人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

みんな歩き方はちがっても・・・

2011-12-31 09:19:41 | スピリチュアル
   〇
五井先生は元気だよ
ここにいるよ

   〇
みんな歩き方はちがっても
気にすることはない
私が
その人の歩幅に合わせて
一緒に
歩いているから

   〇
みんな一緒に
神様の
光のなかに
帰ってゆきましょう

   〇
心配だね
心配だね
だけどここに
五井先生がいるよ
           平成2年1月7日

私は自分の本体をみたときから・・・

2011-12-30 10:38:20 | スピリチュアル
どんなに
みじかい
言葉であっても
まごころのこもった
言葉は
光っている

  〇
誠実に
誠実に
人に
神に

  〇
私は
自分の
本体をみたときから
怒りというものを
忘れてしまったよ

  〇
やさしく
やさしく
やさしくあれ

  〇
私たちは
神という銀行に
永遠の
いきとおしの
いのちを
あずけてるんだ
そこに
光というものを
貯金して
そして
朗らかな
自分の天命へと
歩いてゆくんだ

  〇
祈りなさい
そのままでいいから
祈りなさい

  〇
飾らなくていいんだ
飾る必要はないよ

沈黙してずっと自分をみつめてゆく

2011-12-29 09:33:43 | スピリチュアル
人は孤独になるということが
大切です
これは
どういうことかというと
一人の時間
ひとりになる時間を
持つっていうことです

沈黙して
ずっと
自分をみつめてゆく
そういう
時間がないと
色々な
人とのかかわりのなかで
心というものがみえてこない
きこえてこない
伝わってこないんです
人は言葉をこえた
ひびきでもって
結ばれているわけですが
このひびきを
うけとれなくなるんです
あまり饒舌ななかにいますとね

イエスだって
人々のむれをはなれて
ひとりになって
祈ってるでしょ
そうやって
神と自分
という
イエスにとっては
父と子という
そういう関係を
そういうもの寂しいところで
祈ることによって
ふっととりもどすんです
それは肉体人間としてね
ほっと息をつくんです
私なんかでも
神様にいのちを返して
あとはずっと空っぽだけで

でも静けきいのり心
といったものについては
やはり
いつもあこがれます
しずかにうちをかえりみる
ということがなければ
やはり
駄目になるもんですよ

だから
我々の
本心
本体をみつめ
我々自身を知ってゆく
己れ自身を知ってゆく
ために
孤独が
しずかさが
ひとりの時間が
本当に
大切になってくるんです

それには
やはり祈りですね
世界平和の祈りのなかで
みずからをみつめ
みつめている自分からも
解き放たれて
自由になる
そのとき
人間は
なぜ
ここに
こうして
生きているのかということを
理くつでなくって
識ることができるんです
その
存在理由というものを
しることができるんです

私たちのいのちが
神様からながれてきていて
つきることがなく
一神にして多神である
さまざまな神の働きのうちに
この世界が保たれ
世界人類があり
そして
そのなかの
私自身が
ここに
こうして
生かされている
というありのままの
事実を
しることになるんです
そして
そのとき私たちのいのちは
よろこびにみちるのであります

          平成2年1月7日

思いわずらいのない世界へ

2011-12-28 09:42:30 | スピリチュアル
思いわずらいのない
世界へ
誰もが
行きたいとおもう
なぜか

みんな
この世の
生活というものに
疲れているからです
夫とうまくいかない
姑とうまくいかない
子どもの気持ちがわからなくなった
なんてのはまだ
いいけれども
自分というものが
わけがわからなくなっちゃった
っていう人がね
たくさんいるんですよ
それでこんがらかってきて
ああ思いわずらいのない世界へいきたい
どっかへ行ってしまいたい
それがつよくなると
この世から消えちゃいたい
死んじゃいたい
ということになるんですね
これはどういうことかというと
思いがけないこと
予定していなかったことが起きてきて
自分のおもうようにいかない
ゆきづまる
とこうなるわけですよね

