ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

魅惑の国のアメリカ人。征服の国のDSK。

2011-05-19 21:37:59 | 社会
『パリのアメリカ人』と言えば、ガーシュイン作曲の有名な交響詩ですし、『巴里のアメリカ人』と漢字になると、1951年製作、ヴィンセント・ミネリ監督、ジーン・ケリー主演のミュージカルになります。こちらも名作で、アカデミー作品賞などを受賞しています。

21世紀の今日では、「魅惑の国のアメリカ人女性」となっているようです。18日の『ル・モンド』(電子版)に掲出されている記事のタイトルなのですが(“Une Américaine au pays de la séduction”)、どうしてこのようなタイトルになったかというと、西洋と一口に言っても、大西洋の西と東では、さまざまな違いがある。その違いの一端が、IMF専務理事を辞任したドミニク・ストロス=カン(Dominique Strauss-Kahn:DSK)の逮捕勾留をめぐって現れているからだそうです。

ここで、突然、思い出すのが、歌手・野坂昭如の代表曲、『黒の舟唄』です。♫男と女の間には深くて暗い川がある。誰も渡れぬ川なれどエンヤコラ今夜も舟を出す・・・思い当たることが多々ある、などと言えば、ジェンダー論やフェミニズムを専門にしている方々からは、叱責を受けそうです。

しかし、そのような深くて暗い川が、アメリカとフランスの間にはあるということを、フランス社会とフランス人を調べれば調べるほど実感したというアメリカ人作家を、『ル・モンド』の記事が紹介しています。どのような違いであり、DSK事件とどのように関わっているのでしょうか・・・

大西洋を挟んでの対立は、折り合いがつきそうにない。ドミニク・ストロス=カンの逮捕をめぐって、お互いに非難の応酬をしている。「厳格過ぎる」、「寛容すぎる」、「なんと粗野な!」、「偽善者め!」・・・フランスの社会党はメディア、司法の過熱ぶりを批判している。例えば、ジャック・ラング(Jack Lang:文相や文化情報相を務めた下院議員)は、DSKの保釈を認めず勾留を言い渡したニューヨークの判事は、フランス人、それも有名なフランス人にこの時とばかりに思い知らせてやろうとしているに違いない、と語っている(その後、条件付きでの保釈が認められました)。

DSKの事件によって、言い古されたことが再び脚光を浴びることになった。例えば、フランス人は享楽的で、社会の暗黙の同意のもと、つねに女性の尻を追いかけ回している。「その洗練さは大したものだ」と『ウォール・ストリート・ジャーナル』は揶揄している。一方、アメリカの粗野な司法制度は罰を与えることしか考えず、保安官は『ロー&オーダー』(Law and Order:NBCで1990年から2010年まで放送された、人気刑事法廷ドラマシリーズ)の主人公になった気でいる。また、フランスでは手錠をかけられた容疑者の映像を放送することは法律で禁じられているが、そのことをアメリカ人が知ったなら、さぞやびっくりすることだろう。何しろニューヨークでは、警察が容疑者を撮影するように連行する時間をメディアに連絡するほどなのだから。逆に、フランス人は、容疑者、つまりDSKが今だに自己弁護をする機会を与えられていないことに納得がいかない。

エレーヌ・ショリーノ(Elaine Sciolino:ジャーナリスト兼作家、『ニューヨーク・タイムズ』初の女性外信部長などを歴任)の新著が絶好のタイミングで出版される。その本の中で彼女は、フランスの習慣をアメリカ人に説明するとともに、それを聞いたアメリカ人の反応をフランス人に紹介しようとしている(ただし英語版で、フランス語訳はまだ出ていない)。『ニューヨーク・タイムズ』のパリ支局長でもある彼女は、イランに関するスクープでよく知られている。近著“La Seduction, How the French Play the Game of Life”において、彼女はフランス人の奥底にあるものをえぐり出そうと試みている。ヴァレリー・ジスカール=デスタン元大統領(Valéry Giscard d’Estaing)は、こうした無謀な試みをやめるよう彼女を説得しようとした。「フランス社会がどのように回転しているのか本当に理解できたアメリカ人には、誰ひとり会ったことがない。フランスは外部からでは計り知れないシステムを保持しているのだ」と彼女に忠告した。

「魅惑」(la séduction)がフランス精神の核にあるとエレーヌ・ショリーノは考えている。非公式な「イデオロギー」だと言っても良い。彼女は、魅惑をキーワードに、社会的関係や会話術から外交までを貫いて共通するフランス人の行動・態度をできる限り集めようとした。植民地が減って以降、フランスは「ソフト・パワー」に自己の生きる道を見出そうとしたのだ。つまり、魅惑し、惹き付ける能力のことだ。

エレーヌはまず、大手広告会社“Publicis”のレヴィ会長(Maurice Lévy)から手にする口づけ(baisemain)の手ほどきを受けた。レヴィ会長は「私はあなたに直接触れはしないが、私がすぐ近くにいることをあなたが感じる程度にすることが大切だ」と教えてくれた。次いで、エレーヌは、元シャネルの専属モデル、イネス・ド=ラ=フレッサンジュ(Inès de La Fressange)に意見を聞いた。新しいヘアスタイルにし、関節炎になる前に(歳を取る前に)可能なら愛人を持つことが大切だとアドバイスをもらった。

