人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

神 の 愛

2015-10-31 07:14:04 | スピリチュアル
 宇宙の真理というのは、決して複雑なもの
ではありません。
 縦横十字につらぬかれている神の愛を信じ、
素直にその中に溶け込めばいいのです。
 しかし、肉体人間の想念が、中々光そのもの
である神の愛に溶け込ませにくくなっている。
それだけ世の中が物中心になり、
こころ=神様が忘れられた現代といえましょう。
 しかしながら、この世の中のすべての顕れは、
実質、実体ではなく、我々人間の心の奥に
眠らされている、光としての真性を
よびさますなら、世の中は、そのまま真実霊界
となり、神界となるのであります。

 宗教家の中には、説教はしてもあの世は
信じないという人々が存在しますが、人間の
内外に、無限に働いてやまない神霊の援助、
あるいは、神仏の加護による永世への
みちびきを、心に感じることがなければ、
真に人をみちびき、人を救うということは
不可能であります。
 私のいうそうした援助を、心に感ずる
というのは単なる観念や、人間の弱い憧れ
ではありません。
 人を愛し人を導き、更に、救いにまで
及ぶためには、無私、無我の愛、言葉を
かえていうなら、無限定の愛が土台と
ならなければなりません。どんなに愛に富み、
誠実をつくしても、人が人を愛するという
枠の中だけで、愛や祈りの実践─無限の
実践─は出来るものではないのであります。
 そこに永遠者への眼というものを
持たなければ、とうてい、人の力だけで、
いわゆる愛や救いは成し遂げられるものでは
ありません。
 もっと話を飛ばしていえば、本来人間を
動かしている力─行為の土台─は、
この無限の愛から来るのであります。

 時代が移り、社会が発展を遂げる中で、
人は、段々に、この自分をつらぬき
突き動かしている神の愛を疑い、遂に神は
死んだと迄言わしめたのでありましたが、
神の愛、無限の愛というものは、そんな
浅い思想や、ちっぽけな否定で、消え去る
ものではないのであります。
 肉体を持っていますと、生活に追われ、
人間関係に疲れ、神の愛などというものに
心を向けるには、あまりにも心がゆとりを
持てなくなってしまうのですが、たとえ、
この身と心がどんな状態におちいっても、
さん然とかがやきを失わず、海のように
深いみ心を持っているのが神の愛なので
あります。

 人間が霊止(ひと)であったところまで、
私どもは帰らなければなりません。
 実際をいえば、本源の心は、あらわれよう
あらわれようとして、私どもに合図を送って
いるのですけれど、永年の思いグセがそれを
押しとどめているといったかっこう
なのであります。

 ここまできますと、神様と、人間の想念の
いたちごっこに終わるのではないかとさえ
思われるのですが、ここに至って真の宗教者、
真の人間が、朗らかなかがやく神の愛を
呼び覚ます源を与えられていることに、
ほん然と気付くのであります。その源、
その光とは、神への祈りに他なりません。

 はじめは、やり場のないかなしみや、
苦しみが、自己をとらえ、しばり、むしろ
不自由ななかで、神に向かっての叫びを
挙げるのでありますが、何にしろ、絶対の神に
向けられる(人のまなざしが)ということが、
光の源である神にとっては、むしろ、その
一人一人の運命と愛念をおくりやすく
なるわけで、この辺りが、痛み、苦しみ、
苦労を、ただのがれたいともがき、神に
むかって、恨みつらみをいう私ども人間の
計算では、計ることのできない神のみ心
なのであります。
 いつも説いておりますように、神という
ものは、絶対の愛でありまして、人間
一人一人はその神の愛し児であり、神の
分生命(わけいのち)なのでありますが、
その人の生まれた環境、又、育ち方、それぞれ
によりまして、天から与えられた賜物
とは別に、前に述べました、思いグセが、
その人の個性の中に、一見深く喰い込んで、
中々これがやっかいなものなのであります。

