人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

神 の 光(4)

2020-12-31 12:16:11 | スピリチュアル
    (前日からの続き)
何べんもかいてきたことですけど
今の人間はみんなこの
肉体人間観から脱け出せて
いないんですね
これは俺のだ
何だ黙ってとかね
自分が自分がって
すぐ我が出る
我の世界
把われの世界のなかで
これが世の中だ
これが自分だってやってる限り
この世界は平和にはなりませんよ
だって狭い「自分」の世界を
出ないんだから

さしずめ私は
この業のそうじ屋ですよね
業想念というもののなかで
まっくろになってすすけて
新しい空気が欲しいと思ってる人たちに
新しい空気を入れにきたんですよ

釈迦も
キリストもね
みんな入れにきたんだけど
俺が俺がの業想念が
この人たちの光の言葉を
あらそいの種にしちゃった
光の言葉をつかって
闇の方へ闇の方へと持ってってる
それはなぜかというと
お互いがお互いの立場を
思いやらないからです
認めないからです
それでこのままいくと
個人のしあわせどころか
人類みんなで亡びていかなきゃ
いけなくなる

そこで私が神様からいただいたのが
世界平和の祈りなんです
この祈りを、それぞれの信じている
宗教の祈り言の最後(勿論最初でもいいん
ですけど)にくっつけりゃあいいんです
今まで大事に信じてきたものを捨てろ
なんて
私はいいません

お前は駄目だ
といいつづけて世界も人類も
苦しくなり駄目になったんですから
大きなおおきな立場で
全部をみとめてしまう

そして
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
という祈りを心に思いうかべるだけで
そこにパーッと
すごい光の柱が立つんです
世界人類がと思ったときに
もうその人の本心の光がかがやいて
それが文字どおり
世界人類のところにとどいているわけ

それで
その人がキリストを信じる人なら
その信仰がつよめられ、その人のもつ
やわらぎとゆるしの光がつよめられて
神様の器として働くことが出来るように
私が手伝うわけですよ
仏教なら仏教で
法然さんなら法然さんをとおして
本心開発ができるように手伝ってゆく

ひとつも
お前駄目だ、なんていわないんです
そして
そうしているうちに
世界平和の祈りの持つ大光明
大元の光が
その人の一所懸命の光をもっともっと
高めてゆくわけです
わかりますか?
           (つづく)

神 の 光(3)

2020-12-30 06:47:38 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
人間っていうのは
神からわかれてきた分生命(わけいのち)
であり
分霊(わけみたま)です
そのおおもとは光で
肉体が自分だ、と思って生活していても
肉体という地上での衣を超えた
いくつもの自在な身体の奥に
本心の光がある
その光が一所懸命に突き動かされて
表面に出てくるんです
わかりますか

それでもって
守護霊さんや守護神さんや
その人に縁のある人たちが
寄り集まってきてね
その人の魂の成長に必要な場所を
用意するんです
とにもかくにも
これだけ一所懸命やったから
よしここは卒業 次へ行かせよう
てなもんですよね
だけどただはいかないんだ
やっぱりそこで誠実を尽くす
五井先生流でいうと
天命を信じて人事を尽くす
ということが大事なんですよね

これはもう何百ぺんいってきたこと
ですけど
人類の進化は
みなさん一人一人の進化がなければ
できないことなんです

一人の人が一所懸命やる
一所懸命やると
そのときその人は光になって
くるわけですよ
それが
その光が
純粋になり無垢になりね
すきとおればすきとおるほど
いわば
透明になるほど
高い高い深い深い光明心、光明体に
なるわけですよ
うちでいう白光になるわけですよね
そいで
その白光が
世界中を駆けめぐって
まだ辛い人たちの心の扉を叩くわけです
そして
あったかくさりげなくすばやく
その人たちの本心をひらいてゆくんです
ねっ、わかりますか?

