人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

短 信(四十一)

2012-03-31 09:46:43 | スピリチュアル
 ところで、色々大変そうだが、あまり
頑張ると自分が疲れるよ。
 私が会った頃の精かんさを、もう一度
君には取り戻して欲しいが、それには先ず、
何もかも忘れて、身も心も休めることだよ。
 必要なことはみんな備えられてるんだから。

 今、君が無理に動かなくてもいいんだ。
 君が今、一生懸命やってくれていることは、
実は、代わりの人でもいいんだよ。君には、
もっと大事な、本質的なところをしっかり
踏まえて、それだけを持って歩いて欲しい。
 マリヤのなくてかなわぬもの一つだ。

 大事なものを踏んまえるということは、
体力も気力も充実していないと出来ること
ではないんだよ。だから、本質を見失わない
というのは観念論じゃない。大変な実際論だ。
 日々の生活そのものなんだよ。判るかな。

 いつか君に、気の流れをみて、君らしく
やり給えと私は言ったが、まだどうも
緊張がとれていないねえ。肩の力を脱き給え、
というより、想いを放つことだ。

 余計なものを神様は与えない。神は愛
なのだから、君や、我々人間一人一人に
必要なものしか与えないんだよ。実によく、
神様は人間を見ている。人間の一人一人の
くせをよくのみ込んで、その時々に必要な
ものを与えられるんだ。

 少し海でも見て来なさい。

 聖ヶ丘や富士に遊びにくるつもりで、
ちょくちょく私を呼び給え。

 神は愛だよ。心を煩わさぬこと、人に
煩わされぬこと。自分のおもいに
把われずに、一歩一歩を進み給え。
                 昌 久

短 信(四十)

2012-03-30 13:31:45 | スピリチュアル
 生命を生き生きと生きること、これが人間の
本来の姿であります。

 ところが、この世の中にくらしておりますと、
中々いつも生き生きというわけには参りません。

 腹の立つことも、かなしいことも起こって
参ります。

 普段、何もない時は、神様、世界人類が平和で
ありますようにと祈れるけれども、辛い悲しい
ことが起こってくると、なかなか祈れない。
 そして、良心の鋭い人であればある程、自分を
責め抜いて、自分の光を弱めてしまう
ということになるのであります。

 わたくしは、この感情と申しますか、心の、
気持ちの起伏ということを認めた上で、しかし、
人間の本来は生き生きとしたさながらの生命、
光そのものなのだと申し上げているのであります。
 人間の本体というものは、何があろうと
動かされることなく、光っている、光明体、
白光そのものなのだと申しているのであります。

 これは、誰かれの区別なく、人間は、一人のこらず
そうなのである。なぜなら、私どもは、神から
分かれてきた生命、神の光の一筋だからであります。

 世の中を生きてゆく上で、さまざまに悩んだり、
苦しんだりするのは、それは、教義にも説いて
おりますように、過去世の業が、時を得てあらわれ、
そして、消えてゆく姿であって、思い悩む自分が、
真実のあなた自身ではないのであります。

 けれども、私は、人間の心というものを否定
致しません。私もまた、人間に生まれて、種々の
よろこびとともに、かなしみや寂しさを
味わい尽くしてきた一人であるからであります。

 人間の心というものは、自然を感応出来るように
つくられております。もろもろのいのちの呼び声に
対して、感動し、また対話を重ねてゆくことができる
微妙さをそなえております。

 なぜ、私どもの心に、かなしみやさびしさが
たくわえられているのかといえば、この自然の、
もろもろの生命の呼び声に対して、心耳を澄まし、
とけ合い、それらの生死と一体となって、ついに
神をたたえるそのゆたかさのためにたくわえられて
いるのであります。

 まことに、我々は自然の一部であります。が、
この種々の感情は、人をはなれたものではありません。
 我々は、幾人幾十人の人と心の機微を
かよわせてこそ、生きているということがいえる
のであります。かなしみや寂しみは、この心の
通い合いのなかで、やさしさと愛をはぐくむ源
となってゆくものであります。

 誰一人として辛いこと、悲しいことを歓迎する
人間はおりません。しかしながら、人の痛み、
負った傷、また負わされた傷の深さをはかって、
真実に、人間本来が持っております愛と、そして、
やさしさを発揮するためには、時に耐えがたい
かなしみや、寂しみ、また怒りすらも味あわされる。
 これは、業ではなくて、あなたの守護霊、守護神が、
その魂の成長のためにおいたつまづきの石である
のであります。

 業とは、すべてのことにとらわれ、こだわりつづける
ことであります。
 よいことであれ、わるいことであれ、とらわれ
つづける時、我々は、我の世界におちこむ
のであります。わがままと申しますが、これは、我の
ままに動かされる人間のすがたを申したものだ
といってもよいでありましょう。