 神様は、そうした人間一人一人のクセを全て
御存知で、み心のなかに、その人の天命が
溶け入り溶け込み、遂に大神様のふところに
いだかれて、一体となるまでには、何を
のぞかなければならないか、又、どこで、
いわゆる運命の修正をさせる為に、修行を
させ、人と会わせ、よろこびや、かなしみを
与えて、その霊なる命が成長してゆくように
仕向けなければならないかということなどを、
全て御存知なのであります。しかも、人一人の
天命が完うされるというのは、一生や二生の
ことではなく、何百生をかけてのことであって、
そこを全て御覧になった上での愛念の発揮
であり、それを助けるものが祈りであって、
その祈りが生きる為には、時々に、神に
対して恨みの声を挙げることをも、御承知の
上でのことであることを知る必要があります。
 恨みや、そねみが、一時的にその人を
とらえ、業想念がその人をとりまいたと
しても、永遠の真理の眼からみれば、それは、
真の祈りに昇華させ目覚めさせる為の
第一段階であるのであります。

 そこで、実相は今私が申し上げたとおり
なのですが、かっての古代の人々のように、
神様と二人というような純朴な信仰心、
神への眼を、科学が発達し、人間に与え
られた理性を、過度に信頼し、遂に、信仰
するに迄至っている今日の社会に生きる
人々に、こうした往相と還相とを
むずかしい言葉で説いたところで、それは、
一つの哲学としてのみ心に消化されるのが
精一杯なのであります。

 元来、祈り心というものは、無邪気な
単純な明るいものなのですが、思想、哲学
としてとらえられてしまっては、それは、
あくまで人間の枠を出ることは出来ません。

 そこで、こうした現代に生きる人々にも、
やさしく真理の奥義を説き、しかも、誰の
心をも納得させて、本心開発へと導き、神の
光の一筋としての本体を自覚させる祈りが、
私の提唱する“世界人類が平和であります
ように”という言葉にはじまる祈り言
なのであります。この祈りには、よこしまな
私の思い、下手な思想などというものの入る
スキは全くありません。
 無私、無我にはじまり、宇宙神の奥の奥の
心へとみちびきとけ込み入らせる祈り
なのであります。そうして、没個性という
のでは更になく、一人一人の人のこれらの
何十生、何百生の思いグセは思いグセの
ままで、ありのままに、祈ることを御心
とした祈りなのであります。

 私が、祈りは、天界へのきざはしなのだ
というのは、ここのところを指すので
ありまして、一人一人の親である神様は、
その子どものそのまま、あるがままを
抱きとって、そうして魂を高め、次の高い
世界へと高めて下さるわけなのです。
 この叫びにはじまる神への心、神への
まなざしが、やがて、いつの間にか光の
一筋となり、神の助けによって、神界(縦)
からの光と、神の子人間(横)私達の光が
さわりなく、交わります時、縦横十字の神の
絶対の愛がかがやくということ
なのであります。
          昭和61年7月7日  
              昌 久

天地をつらぬくもの

2015-10-30 06:46:42 | スピリチュアル
 人間は本来、霊であり、光そのものなのです。
 宇宙神の奥の奥から流れてくる愛によって、
私達は日々瞬々を生かされているものなのです。
 だから、この心が、どんなにかなしんでも、
寂しがっても、本体の、光につつまれた光
そのものの自分は、かがやいているんだ
と思うことが、神様と共にいることであり、
いつの間にか、神様の深い深い愛にいだかれる
ことになり、その時、私達は、本当に無邪気に、
神様のふところでやすらがせていただくことに
なるのです。

 すべて自分がやるんじゃない。神様がさせて
下さる。我々は、唯、神のみふところの深さを
おもって、どんな時にもやすらいでいればいい。
 泪がながれる、ながれるままでいいのです。
 淋しくて淋しくてたまらない、そのままの
孤独なたましいを、ありのままで、世界平和の
祈りの中に放り込む時、私達の本体は
光りかがやくのであります。