ところで
この思うようになる
とか
思うようにならない
とか
みんながおもっているこの
「思い」
おもいですけどね
これは私流にいえば
想念です

想念というのは
いつも申しておりますとおり

光ばっかりの想念じゃないんです
我々肉体人間の想念というのはね
光と業とが
半々あるいは
四分六でもって
まざり合っちゃってる

この世のすべてのあらわれ
それはむこうへ行っても
そうですけれども
この世のすべてのあらわれというのは
我々の想いが実現して
こうなっている
汝ののぞむ如くなれ
の世界なのですね
ですから
この原則からいえば
みんな
思うとおりになっていかなきゃ
ならないんだけど
いかんせん
我々の想念は
さっきもいったように
業がまざっている
不安だとか
こうなればいいのに
ああなればいいのにとか
あの人と仕事したくない
とかね
もうこだわりや
とらわれやが
いっぱい入ってて
それが念になって
我になって
業になって
我々の本体を
おおってしまっているんです

不安のうちにおもう
だからうまくいかない
腹を立てながら念じる
だからそのとおりにはならない
女の一念岩をも徹す
って言葉もありますけど
でもそれだって徹ったあとで
ちゃんとお返しというか
それだけ借金返しをしなきゃ
なんないようにできてるんです
つまり
この場合
おもいどおりになるってのはね
たとえば
不安がっておもうと
それだけ
不安をはらみながらのその人が
イメージした世界が
でてくるわけですよ
そっくり
その人の想念がね
出てくるんです
ただし
神様の方で法則というのが
あって
たとえば
相手をやっつけたいとか
むやみやたらに
こっちを勝たして下さい
なんていうおもいは
これは絶対にきかれない
それは神様の
愛と調和と平和
という
大原則にもとるからですね
これは絶対駄目なんです
だけど
自信のない人は
自信のないままの世界が
あらわれてくるというのは
これは
さっきいったとおり
なんです

そこで  
もともとの
大原則である
おもいどおりになる
しかも
スッキリとなるために
今の私たちには
祈り
というものが
必要なのです

我々の奥のずっと奥に
神霊意識というのが
あります
大元の霊からわかれてきた
つまり
神様の
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
としてわかれてきた
自分たちのおおもとを
おもい出すっていいますかね
もともとそうなんだから
本当は
おもいだすもなにも
ないんだけど
霊である自分
神からわかれてきた
大愛のすえなんだという事実を
祈りってのは
おもい出させるわけですね
呼びおこすんです
それでもって
徐々に徐々に
幾重にもなっている私たちの
からだのなかに光を徹して
クリーニングをするんです
業を掃除しちゃう
祈りという掃除機が
どのくらいゴーゴーって音たてるか
私はわからないけれど

人間というのは
肉体人間というのは
またよくためるんですよ
それは今までの習慣
おもいぐせがあるからね
とにかくこの肉体が
自分だという意識
それから
自分自分って
自分を守る意識が
つよい
だからよくたまるんだけど
祈りというのは
世界平和の祈りというのは
とにかく瞬間に
その人を光でつつんじゃって
業をとかして
きれいにする
ためてもためても
たまってもたまっても
きれいにして
しまいに
すきとおらせて
ああ
私たちは
生きてるんじゃなくて
守護神や守護霊に
守られてるんだな
神霊に守られ天使に守られ
神様の大愛によって
この世に生かされてるんだな
ありがとうございます
守護霊様
守護神様
ありがとうございます

これを世界人類
一人のこらずの人たちに
おもわせちゃう
語らせちゃうんです
もうむこうでは
完全に
平和は成ってるんです
それを今
現し世である
この世に
おろしてるんです

昔阿弥陀さまが
ちかいをたてて
自分の名を呼ぶ者で一人でも
救いにもれる者があれば
私は仏にならないといった
それとおなじことを
神様は
私とのやくそくのなかで
いわれたんだ
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
という
この世界平和の祈りを
となえる
ときに
人は
真実に救われてゆく