クレージーホース(Crazy Horse)で踊るアリエル・ドンバル(Arielle Dombasle)は、「魅惑するとは、戦争のようなものなの」と語り始めた。戦場記者であるエレーヌは、思わず自分の得意分野だと思ったのだが、そうではなかった。「裸で夫の前に行くですって。とんでもない。そんなことをしたら、二度と食事に誘ってもらえなくなるわよ」とアリエルは叫んだ。彼女によれば、フランス人にとって、裸体とは野卑なものではないのだ。裸体に関するフランスとアメリカのギャップを知りたければ、アメリカでジムの更衣室に入るだけで十分だ。そこには、堂々と人目にさらされた裸の肉体があふれている。

ランジェリーを中心としたファッション・デザイナーのシャンタル・トーマス(Chantal Thomass)は、気を惹く術を教えてくれた。「ミニスカートか、胸元を大きく開けた服か、どちらかを身につけること。同時に両方をまとってはいけないわ」。エレーヌはまったく異なる考えをもっていた。肌を露出すれば露出するほど男性を惹き付けるのではないかと思っていたのだ。

エレーヌはついに、喜び、楽しみ、魅惑といったものを至る所で目にするようになった。エヴィアン・レ・バン(Evian-les-Bains)では、社会保険を利用して温泉治療にやってきている労働者たちに驚いた。コンピエーニュ(Compiègne)への途上では、“Auto Séduction”(魅惑自動車)という名の修理工場の前で立ち尽くしてしまった。修理工場の社長に聞いてみたところ、“Auto Prestige”(名声自動車)という名前が既に使われていたので、“Auto Séduction”という名前にしたそうだ。「フランス人は、勤勉で超資本主義のアメリカ人が認めようとしない喜びとか楽しみといったことを自らに許しているのだ」と彼女は書いている。

エレーヌ・ショリーノは、すべてを理解しようとする。フランス人女性は、どうして近くのパン屋にバゲットを買いに行くためだけにもおめかしをするのか。この質問に、フランス人は、どうしてかなんて知らない、と答えている。また、どうしてフランス人女性たちはみな、人前で男性からちやほやされたり、口笛を吹かれても怒らないのか。エレーヌは、フランスにあまりにフェミニズムがないことに驚く。フランスでは、外交官があからさまな性差別の本を出しても、世間を騒がせることがない。その本とは、ピエール=ルイ・コラン(Pierre-Louis Colin)の本(“Guide des jolies femmes de Paris”パリの美人ガイド)のことで、カルチエごとに女性の美しい脚と胸元を調べて紹介している。

公人と魅惑の章では、有名なエピソードを集めている。シラク前大統領の愛人たち、ミッテラン元大統領の隠し子、DSKの女性問題に関する噂。「フランス人は喜びの権利を認めている」とエレーヌは書いているが、喜びの権利を認めることで、フランス人は他人の行動に寛大でいることができる。政治家はパパラッチなどに追い回されることもなく、国民も政治家の私的問題を暴露しろなどとは要求しない。アメリカでの目標は、最も効率的に相手を征服することだが、フランスでは達成の満足感よりも欲求そのものの方が重視されているようだ、と彼女は語っている。

・・・ということで、DSKの逮捕を機に、フランスとアメリカの価値観、生き方といったことの違いがクローズアップされているようです。

政治家のプライベート部分に寛大なフランスと、厳しいアメリカ。DSKがもし同じことをニューヨークではなくパリで行ったなら、DSKも好きだね、相変わらずあんなことをやってるよ、という噂話で済んだのかもしれません。しかし、政治家など社会のトップにいる人物に厳格な人間性を求めるアメリカではそうはいきません。逮捕、即キャリアの終了。『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記事が語っていたように、郷に入れば、郷に従えで、告訴内容が事実なら、DSKもアメリカ流で振る舞うべきだったようです。

アメリカとフランスの違いには、人生の楽しみ方の差が影響しているようです。いかに効率よく目標を達成するかを重視し、達成感に満足を覚えるアメリカ。一方、欲求そのもの、あるいは欲求を満たすプロセスに喜びを見出すフランス。ラクロ(Pierre Choderlos de Laclos)の『危険な関係』(Les Liaisons dangereuses)などフランスのいわゆる心理小説を読んでいても、そのような印象を受けます。

そして、気になるのは、人生を楽しむことを認めるがゆえに、他人の行動に寛容でいられる、という部分です。お互いに人生を楽しもう。だから、少々のことには目をつぶる。目くじらを立てない。一方、異質を排除する我らが日本。他人の行動をひっそりと障子の陰から覗き見し、本人のいない所で悪口として広める伝統。また、人生は、辛抱だ。我慢して刻苦勉励すべし。休みたいとか、怠けたいとか、もってのほかだ・・・

いつものように、どちらが良いとか悪いではなく、違いがあるということです。国民が長い歴史の中で育んできた人生観であり、生き方です。自信を持っていいと思いますが、人生は楽しむためにある・・・羨ましい気もします。しかし、日向があれば、日陰もある。表があれば、裏もある。良い所だけではないのでしょうね。フランスも、決して天国ではありません。天国だと勝手に思い込み、住み始めてからがっかりする日本人が多い、と日本人にフランス語を教えているフランス人女性が言っていました。この世にパラダイスはない、ということなのでしょうね。
コメント (1)
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