一人の人間の働きというのは
こんなにもすごいものなんですよ
この世に肉体人間として生きている
いいかえると
この肉体を自分自身だ
世界のすべてだ
と思って生きている間はですね
光の働きを自覚する力も弱いんです

無神論者だろうが唯物主義者だろうが
守護霊さんや守護神さんは
とてつもなく深い愛情で守ってますよ
夜となく昼となく守っている
それでなければ
光(いのちの根)が、肉体を
離れてしまう
実際
神界に小休止なしなんだ
けれどもね

人が光そのものの自分
何らさえぎるもののない
絶えざる光明を自己のいのちのなかに
持っている
と自覚したときには
一人の人間が宇宙大に拡がって
ゆくんです
こころが
存在がひろがってくんです
いうなら無になってですね
一所懸命になって
その結果
光が自在な働きをするって
いいましたけどね

いつもいつも
人間ってのは無にはなりにくい
空にはなりにくい
瞬間、光になれても
自分が釈迦やキリストみたいに
なれるわけがない
とおもっちゃう
みなさんだってそうでしょ
私なんかとてもとても
とかね
まだまだ
とか

五井先生はああして簡単にいうけれど
とかね
大体出てくるこたえは
わかってるんです

で、その
自分なんか
私なんか
ですけどね
そう思うのは
相変らずみなさんが
肉体人間としてこの世に生きてきた
なかで
身につけてしまった
とらわれだとか我だかね

あらゆる限定のなかで世界をみてゆく
業想念のなかで
自分というものをしっかりつかまえて
いるから
そうなってしまうんです
          (つづく)

神 の 光(2)

2020-12-29 07:39:21 | スピリチュアル
    (前日からの続き)
宗教というものは
もともと
人間の本質を見失った肉体人間が
自分のいのちのありどころ
帰るべきふるさとを
祈りのうちに求め、真に
人間というものが
自由で朗らかで
明るい光のなかに
生きつづけてゆく存在であることを
深くしってゆくための
ものなのであります

ですから
神を語り仏を語り
神をしり仏をしることは
この宇宙をしることは
すなわち
永遠者の
大いなる智慧に抱かれることで
ありまして
決して自分自身のいのちを
不自由にしてゆくものではないので
あります

ところが
これまで人類は
それぞれ信じる宗教のなかで
がんじがらめになり
とらわれの身となってきた
なぜか

それは
先程申しましたように
それぞれの人が
己れ尊し
自分のところの宗教が一番正しいんだ
真理なのだ
という姿勢をふりかざして
他の立場に生きる人々を責めて
自分の方へ自分の方へと
いわば念で
それぞれの集団をつくってしまった
からであります
これではいけない
これでは救われる筈がありません

たとえ信じる宗教が
現世利益のものであっても
邪教とよばれるものであっても
そこで一所懸命やることが大事なのだ
と私は申しました
現世利益が宗教の本質だとも
思いませんし
他を認めない怪しげな宗教を
いいというのでもありませんけれども
そこならそこに入って
一所懸命やるという
その一所懸命が
現世利益を離れ宗教をはなれて
生き出してくるのです
動いてくるんです
働き出すんです
光として働き出してゆくんです
一所懸命が光を呼び覚ますんです
        (つづく)

神 の 光(1)

2020-12-28 08:03:17 | スピリチュアル
人間の本質は
光なのです
やさしい人
勇気のある人
思いやりを持てる人
愛深く生きること
やさしさも
勇気も
思いやりも
みんな
神の光から
ながれてきているものです

責めず
とらわれず
すべてをつつんでゆく光
私たちのいのちの根元である
神の大愛の光は
いつも
私たちの本心を照らして
絶えず
この光を
流しているのです

いのちというものが
人間というものが
光によるいのちであることを
これまでに
幾人もの聖者たちが
証してきました

キリストも
釈迦も
親鸞も
法然も
みんな
この
光の証し人たちです

彼らは
それぞれの時代の苦を背負って
それぞれに
人間が救われてゆく道を
解き明かしたのです
彼ら自身
神の大愛の光
大元の光そのものでした

キリストは
汝の敵を愛せよといい
釈迦は
わが死後も精進せよ
といいました
親鸞は弟子一人も持たず
といい
法然は
専修念仏のなかに
光明身自在身たるべき
人間の本質があると説きました