 天の私と、地の私が合体するというのは神様の
みこころのなかに入り、いつのまにか
入らせていただいて、自己という意識もなく、
唯、あるがままにながれる生命そのものをいう
のであります。
 その時、人は、姓名などという個々のものを
超えて、神様の愛とともにあり、神様と一体に
なるのであります。そうしますと、いわゆる
想念の波によって、動かされる肉体の心、
肉体波動というものは、全く消えて、肉体に
いながら霊身、神体となり、天と地をつなぐ、
本来の人間の姿となるのであります。

 生命というものは、本来明るく、さわりなく、
むじゃきに、神をよろこび、神とともに
生きることを日常とするものであります。(日常
というのは、いわゆる肉体身の、我々の日常では
ありません。)そのことを信じて、素直に明るく、
世界平和の祈りを行じて参りましょう。

再び道について

2015-10-29 08:56:03 | スピリチュアル
 えー、先日、道ということでお話しを致し
まして、多少、内容が混み入るものですから、
途中で結論的なことを申し上げて確か終わりに
したんですけれども、何を省いたかと
いいますとね、もっとも私の話は省いている
ようにみえて全部いっているんですが─。

 それはともかく、この間、結論の中にすでに
含まれていると思いましたのでいわなかったこと─
それは人間、我々人間の救われ方ということに
ついてであります。

 世の中には宗教なんかに頼らなくても十分自分の
気持ちだけでやってゆけるという、いわゆる宗教を
毛嫌いする人達をはじめとして、沢山の色々な
立場で生きている人達がおります。
 で、この中には無神論者と呼ばれる人達もいる
のであります。この無神論者の人達は目に見える
もの、第一には自己ですね、自分自身を
先ず信じる。これは何と言ったってね、自分
というものが生きて働いているということは
信じざるを得ないことですからね。

 逆にいうと、この人達は目に見えないものが
信じられないわけね。しかし、私達がもし目に
見えないものは徹底的に信じない生活を始めたら
どうなるか、空気、風、これらは見えないもの
ですよね、けれども、空気や風をこの世にない
なんて思って生きてる人は一人もいないでしょう。
 なぜなら空気は私どもが生きてゆく為に是非とも
必要なものですし、風だってその空気の集まりで、
時には恐ろしいこともあるけれども、春風、
秋風ね、ほほに心地良いなんていいますね。
 要するにこの二つのもの、何もこの二つに限った
ことではありませんが、この二つのものは我々の
生活の中で見えていなくても、我々の生命を支えて
いる大事なものだということを無神論者と呼ばれる
人達でさえ感じ、生きているわけです。
 そこで、ここまで話してきましてわかったことは、
何も目に見えるものだけを事実、或いは真実
として生きているのが無神論を唱える人達やまた、
唯物主義者などという人々に限られないという
ことです。

 我々にとって絶対必要なものは、つまり、目に
見える事実と同じ程、あるいはそれ以上の価値を
持つということをこれらの人々を通して、
私どもは知らされるわけなのであります。
 さて、そろそろ話を展開していきましょうね。
 いいですか、私の方をよく見て、よく見てっ
たってここには五井先生しかいないじゃないか
なんていう人がいたら、その人も唯物論者の一人
かも知れないね。
 まあ、冗談はさておいて、必要ですから
もう一度だけくり返しますと、我々人というのは、
何も目の前にある物や会っている人や、事実、
私ははじめにこれらの人々が信じられる最大の
ものは自分自身だと申しましたけれども、しかし、
たとえば、空気や水や、そういう生きていく上に
これを失ったらどうにもならないものは、事実
以上として認めているわけですね。そう
しなければ生きていけない。

 で、ね。
 今日は先回の「道」の続き、それから、
その続きというのは、人間の救われ方について
説明をしなかったということを申しました。
 ここで、くどい程目に見えるものと見えない
もの、見えていないけれども人が信じられるもの、
について述べたのは、ここから話がややこしく
なるんで、ここの所をはっきり覚えておいて
下さい。