 かわいらしいわがままもありますが、自らの
いのちのすがたに気付かず、それを歪めてゆく
というのは、これは最大のわがままであります。

 いのちのすがたというものは、先にも
申しましたように、何物にもとらわれず、動かされず、
あるがままのすなおな光そのものであるのです。

 私どもは、この生命を持って生きている。この生命
によって生かされているのであります。このいのちが
なければ、私どもの肉の身は、とっくの昔にほろんで
おりましょう。

 そして、このいのちとは、神の愛と智恵とやさしさに
ほかなりません。私どもは神からながれてくる
この三つのものによって、瞬々刻々、この生命を
生きているのであります。神の愛という神の息吹きの
ながれを受けなければ、私どもの生命は、全くその
流れをとめてしまうのであります。

 このように、神の愛によって生きている私ども、
生かされている私どもの生命が歪められてそのまま、
不幸の唯中につきおとされるということはあり得ない
のであります。私どももこの愛のなかに生きている、
私どもは光の住者なのであります。

 神の愛というものは無限に深いものでありまして、
その働きは人智を越えております。

 神様は、守護霊は、守護神は、我々一人一人の
いのちをすこやかにみちびくために、ひとときも、
あなたのそばをはなれることがありません。

 どうぞ、世界平和の祈りによって、かなしみの
唯中にあるあなたのこころを、私に、神に頒け、
おまかせのいのちとなって祈り一念におすすみ
下さいますように。

 世界人類が平和でありますように       
                      合 掌
                        昌 久

短 信(三十九)

2012-03-29 10:12:06 | スピリチュアル
 己れをむなしくするということを
いいかえますと、光ばかりになる─という
ことであります。

 余分なもの、とらわれやこだわりや、
背のびや、無理強いといったものから
とき放たれた真実の自分があらわれてくる
ということであります。

 人は誰しも、真実の自分というものを
求めて旅をしております。

 はせお(※)は、月日は百代の過客にして
ゆきかう歳もまた旅人なりと申しました。
 このはせおの言葉は、実に私の心に
沁み渡るものがありますが、全く、我々
人間は、百代をとしても、真実の自分を
見極めたいと思うものでありましょう。

 人生は、我々のこうしたおもい、願い、
祈りをこめた旅路であり、我々は旅人
であります。そうして、真実を申します
なら、我々は、百代、二百代をかけて、光
そのものの真実の自分に出会う旅を、一人
のこらずしているのであります。

 これは、事実であり、また真実
なのであります。

 光ばかりになる、そういう自分に
なるには、先ず、神様の、我々に対する
愛をおもってみることであります。
 神様の、私どもに対する愛は、何の
計らいもありはしない。ちっぽけな
おもわくなどというものをはなれた無限の
愛であります。

 愛して愛して愛し抜いている、そういう
愛であります。この愛のなかには、
やさしさと、真(まこと)がみちている
のであります。

 やさしさというものは、あくまでも、
自分を、人を活かしてゆくものであります。
 丁度塩が、ものの味をひきしめて、しかも
やわらぎを与えるように、やさしさという
ものは、我々すべてを活かすのであります。
 そして、このすべてを目守り、すべてを
活かすというのが、神のやさしさであり、
愛であって、この愛とやさしさは、私どもの
なかにも流れこんでいるのであります。

 気持ちがやさしくなっている時、
私どもは、ただ、そのやさしさのなかに
溶け込んで、余分なことを考えたりは
致しません。この瞬間、私どもは光に
なっているのであります。一分釈迦、一分
キリストと、かって申しましたように、
そういう瞬間がつづけばつづく程、
私どもは、光である自分自身に出会う
のであります。

 そうして、この光をいっぱいにあびる
のが、世界人類が平和でありますように
という世界平和の祈り言なのです。

 この祈りを唱える時、すべてのとらわれ、
こだわりが消えて、私どもは光そのものと
なるのであります。

 なぜならば、この祈りは、神の愛
そのものをあらわした神の祈り言だから
であります。

 これまで地上に降りて下さった聖者方と、
聖者方を守護なさった守護の神霊たち、
その聖者方を送られた大神の、宇宙神の、
人類に対する絶えざる愛の祈りであり、
また、この宇宙神、神から分けられた
私どもの本心本体─光身の祈りであります。

 ですから、
 世界人類が平和でありますように
 と唱えます時、宇宙神(大生命)と、
私ども(分生命)とは一体になる
のであります。

 かたちとしては、この地球世界に適応
するために、肉体となっておりますが、
いつも申しますように、この世の
あらわれは、すべておもいが源になって
おりますのでこのおもいを澄ませ、大元
である愛へと回帰到します時、私どもは、
光そのものの自分に出会うのであります。
 世界平和の祈りは、その自分、真実の
自分に出会うための道しるべであり、
神の杖なのであります。