それぞれに
国を背負い
そこに生きる人々の
苦悩を背にしながらの
説き明かしでした

しかし
国といい
民族といい
風土をそれぞれ異にする人々の
宗教は
いつか
己れ尊しになってゆきます
人類という
この地上に生きるすべての人々   
を対象にしたものではなく
それらは
国と国
民族と民族のなかで
小さな独立国のようになってしまって
いるのです
          (つづく)

無 題(3)

2020-12-27 05:34:17 | スピリチュアル
自己本位
という言葉があります

人間はいざとなったら
自分を助けることだけで精いっぱいだ
というんですね

なるほど
この世に生きて
毎日毎日時間に追われ
自分の心がどこにあるか
それさえ見失ってしまう
肉体人間の世界では
そうかも知れない
しかし
私がここでいう人間は
そんなちゃちなものじゃないんです
死んだらおしまい
なんていうはかないものじゃないんです

自分をしるっていいますけどね
第一自己ってものを
どこまでみなさん突きつめて
毎日生活してますか

自己 自分 私
わたくし自身
このわたくしというものが
何処からきて
何処へ行くのか
というのは
昔々からの大問題ですよね
それは
人が
己れの存在とかいのちについて
考えはじめたときから
ずっとついてまわった問題でしょ
今もそうですよね
自分が何処からきて何処へ帰るんだろうって
ずっと考えますよね
そこで我々は
我々の肉体というものと
死というものに
ぶちあたらないではいられないのです

死というものを考えたときに
はたと
自分のおもいがとまってしまう
とめられてしまうんですね
なぜか
それは
自分というものが
死をむかえた時点で
この世から消えてゆかなくてはならない
という何とも知れないこわさに
ぶちあたるからなんです

自分という人間が消える
いなくなる
これは恐怖ですよね
何ともいえない気持ちになる
それで永遠なるものを求めて
神とか仏とかをみんな呼び求めるわけですが
何でこういう気持ちになるか
というと
肉体を自分自身だ
すなわち
自分自身だと思いちがいをしている
ところから起こってるんですね

実は
肉体というのは
狭いせまい箱なんです
もっと自由自在な自分
というものは
肉体のもっと奥の奥にあるんです
私がいつも申しますように
人間には霊妙な身体が
いくつもいくつもかさなっているんです

人が
現在この地上で生きるために
まとっているのが肉体だということで
あってですね
たまたま、五感でとらえられるのが肉体だ
というだけの話なんです
こんな風にいうと
先生はこの世の生活を軽くみているんじゃあないか
とおもう人も出てきそうだけども
そうではなくってね、そりゃあこの世に
生きてる間、肉体を軽蔑しちゃあ
駄目ですよ
何ったってやっぱり地上にいる間は大事に
しなきゃね
それで生きてるんですから

ただ私が言いたいのは
肉体だけが人間で、肉体がある間だけが
人間のいのちじゃないっていうんです
もしそうだったら
神も仏も大自然もこの宇宙も
もろもろのいのちの営みは
とても狭くるしいもろいものに
なってしまう
だけどそんなものじゃないんです

真実の人間というのは
この地上にいて、神霊幽界に同時に
存在してるんです
そしてつねに祈っている
光を放っている
神からくる光をながしている
そういうすごい存在なんです
ずっとつらぬいて生きるいのちなんですね
つまり
我々は神からわかれてきたいのちであり
霊なんです
もとはそうなんです
だから
人間というものを本当に突きつめてゆくと
虚無になるんじゃなくって
自由自在、無碍になるんです
何しろ大元の大愛までさかのぼるんですから
大変なものなんです

こういうことがわかると
もうずっと安心して
世界平和の祈りと消えてゆく姿でね
五井先生の口笛と
柏手にのって
自分自身をつねに祈らせて下さい
役立たせて下さい
と祈ってゆくと
どんどん
自分自身が大きくなって
朗らかになって
守護霊
守護神の守りのもとに
大きく深い働きが
出来てゆくようになるんです

よろしゅうございますか
それではどうもありがとうございました
  平成2年1月28、29日 記