救われてゆくっていうのは
自分自身が
肉体なんていう
ちっぽけな世界に
しばられた存在じゃなくて
無限大の存在なんだ
生きとおしのいのちをもった
朗らかな存在なんだってことが
おのずから
わかってくるということですよね

この祈りは
すべての枠をこえるんです
国家も
民族も
宗教も
風俗も
あらゆるものをこえて
人はみな
神の
愛と
ゆるしの
光から
わかれてきた
生命だということを
よろこぶ
神の前によろこぶ
大調和の
祈りなんです

この祈りを唱えつづけて
ゆくとき
人間は
しらずしらずのうちに
浄化されて
自分のふるさとである
神への
呼びかけが
たえず
できるようになるんです

もう
その準備が
大分できているんです

スッキリした
おもい
光にみちた
おもいで
神を呼ぶ
そうして
みんなが光になって
この世界を
宇宙を
平和にしてゆく
そういう器なんです
みんなが
そういう器なんです
だから
日常で
とらわれても
そのときに
ああ消えてゆく姿だ
とおもってね
そうして
ひたすら
自分の本心を呼ぶ
平和の祈りのなかでよぶ

世界平和の祈りというのは
徹底した
感謝行なんですから
この身内のなかにある想念を
一挙に
神霊意識にまで
もってゆく
それも無理なく
持ってゆく
そういう
祈りですから
いつの間にか
ありがとうございます
という
おまかせの心になって
愛深くなってくんです
守護霊が
守護神が
つれてってくれるんです

だから
安心してね
日々
世界平和の祈りのなかで
自分自身が光なんだということ
我々は
この宇宙に
光を放って
神の愛の光を
うけて
生きているんだということを
おもいながら
生きてって下さい
そうすると
おもいどおりの世界が
おもいがけない世界が
神様の愛念のなかで
実現してゆきます
そうして
大元において
いのちは一つだということを
我々はしらされてゆくのです
それではどうもありがとうございました

         平成2年1月7日

神というもの祈りというもの

2011-12-27 09:27:31 | スピリチュアル
神が
公平な
方であるのは
これはもう
うたがいがありません
実に平等
実に公平

どういう風に
公平かというと
とにかく
前の世の中での
借金を
守護霊や
守護神に手伝わせて
全部かえさせちゃう
ね、
これは
一人のこらず
そうさせて
みんなを
きれいな
からだにするんです
何も
イレズミなんか
消さないけどさ
すっきりとした
光そのものの
いのちにして
いつも
この世に生きていることを
少々辛いことがあっても
ああありがたいな
ありがたいなと
おもえるように
するんです
そして
もともと
人間はみんな
光なんだから
その自分のなかの光に
目がゆくようにするんです

そんなこといっても先生
うちは災難つづき
不幸つづき
つまずいてばっかり
いて
そんな
すっきりした生命
なんてもんじゃない
いつも
つっかえ
つっかえ歩いてる
前世の
借金返しなんか
どうでもいいから
今を楽にして下さい
という人がよくいるけど
なかなか
神様という問屋は
そうはいかないんだ

転んだ
つまずいた
けがをした
ってのは
それは
私がいつもいっている
消えてゆく姿でね
とらわれていると
業なんざ
いくらでも飛び込んでくる
払っても払っても来る
実にしっこいものなんです
だけど
神様の愛とゆるしの方が
もっとつよくて
とにかく、どんな業があっても
それを全部
消してしまうんだね

ただ
人間は
この地球上で
肉体をまとって
生活する内に
とらわれたり
不安がったりする自分を
自分だと
おもっちゃってからの
時間がながいですからね
もともと
人はみんな光だ
霊だっていっても
ピンとこないんですね
そんなピントの外れた話より
金がもうかる話をきかせてくれ
なんて
今の人は大概みんな
そういっちゃうでしょ
いやほんとうに
だからもう
ただ口で言葉で
説明したって
とっても追いつかないですよ
そこで
祈りというものが必要になってくるんです