 この祈りをつづけて参ります時、
私どもはいつ知らず、愛とやさしさに
満たされて参るのであります。

 すべてを神にささげ、神にまかせて、
愛とやさしさにこの身をとかして
ゆくために、光そのものの自分と
なるために、ほがらかなやさしい生命を
生きるために、日々、世界平和の祈りを
唱えて参りましょう。

 世界人類が平和でありますように            
                  合 掌
                    昌 久

 (※)・・・(919年)紀長谷雄(きのはせお)

短 信(三十八)

2012-03-28 11:01:09 | スピリチュアル
 何よりも大事なことは愛するということ
であります。自分を愛し人を愛するという
ことであります。

 この愛のなかに神のすがたがあり、
神の本質があるのであります。私どもは、
神から分けられてきたいのちでありまして、
神の光、ながれ(いのちのながれ)を
受けて生きているのでありますが、その
ながれの大元は、この愛であり、愛する
という行為であります。

 ところで、愛と申しますと、先ず、
うかびますのは、父母の子どもに対する
愛でありましょう。

 私なども、母の深い愛念のなか、
こうして生きて参ることができた
のであります。全く父母の子に対する愛
というものは理くつではありません。
 それは、見守り、育て、抱く無償の愛
であります。

 ところが、近頃の世の中をみて
おりますと、しばしば、この父母の愛
というものが伝わりにくくなっている。
 それだけ、せち辛くなっているという
こともありましょう。
 けれども、実は、父親なり母親である
人達が、子どもにそそぐ愛の、その
そそぎ方といったものを勘ちがいして
いることが多いのであります。しばしば、
盲目の愛になってしまっている。

 盲目の愛と、自然、無償の愛という
ものをとりちがえているのであります。
 勿論、親の愛というものは、りくつ
ではありません。りくつといったものを
超えた愛である。流露されてくる愛
であります。

 けれども、申しましたように、親の愛
というものは、そういう自然に流露されて
くる愛ばかりでは親の愛になって
参りません。

 子どもを、見守り、育て、抱くという
この三つの相(すがた)が、自然な愛情の
なかにあってこそ、親の愛なのであります。

 子どもの何をみるのか、育てるのか、
抱くのか、それは、その子が、どんな
性質の子であるのか、ようくみて、
叱るべき時には叱り、ほめるべき時には
ほめてやる、そうして、助走してやる
ということなのであります。そうして、
私はお前のことを愛している、だから心配
するなという心でもって、いつも子どもを
みてやるということなのであります。
 これが抱くということなのであります。
 抱き放しの親がいたり、育てること
ばかりに夢中になっている親がいたりして、
私のところになんかにも、守護霊守護神が、
五井先生お手上げですと、相談にきたり
しますけれども、ここのバランスが、
とれていないことが多いんです。

 愛するということは、盲目では
ありません。盲目ではつとまって
まいりません。

 見守り、育て、抱く、この三つの相が、
溶け合った愛こそ、神様の愛
なのであります。私どもは、この神様の愛
によってはぐくまれてきた子ども
なのであります。

 私は神様じゃない。だからそんな上等な
愛を、子どもにもまわりにも抱けない、
なんていう人があったら、それは、つねに
私の申します卑下高慢なのであります。

 なぜなら、私どもは、神から分かれて
きたいのちなのですから、この神の愛は、
ずっとずっと、天命を果たしおえるまで、
私どものなかにふりそそがれているもの
なのでありますから。私どもが愛する
のではない。先ず、神が、私どもを愛して
下さっているのであります。この身の
何もかもを、一度、神にお返しして、
任せて、そうして祈りつつ、わが子への、
また、まわりの人々への愛とやさしさを、
たくわえてゆくべきなのであります。

 もう一度申します。私どもは無一物
なのです。凡夫なのです。その
凡夫(肉体我)である私たちは、大元の
神の愛へと回帰してゆく時、
いのちあらたに生きてゆくことができる
のであります。

 世界人類が平和でありますように
                 合 掌
                   昌 久

短 信(三十七)

2012-03-27 10:17:36 | スピリチュアル
 この世は、光にみちているのであります。
 神の光、神の愛に満たされているのが、
この世であるのであります。

 我々は、この本来の姿におもいを到して、
想念を愛とやさしさで満たし、自ずからなる
光明をもって、天地をつらぬく光の柱と
なることができるように、日々、世界平和の
祈りをなしつづけているのであります。

 人間の心のなかに眠っている本心の光を、
一刻もはやく、完全にあらわし切るために、
我々が、神からわかれてきた朗らかな神の
いのちであることをよろこび、おそれ、
つつしみつつ祈りの光をみたすために、
私どもは、世界平和の祈りをなしつづけて
いるのであります。なしつづけてゆくので
あります。

 世界人類が平和でありますように

                  合 掌
                   昌 久