ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

ライカーズ島は、現代のシャトー・ディフか・・・

2011-05-23 21:08:16 | 社会
沖合に浮かぶ小島が監獄として利用されることは、昔から、多くの国々であったようです。監視しやすく、受刑者にとっては脱獄しにくい。まして周囲の潮の流れが早ければ、たとえ脱獄しても生きて対岸へはたどり着けない。

例えば、サンフランシスコ沖のアルカトラズ島。あるいは、ドレフュス大尉(Alfred Drefus)が投獄された、仏領ギアナ沖の悪魔島(Ile du Diable)や、デュマ(Alexandre Dumas, père)作『モンテ・クリスト伯』(Le Comte de Monte-Cristo)の舞台、マルセイユ沖のシャトー・ディフ(Château d’If)などが有名ですが、ここにきて急に注目を集めることになったのが、ニューヨークのライカーズ島(Rikers Island)。

ご存知、IMF前専務理事のドミニク・ストロス=カン(Dominique Strauss=Kahn:DSK)が16日に収監され、20日に保釈されるまで、4泊5日で滞在した島です。島全体が巨大な拘置所・刑務所になっており、常時、1万人以上が収容されているとか。

ラガーディア空港近くのイーストリバーに浮かぶ小島で、島全体が金網で囲まれ、クイーンズと一本の端で結ばれているだけです。一般車両の侵入は規制されているようで、弁護士を含め、面会者はバスを利用しています。しかも、到着するまでに厳重なチェックを何度か受けることになります。

DSKが滞在したのは、3x4mの自殺防止用監視付き独居房。事件現場となったホテル・ソフィテルのスウィート・ルームとは雲泥の差があることは改めて言うまでもありませんが、アメリカでも悪名高きライカーズ島。どのような施設なのでしょうか。その塀の中は・・・

以前、ここに収容されたことのあるフランス人青年が、帰国後、メディアのインタビューに答えていました。その記事を改めて17日の『ル・モンド』(電子版)が紹介しています。どのような待遇を経験したのでしょうか・・・

2004年、機内でうその爆弾騒ぎを起こしたとして取り調べを受けたフランク・ムレ(Franck Moulet)は、20日間をライカーズ島の拘置所で過ごした。2004年2月2日の『ル・モンド』の記事で、釈放されてフランスに戻ったこの学生は、この悪名高き収容施設での体験を次のように語っていた。

ライカーズ島の施設内で、彼はフレンチー(The Frenchy)と呼ばれていた。他の収容者はアフリカ系とヒスパニックがほとんどで、白人のアメリカ人が二人だけいた。白人の外国人は、当時27歳で美術専攻の学生だったフランク・ムレだけだった。収容者の誰ひとり、彼がどうすべきか関心がないようで、彼だけがそれを知っているかのようだった。

彼の物語は、サント・ドミンゴ発ニューヨーク行きのアメリカン航空機の中で始まった。フランクはトイレの中でゆっくり時間を過ごし、結果として長時間閉じこもっていた格好になった。不審に思ったキャビン・アテンダントがドアを激しくノックした。腹の立ったフランクは文句を言い、席に戻ってからも、「ちきしょう、トイレに置いた爆弾が破裂しなかったんだ」と叫んだという。しかし、フランク曰くは、「爆弾という言葉は使っていない。“My shit don’t explose”(ママ)・(くそが出なかった)と言ったんだ」。しかし、このニュアンスは警察に受け入れられなかった。

うその爆弾騒ぎで逮捕されたフランクは、ブロンクス地区に係留されている船の拘置所“La Barge”に収容された。そしてその後、ライカーズ島に移送された。最終的には、クイーンズの裁判所で、罪を認め、非常識な振る舞いの咎として595ドルの罰金を支払い、釈放された

ライカーズ島での20日間の収容体験はまったく皮肉なものだった。フランク・ムレは、1月30日にロワシー(シャルル・ドゴール空港)に戻ったが、その夜は、テレビ局“Canal+”の番組に出演した。番組終了後の彼は疲れ切っており、その苛立ちは極限状態に達しているように見えた。しかし突然、話し始めた。ライカーズ島での体験を語らざるを得なかったのだ。眼は血走り、早口でまくしたてながら、すぐ涙ぐんだ。しかし、もはや口ごもらなかった。彼の語るライカーズ島での体験とは・・・

ライカーズ島、それは“La Berge”に拘留されていた者たちがいつも口にしていた名前だった。フランク・ムレはその意味を理解するとともに、ライカーズ島に収容されなかったことを喜ぶべきだった。クイーンズとマンハッタンの間にある、シャトー・ディフのような獄門島。そこに収容されているのは、4年以上の刑期が確定した軽犯罪者だ。「そこは、スペイン語では“La Rocca”、岩と呼ばれていた。そこを支配しているのは、ジャングルの法則(la loi de la jungle)、つまり弱肉強食だ。決して足を踏み入れるべきところではない。そこに移送されると言い渡された時、そして乗せられたトラックが橋を渡るとき、みんなが言っていたことを思い出した。そして、これが最後の日になると自分に言い聞かせた」と言ったきり、フランクは言葉を継げなくなった。喉から声は出ず、涙がとめどなく流れた。