 それで、今迄の例で申しますと空気や水をある
と信じることによって、この今、私が言った
人達は救われているわけです。

 ところが、この救われ方というのはあくまでも
自己の生存範囲というか、生活範囲の枠の中での
救われであるわけです。

 こういう枠を設けて生きている人にとっては、
明日、地球が滅びて空気も水もなくなってしまう
ということが、もし事前に事実として分かったら、
それだけで目の前が真暗になるでしょう。

 今迄信じてきた空気や水がなくなってしまう、
それどころか人間の存在そのものがなくなって
しまうわけですから。ということは、我々は何を
拠り所にして生きていったらいいのか─という
ことになるわけですが、もう少し誤解されない
ように、救われ、救いの範囲について説明して
いきましょう。

 一体、救いとか、救われの範囲、というのは
これは、人間の側から出ていることです。
 神様というのは、本来、枠のないもので、救う
ということについても、誰を救って誰を救わない
という方ではないわけです。ですから、神様側
からすると、救いの対象は無限大、救われ方は
無限定ということなんです。

 この救われ方ですが、お金持ちになってそれで
よかったという価値感、それだけが幸福だと思って
いる人は、お金持ちになるということ自体で、もう
救われたと思うのかもしれませんし、又、それは
一面で幸福なことかもわかりませんけれども、
神様の側から見た救い方、あるいは救われ方
というものは、単なる事実、実際に、一つのことが
起こったとか、状況とか、それだけを指している
のではありません。なぜ人を救うのかというと、
それは、人間が本来一人一人神の分霊(わけみたま)
であって、大神様、宇宙神の輝きを現わす生き生き
とした生命の相(すがた)に帰す為であります。
 そういう生命の相があるのだ、自分の中に内在
しているのだということを理解させる為
であります。

 ですから、この世的にみれば、何と理不尽なと
思われるような運命を最後に受けて死ぬ人が
ありますけれども、それでもその人は神様から
みれば十分な救い、あるいは救われをすでに
受けている、なぜなら、神様は愛そのもの
だからです。

 救われ、救いというものは、神様からみれば、
全く公平に与えられるものですが、その現われ方は
むしろ、人間の考える「救い」とは全く逆の形に
なる─そういう人達もおります。こういうことは、
生涯がいよいよ終わりという時に現われてくる時も
あれば、一生のいくつかの時期の中に救いようの
ない事柄、やり切れないものが盛り込まれたり
するわけです。

 たとえば、生涯の終わりということで言いますと
それは、我々人間の死に方、死に様、ということに
なるわけですが、よく不慮の事故で死ぬとか、
まじめで誠実な人なのにとんでもない災難に
遭って死ぬとかいう死に方があります。
 これなどは、神界の悟った高い魂を持った霊達が
降りてくるということと同時に、何生、何十生
かけて生き徹した本来の命の完成を目ざすことを
目ざして、そういう去り方をする場合が
あるのです。

 誠に生きている人間の気持ちからは、特に
残された遺族などはたまりませんけれども、
大きな神様の光の流れ、命の完成から
いいますと、そういうことは、常に行われて
新しい命、世界を作り上げていくわけ
なのです。
 まあこれは生き死にに関したことで、極端に
きこえるかもしれませんが、これ程に神様
というのは人間を何生、何十生にわたって守り、
導き、遂にその命が究極の完成を果たすまで、
愛念という光を送り続けられるものなのです。

 生命の流れには様々な支流があります。大河
と定められて、どんなに細くても悠々と豊かに
流れていく流れもあれば、流れを途中で
せき止められて、遂に一本の草にすら生命の
輝きを送れなくなったものまで、実に様々です。

 しかし、どの河も生命の本源という同じ源から
発したことは間違いのない事実なのです。本源は
枯渇することがありません。一旦は生命の河の
流れをせき止められたかのようにみえても、
その実、源の源である「生命」は輝きを
失うことはないのです。
 そしてこれは、理不尽なこの世での最期を
遂げるべく定められた人々の災難にもいえる
ことなのです。

 この世での生命があるいは短く、あるいは
悲惨に終わったとしても、霊界、神界では
悲しむ必要は全くありません。なぜなら、
本来の命に帰り働く為に仮にこの世での死が
用意されたにすぎないのであります。

