我々をいやな所に変な所に導いて
いかない。必要なものは下さる。絶対に下さる。
 この生命というものを使って下さる時がある。
 その使われ方というのはどういう使われ方を
するか分からないけれども、とに角、神様と私は
一体の生命であって、一筋の生命であって、その
一筋の生命というのは、何の滞りもない朗らかな
何の障りもないものなんだということを確認できる
時に、我々というのは解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我というものに
染み込ませる。そうして、霊肉共に救われていく、
その祈りが、世界人類が平和でありますように
という世界平和の祈りなのでありまして、この光の
祈りというものは、益々これから色々な人に覚え
られていく祈りだと思いますけれども、私共は益々
謙虚になって、この祈りのもとに、神様の愛を
仰いですすんでまいりたいと思います。

            昭和63年6月13日
                五井 昌久

宇宙神と同格ということについて

2012-01-27 12:21:51 | スピリチュアル
 今まで何度か説いてきましたように、人間の生命の
流れというものは、本来、宇宙神のずっと深いところ
まで繋がっているんだというところまでお話しした
かと思います。それでこの間、直線的に昌美が
宇宙神と皆さんとは同格であると、そういうことを
言ったかと思います。それで今聞いていると、諸説紛々
だというので、じゃあちょっとこちらからの
メッセージを言ってみようかと思うんですけれど。

 同格というと、同格という言葉に又把われる
のが人間なんですね。じゃあ同格というと
宇宙神とまるで同じということになると、じゃあ
宇宙神というのは何かというと、すべてのすべて
なんですね。生命の元の元。人間の生命だけじゃ
なくって、この宇宙全体を造った、もう造ったも何も
造る前からいた。それと同じかということになると
仰天しちゃう訳なんです。

 何故かというと、人間というのは、この肉体という
不自由なものを持ってまして、一日の内でも、何度も
何度も言うように、気分が変わる喜怒哀楽が出てくる。
そういうものと宇宙神が同じだと言われてしまうと、
とんでもないという気持ちがまず出て来る。
 それでなくったって我々は凡夫なんだから、
いただき直しの生命なんだからといってずっと
説いて来て、そして皆さんも祈っている。
 そういう中で、そういう風に言われてしまうと
わあ─と思う。思うけれども、昌美が言ったのはね、
その生命の現われとしての宇宙神と一緒なんだ
という風に捉えてしまうと、つまり、全体の存在と同格
だという風に捉えてしまうと、皆困るんですね。そう
じゃない。じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあ
ないですね。

 同格だというのは、何において同格かというと、
皆さんの奥の奥の悟ってる本体、神体ね、肉体じゃ
ないですよ。神体、本来心というものがね、何によって
できているかというと、宇宙神からの光明と(光と)
ですね、愛と、そういうものによって生きてる訳
なんです。宇宙神の愛というのは、これはもう極まりの
ない愛なんですね。すべてのものを生かそう、すべての
ものをより良くもって行こう、敵も無いんです。味方も
無いんです。あるがままなんですね。

 そういうものが、我々のこの肉体、我の強い肉体を
通して光になって、そして、我々は肉体の生命を養って
もらってる訳なんですね。そして、自分の内の奥の
奥にもそれと同じものがある。そういうことを考え
ますとね、つまり、我々というのは意識するしないに
関わらず、愛したいと思う、仲良くやりたいと思う、
平和にやりたいと思う、喧嘩をしたくないと思う、
砕いて言えばですね、そういう気持ちね。つまり、
世界人類が平和でありますようにという気持ち。何処
にも戦争がなくって無事に平穏に、皆がそれぞれに、
それぞれの家庭で生きていけたらと思う。その祈りの
気持ち。

 それは何かというと、ずっとつき詰めていくと、
宇宙神があるがままの生命を認めてそのままに
ありのままに生かしていく。それが自分の望みであり
願いであり祈りであるんだと。その本来心の祈りを
受けて、世界人類が平和でありますようにという
あの文句が出来た訳ですから。

 ということは、自分の中にも、ものすごく素朴
だけれども、そういう風に祈る、自分の家族のこと
自分のことまわりのこと、そこからずっといって
世界人類のこと、本当に平和であればいいなと祈る。
 そういう何ともしれない思いが湧き起こる。湧き
起こる時には、人間というのは、その時には我には
満たされてないんですね。やっぱりその時には光に
なってるわけ。その光というのは、祈る時にもちろん
強められるし深められるし、こっちから見ていると
光明そのものになるけれども、祈る時だけが光明
かというとそうじゃない。

 普段は、自分が光明体であるということを皆忘れて
生きているんです。何故かというと、この世の中
というのは、忙しいんですね。仕事しなきゃなんない、
連絡しなきゃなんない、子供の面倒はみなきゃなんない、
夫婦の中で解決しなきゃいけない問題がある、親子の
中で解決しなきゃいけない問題がある、家庭はある・・・。
 そのことで自分が光明身だとか、そういう体を
持ってるとかということは、なかなか肉体のこの意識
からはのぼって来ない訳なんです。