祈りというのは
いのちを宣り出すということで
簡単にいえば
自分の肉体をはじめとして
自分というものを
生かして下さっている
いのちの元の光を
自分の奥にかがやいている
本心のなかにたずねて
そこで
自分のふるさとを確認する
ということですけれどね
ですから
祈りっていうのは
自分自身のすがた
その本体を確認するってことですけれどさ
自分で自分をおがむ
っていってもいいんだね
だけどみんな
迷ったり不安になったりしている自分を
自分だとおもってるから
そんな頼りない
こんな不確実な
自分なんかおがめない
とおもっちゃう
ね、そうおもう

だけど私のいってるのは
釈迦やキリストがいったのは
そうじゃない
この私というものを
生かしめているものをずっとたどってゆく

神の息吹き
神の光になる
それをおがめ、なぜならあなた方は
仏子、光の子なんだから
といったんですね

で、
祈りというものは
今は
思いわずらいとか
業とかにおおわれてはばまれて
すっかり
姿を消したかに
みえる
その光を
引き出して
祈ってくうちに
そうだ
自分のなかに
こんなしずかで
おちついた
世界があったんだ
光にみちた
世界があったんだという
そういう
真実の
自分自身との
出合いの場なんです

そうして
祈ってゆくことによって
みなさんそれぞれの
霊性というものが
みがかれてゆく
なぜなら
祈りに入ったとたん
それはものすごい
円光が
白光が 
あなた方をつつんで
平和の祈りのなかで
ずっと高い世界にまでのぼって
いのちのせんたくをして
そうして又
おりてくるんだから
何べんも何べんも祈ってるうちに
たましいがすっかり
きれいに
そうじをされてゆくんです
気をかえて
そうして
朗らかに
生きてみようかなと
おもうようになる
それはもう
実に不思議なくらい
そうですね

だけど
神様ってのは
とにかく
一人のこらず
みんなを
救うんです
とりあえずそうじするための
その入口として 
平和の祈りがあるとみんな
おもうでしょう
だけど
死んでみりゃあわかるけどさ
みんな
とにかく
ずっと祈り放しなんです

人間というものは
肉体を脱いで
幽界をとおって
そして
霊体になって
霊身になって
そこでも
いろんな
自分を
すなおにするための
修行場があって 
だんだん
だんだん
微妙な
からだになっていって
すきとおっていって
でも
最後まで
私たちは
祈ってる
世界人類が平和でありますように
とやってるんです
ここで
おわりって世界じゃない
なぜなら
祈りは
神からおろされた
愛のエレベーターで 
その
神の愛は
はいこれでおわりって
もんじゃないでしょ
無始無終ですよ
ずーーっと永遠に愛愛愛で
ゆるしの光を
放ちつづけているんです
そうすると
人というのは
神様から分かれてきたもんだから
だから
これでおわりってことはあり得ない
製造元がおんなじなんですからね

だから
祈りっていうのは
世界平和の祈りっていうのは
神が
わが子を
いちんちもはやく
自分の生まれたところへつれてきて
お前さんはここで生まれたんだ
そして
ここまで道案内してきた
私はあなたたちの
親なんだってことですね
そういう
ことが
わかるように
出来てるんだね

だから
なんにも
心配せずに
全部あずけて
一生懸命
神様を
おもって
祈ってゆけば
みんなそれぞれ
ああ私は
生かされてるんだなあ
という
よろこびが
おのずと
湧いてきますよ
それも
一人一人にあった
経験をさせて
そのなかで
みんなが
ああそうか
ああそうか
って
登れるように
登りの階段
光の階段を
上ってゆけるように
神様は
ちゃんと
何もかも
用意して下さって
いるんです

だからね
だから
なんにも心配することは
ないの
何にも
心配しないで
五井先生を
呼んで
世界平和の祈りを
して下さい
毎日毎日
ねてもさめても
とにかく
気がついたら
祈ってください
私を呼んで下さい
私が
みんなを
光の世界へ
つれてゆきますから
愛の世界へ連れてゆきますから
 
いいですね
それではどうも
ありがとうございました
           平成2年1月6日