 このように救い、救われというものは、神様の
側から平等に配分されたものなのでありますが、
現実世界の人間にはそれがみえない。

 もっと申しますと、一時みえなくさせられて
いるわけです。それは、人が味わうべき愛別離苦、
あるいは歓喜といったものを十分に味わって、
そこで自らの中に起きる感情の波を経験し生きて
いくことが是非とも必要なことだからです。

 この波の中に、真の救い、救われというものも
実は入っているわけですが、一気に生命の歓喜
という風に真っ直ぐいかないのは、初めから
そこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な
修行というか、そういうものを全部素通りさせる
ことになるわけです。

 これでは一人一人が持っている本来の光を十分に
輝かすことはできません、一旦、肉体を通して
浄めていくというのは、一見しますと真理という
ものに遠いと感じられがちでありますが、事実は
全く逆なのでありまして、生まれてすぐに亡くなる
とか、人としての意識を持つ以前にあの世に逝く
といった人々は、まことに限られた浄めの光
というものを持って生まれてきた、特別任務を
帯びた人々であるということができます。

 何を浄めるかといえば、自分に連なる親族、
両親、家族はもとより、この世の波動の粗さを
光に近づけるという、世の中全体の浄めを行い、
同時にこの世を幽・霊・神界に生きて働いている
人々の生命に、深く結びつけるための浄め
なのであります。        

 さて、そこで一旦我々の眼から覆わされた救い
救われ(この世的には、災難・苦難・突然死など
理不尽にみえるもの)は、それぞれ命に必要な
時期を選んで現われて参りますが、人間の
眼からはこれがそういうものだとわかるのに、
時間がかかるようになっておりますので、十分に
この世の波と闘う用意もでき、又その備えとして
先回申しました「拠り所」、道というものが準備
されているわけなのです。光に変えるための
生命の修行といっても、目に見えないこれらの
ものを肉体をまとった人間がただちに行じ、
行うにはこの世の構造は何段階にも分かれて
いるわけで、又、そうでなくては新しく生まれて
くる生命、又、この世を去って三界に新たに
生命を吹き込む人々を、送ることはとてもできない
のであります。このための道であり、生命であり、
これを支える拠り所であるわけです。
 つまり道は、救い、救われを補助するもの
として、我々人間に与えられているものだと理解
されると一番わかりが早いわけです。

 この道一つにしましても、一人一人の生命
によって全く違う現われをするのが、神様の芸の
細かい所でありまして、我々はこの神の働きの
細密さに助けられて、真理への道を歩いていると
いっていいのであります。

2015-10-28 09:53:49 | スピリチュアル
 道というのは、色々な種類がありますね。一本道、
三さろ、人生の別れ道なんてね、別れの一本杉
という歌がありましたけども、一本ということ
でいえば、あれも一本で立ってるわけね。で、
杉の元々はというと、生命でしょ。わたくしが
いつもいっている波動、光ですよね。
 で、いつもいっておりますように、人間
というのは、この世にも、人間界にも、幽界にも
霊界にも、神界にも、自分というものが存在して
いるわけですね。そうして、それぞれが波動で
できている。
 そうすると、元々が光である我々、神の
分御霊(わけみたま)である我々に、何も「道」
なんぞというややっこしいものは、なくても
いいように思う、ねえ。

 車が走るから、車道があるでしょう。運転席を
おりて歩けば、今度は歩道ですわね、まあ、
これは、今、皮相的な説明をしたわけで、
たとえば、習い事にしても、茶道があり、華道が
あり、書道があって、なんか、我々人間のおもい、
人のおもいとして、「道」という言葉にすがって
生きているようなところがある。これは
間違いですか?と、今、私の話をきいている人の
中には、気の早い人がいて、答えを先どり
したような顔なすってる方も二、三ここから
見受けられますけども、間違いじゃあない。