気を取り直し、先を続けた。「大きな共同寝室があった。ドアのないトイレがその上にせり出していた。50人の受刑者がその部屋には収容されていた。僕が到着したとき、僕がその世界の人間ではない事をみんなは理解した。幸いなことに、ふたつのフレーズ、ふたつのアドバイスをもらった。ひとつは、“Don’t move and look”であり、もうひとつはスペイン語で、音を立てる者は、その報いを受ける、という内容のフレーズだった」。そして、フランクは、音を立てた者がどうなるのか、目の当たりにすることになった。

「あるヒスパニックが決められた時間以外に電話を使うという規則違反を犯した。そこではヒスパニック系が優先権を持っていたのだが、ギャングの構成員が多く、その部屋を牛耳っていたのは彼らだった。そして彼らの中にも序列があった。その他の民族はその下に位置している。許可なく電話を使用した奴は、リンチに遭った。属している仲間から痛めつけられたのだ。看守はその場にいて、すべてを見ていたが、『何かあったのか』と聞くだけだった。痛めつけられていた奴が立ち上がり、『何も』と言うと、看守たちは立ち去った。」そうした環境で、フランク・ムレはリンチに遭うのを避ける術を学んだ。飛行機から引きずり下ろされる際に警官から左の耳に一発お見舞いされたが、ライカーズ島では、“Don’t move and look”を金科玉条としてしっかり守った。「忠告に従った。周囲で何が行われているのか、理解しようとした。周りをつねに観察し、シャワーを浴びたり、洗濯をしに行く際に、しっかり見渡した。そしてそれ以外のほとんどの時間をベッドの上で過ごした」と、フランクは思い出しながら語った。

フランクを最も助けてくれたのは、アフリカ系アメリカ人だった。「食べ物を分けてくれ、仲間に入れてくれた。そして、どう答えるべきか、何をしてはいけないかを教えてくれた。あそこでは、慎むべき動作があった。一度、腰に手を当てたことがあるが、すぐに彼らの一人が叫んだ。『そんなことをしちゃいけない』と。刑務所内では、それは男らしくない動作だった。媚を売っているようなもので、痛い目にあわされてしまう振る舞いだ。また、刑務所内では、運動も欠かせない。毎日腕立て伏せを50回だ。強くあらねばならない、というのも生き抜く法則だ。性的暴行ではないが、力による暴力から身を守るためだ」、こう冷静に詳細を語ってくれた。

フランク・ムレの弁護を引き受けたオリヴィエ・モリス(Olivier Morice)は、どうしてフランクがブロンクスの刑務所からライカーズ島に移されたのか、決して説明しようとしない。ライカーズ島には一般的に重い刑に服する受刑者が収容されるのだが、フランク・ムレの場合は刑期すら決まっていなかった。フランス外務省は、イラク戦争開戦をめぐって悪化した仏米関係が影響したという見方には、何ら意味がない、と語っている。フランク・ムレはその後決してアメリカに足を踏み入れようとしない。

フランク・ムレの場合と異なり、DSKはライカーズ島において特別待遇の恩恵に浴した。西棟に収容されたが、そこは伝染病に犯されている受刑者用の施設だ。しかし、DSKは30人ほどいる受刑者からは遠く離された。「それは、人間と一切のコンタクトを禁じるということではなく、有名人に対する不要な苛め・迫害を避けるという意味だ」と、ライカーズ島の報道官は匿名を条件に語ってくれた。

・・・ということで、暴力が支配する、悪名高きライカーズ島。フランス外務省がどんなに否定しようとも、仏米関係の悪化という外交的背景がフランク・ムレをこの島に送り込んだのでは、という疑いは晴れず、DSKの場合には何らかの政治的背景があったのではと勘繰ることもできます。今回のDSK事件で有名になったライカーズ島、有名な獄門島のリストに加えられたのではないでしょうか。

ところで、フランク・ムレ青年の思い出すだけで涙が止まらないという経験。さぞや、性的なものも含めての暴行を受けたのではないか。苦痛、屈辱、恥辱の日々。そう思ったのですが、そこまでではなかったようです。不幸中の幸いだったのかもしれませんが、では何が涙にくれるような思い出なのでしょうか。何がそんなにつらかったのでしょうか。

動くな、音を立てるな・・・ということは、自由に振る舞うな、しゃべるな、ということですね。これがつらかったのではないかと、冷たいようですが、思えてしまいます。自由を愛し、しかも、いつでも、どこでもしゃべり続けているフランス人にとって、好きなようにしゃべることを禁じられるのは、拷問のようにつらいのではないか。他人事とはいえ、そんな気もしてしまいます。

翻って、私たちが、起きている間はしゃべり続けるように、黙ったら、ただじゃ済まないぞ、と言われたらどうでしょうか。これはこれで、つらい。相手に嫌われないように言い回しにいちいち気をつけながら話し続けるのは、これはこれで相当に疲れる。気疲れしてしまいます。

日本人とフランス人、つらい内容も異なるのかもしれないですね。一方、DSKは、ライカーズ島で、何かつらいことはあったのでしょうか・・・