 で、心を鎮めて、皆で統一してさあ祈りましょう
という時には、それはスーッと出て来やすい訳ね。
 それは、何も祈ったと同時に自分自身が変わるん
じゃないんです。自分自身というものは本人が意識
するしない、あなた自身が意識するしないに関わらず、
光なんです。何故かというと、神様から分かれて
来ている生命だから、分生命(わけいのち)だから
光なんです。それはどんなにその人が何を表面的に
どうしようと、奥にその光明があって、その光明が
出たがってる。そして、その人本人のその余分な
ものを取っ払っていったら、その人自身も光になる。
 で、その光は愛とゆるしと平和である。ということ
において皆平等なんです。同じなんです。

 その愛とゆるしと平等の元の元、平和の元、それが
宇宙神なんですね。だから、あなた方は宇宙神と同格
であるというのは、そういうもともとあなた方の中の
生命を生かしめている思いだけじゃなくて、肉体も
全部含めてね、我々からすると煩わしいものも全部
含めて、この世の中に生かしめられて働かしめられてる
その元の元が愛とゆるしと平和だから、その大元を
辿って行けば、何度も言うけれども、つまり
宇宙神だから、それは本人が意識するしないじゃ
ないんですね。

 昌美があの時あれを言ったというのは、もともと
宇宙神と同格であるというのは、そういう分かれてきた
生命の末、元と末ですから、で、その末というのは
萎びるんじゃなくて、これからもずっと続いていく末
だから、ずっと連らなってるものだから、もう
そろそろあなた方が光明なんですよということを、
あそこであの子は言いたかった筈なんですね。そうして、
それぞれに分けられている光明身というものをずっと
繋いでいって、祈りにしていって、そうして、
世界人類がーとやっていけばね、そうしたらつまり、
それは宇宙神のみ心になる訳。宇宙神のみ心と一つに
なる訳です。そこに入っちゃう訳ね。

 今は、魂というか、そういう本来心がどんどん
どんどん磨かれていって、どんな時にもみ心の中へ
入るようにやっていかないと、この地球の汚れ
というものは、なかなか大変なんですね。今随分掃除が
出来てるけれども、でも根っこの所もまだまだ一杯
大変なものがあるから。それで宇宙神と同格だ
というのは、それも本来本当の意味だけれども、
あなた方を励ます、ね。萎縮(いしゅく)するんじゃ
なくって、縮むんじゃなくって、そうだそうだ生命の
本当の本当の底のところで我々はそうなんだと宇宙神の
み心の中を見てみると、自分がまわりを平和にしたい、
ゆるしていきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに
育っていきたい、生きていきたい、というのと、
宇宙神の方からこちらを見て、いい人間一人一人を
本当に愛してゆきたい、ゆるしていきたいというのと、
一緒なんですからね。何にも変わるところが
ないんですよ。

 ただこの世の中では色んな煩(わずら)いがあるから、
そういう気持ちになるところが少ないけれども。
 しかし、先程申しました様に、神様が生かしている間
というのは、悟ってる本体、あなた方の神体、霊体
というのは、常に祈りを捧げている訳、宇宙神と一緒に
なって捧げている訳、共に捧げている訳なんです。目
には見えないけれどもね。ですから、分かれるも
分かれないもね、ずーっと一緒なんですよね。そういう
意味で同格なんです。

 ですから生命のすべてを造った創造主としての宇宙神
というものをへんに想像してしまうと、そこでおかしな
ことになるけれども、そうではなくて、つまり本当の
心の底のところで、現われも何も超越したところで、
我々は一本につながっているんだ。そこで我々は
抱きとられてるんだ。愛されてるんだ。ゆるされて
いるんだ。だから我々もささやかでもゆるして、愛して
できるだけ平和にという風に努力をしてやって
いったら、その時に自分の中の霊性が目覚めて、喜んで
高まっていってね、自分の愛の光がゆるしの光が
まわりに飛び交って、そうして、皆の中にその光の輪が
広がっていくというかね。祈りというものはそういう
ものなんですね。

 だから、祈ってる時だけがただ光明心が出てくる訳
じゃない。その時だけが同格というのも、それも正確
じゃない。常に常に自分の中で自分の知らないところで、
自分の本体は本心は宇宙神と同じような働きをして
いるんです。

 父子御霊とキリスト教でいいますよね、三位一体。
 あれは、父子御霊という風に分けることが
出来ないんです。あれは本当に一体なんです。

 たとえば、愛とゆるしと平和というものがそれぞれ
違うもんですかといったら、これはみんな一つらなりに
連らなってるというのと一緒なんです。我々は神から
分かれてきた生命であるというのは、じゃあ神様と
人間の生命とはどんな風に違うんですかというのは、
それは正解じゃないんです。一緒なんです。
 一緒なんだけれども、ただ今のこの世の中の色々な
現われでもって、自分の状況でもって、その言葉なりを
測ってしまうと、自分の想像でもって測ってしまうと、
とてつも無くおかしな事になるわけね。

 そうではない。本体において神体において本来心に
おいて、我々は一時(とき)も神様から離れたことは
ない。宇宙神から離れたことはないし、宇宙神も
離したことは無い。そういう意味において、不即不離
なんだということね。これが、我々は宇宙神と同格
なんだということの本当の意味なんです。

     昭和63年6月13日
                   五井 昌久