 じゃあ、どうして、何でもかんでも「道」
という言葉をつけるんだろう。もっというと
「─道」とつくと、ありがたいような、尊敬したい
というか一寸あおぎみるような心持ちになるのは
何故なのかと申しますと、それは、人間という
ものは、何かよりどころとするものがなくては
生きてゆけない存在だということなのであります。
 もちろん、茶華道といったって、そんなに気を
入れて、たずさわっている人ばっかりじゃあない
でしょうし、又、「道」というものが、人間の
心の奥底で、それを意識させることによって
「よりどころ」となっているということを自覚して、
たずさわっている人は実に少ないのであります。

 そこで、今日は、このよりどころということと、
「道」のおはなしをしようと思いますが、では、
「よりどころ」=「道」かというと、これも、
微妙にちがうものなんですね。ちがうもの、
といいますのはね、今、わたくしが申しました
「よりどころ」というのは、あくまでも、人間の
私たち一人びとりの心の側からみた「よりどころ」
なんで、これは決して、神様の方からのおもい
じゃないんです。

 人というのは、弱い、苦しい存在ですから、
何か、神様神様と普段思っていてもね、祈って
いても、どうしようもないことにぶつかると、
神様も何だけれど、もっと確かなものが欲しく
なる。たとえば、苦しい時に人がそれをみていて
くれる。あるいは、病気で苦しんでいる時に、
手をにぎってくれる。これらは、その辛い目に
あっている人たちからしますと、何よりも、
確かなよりどころですね。人の手のぬくもり、
なぐさめ、これ以上確かな、現在、味わうことの
出来るよりどころはないわけです。

 けれども、つねにいっておりますように、
「すべては消えてゆく姿」なのでありまして、
よいことも、わるいことも、すべて、すぎ去って
ゆくものなのであります。
 それは、どうしてかというと、生き徹してゆく
一人一人の本体(たましい、霊体)が一段一段
階段を上るためなんです。ここのところを
忘れたり、間ちがえたりしますと、楽しい時は、
どうして早くすぎて、辛い、苦しい時間は
どうしてこうも長いのだろうとため息を
つくことになるわけ。そこで、これは、
「よりどころ」真実、真理に通じるものでは
ないわけです。何も、私はここで、苦しんでる人を
なぐさめるのは、真理に遠いなんていうつもりは
毛頭ありません。そうではなくて、辛いことは
勿論ですが楽しかったことでも、いつまでも、
その瞬間にこだわっていますと、いつしかそれが
執着になる。とらわれのおもい。人間の発する
想念というものになるわけなのです。

 そこで、整理してみますと、それじゃあ、
そういう人の思いとしての行為、よりどころ
と思って、我々の心がみんなすがってゆくぬくもり
などを、永遠のものではないとしますと、
何の為に、「道」というもの、「道」とよばれる
ものが、我々の前に与えられているのか
ということになろうかと思います。
 先程、茶道華道というものを、この話の導入
として申しました。で、結論から先にいいますとね、
本来、「道」と名がつけば、それが、習い事
であっても芸事であっても、それは、人間が神様の
子どもになるそのための修行の場に行かされて
いるんだといっていいんです。
 『中庸』に道についての孔子の言葉が出て
きますわね、「人、道に遠きは」とか何とか
むずかしいことがかいてあるけれども、要するに、
我々の日常生活の一瞬一瞬の中に、道(人が
おこなってゆく道)というと、ややこしいか。
 つまり、生き方というものはあるんだという
ことがかかれています。

 神様というのは、遠い遠い所にいるのでは
なくて、みんなの眼にはみえないけども、もう
光になって、充満しているわけ。みなさん
一人一人の心の中に、ちゃあんといらっしゃる
わけです。イエスが、みんな一人一人が神の宮
なんだということを言っていましょう? ね、
あれと同じなんです。
 けれども、イエスも申しましたように、現代
という時代は、まことにやっかいなことに、
「しるし」を求める時代ですよね。御免状なんてね。
 で、あまり「寄り道」をしますと、こんがらがっ
てはいけませんから、手短かにいいますと、
この道というのは、わたしどもが真理の階段を
上るための一つの姿として、あらわれとして
あるのであります。つまり、どんな「道」も、
それが華道であっても茶道であっても、そこに
加わるということは、大神様が、守護霊守護神が、
働かれて、しらずしらずの間に、私どもの本体
である「光」をかがやかすためのものなので
あります。

 そうして、これは、何もお茶やお花や、書を
やっている人だけとは、勿論かぎるものでは
なくて、私たちの心の奥に、人間として生まれた
以上は、何か一つことをやり遂げたい。根を張って
生きてゆきたいという思いが、たとえば、誠実に
生きるなら、誠実に生きるということを生涯の
目標としてかかげることも、神様につながる道に
つながることなのです。つまりは、この神様に
つらなるための手段(方法)として、万人に
その人となりの「道」があり、これを通じて、
真のよりどころである完全円満の世界、
大神様への世界につながってゆくというわけ
でありまして。
 人が辛い時に、手のぬくもりを求め、そこから、
何かしらかわらないものを求めて、各々が
「道」に志す。で、これを我々はいつか
「よりどころ」だと思って生きるわけですが、
実はもう一つ奥に、この「道」を手段とした
宇宙神という真のよりどころ、永遠に目ざすべき
私どもの道があるわけであります。
 それでは、当日はこれで。どうもありがとう
ございました。

生命の流れ

2015-10-27 11:11:12 | スピリチュアル
 生命の流れというのは、この世のながれ
もあれば、霊界、神界の流れもあるわけです。
 霊界神界の流れは、微風水動(みふうすいどう)
という言葉があるように、流れるという意識も
なにもないところで悠々と流れているわけです。
 つまり、生命の本体というのは、極めて
さりげなく、悠々としたもので、こういう悠々
とした生命を、肉にまとっている人間は、本来は、
感謝感激の筈なんだけれど、肉の波動は荒いから、
中々、微風水動というわけにはいかないわけです。

 夫婦げんかも兄弟げんかもあるわけ。
 全く人の想いというのはやっかいなもので、
中々、微風水動─つまり、風は動くともなく動き、
水はそれに従って流れるというような神界天界の
流れにはなってゆきにくいわけ。ここに、
すこうしずつでも近付いてゆくには、肉の身を
まとってあらわれてくるさまざまな怒りや、
ねたみや、腹立ちといったものを、セミがカラを
脱ぐように一つずつ脱いでゆくということが必要
なんですね。
 日本に四季があって、衣がえというものを
やりましょう、夏に、冬の重い服を着ている人は
いないですね、夏は軽やかな服装になって、
重たいものは脱いでしまう。というのは、重たい
ものが必要じゃない、これだけの軽さのもので
いいということを体がしっているわけよ、だから、
余分なものを着ない。

 人間の、我々のおもいもね。こう動いたら
あの人がこう想うんじゃないかとか、出しゃばり
だとおもわれるんじゃないかとか、余計な心配が
入ると、決して、素直に動けない。心配に
しばられてしまってね。本来、生命というものは、
明るい、のびのびとした、太陽のような、宇宙
のような拡がりをもったものなんです。

 ところが、人間関係、社会という中で生きて
いますと、中々、そこまではゆけない。たまに
そこまで行けたと思う瞬間があっても、又、
逆もどりしてしまう。それはそういう風に生きて
きたから、クセづけられているんです。
 このクセが曲者なんですよ。いいですか、
我々が少しでも神様に近づこうと思ったら、
たとえ、一生の中で、何億回、何兆回、その
クセが出てもね、出てもいいから、ああ又神様、
クセが出ました習慣がでました、といって、
そのまま神様に預けちゃうんです。
 神様は、想いの銀行なんだから、神様に
どんどん余分なものは預けて、本来の自分に
帰れるように、世界平和の祈りのなかに、私の
名前をよぶ中に、毎日を生活してください。
 いいですか、はい、それでは今日の話は
これでおわります。
 どうもありがとうございました。
        五井 昌久