チュニジアから始まった北アフリカや中近東での政権打倒の動き。チュニジアの場合は、チュニジアを代表する花・ジャスミンに因んで「ジャスミン革命」と命名されましたが、他の国々への広がりに伴い、一連の民衆蜂起をフランスのメディアは「アラブの春」(Printemps arabe)と総称するようになっているようです。
「アラブの春」と言えば思い出されるのが、「プラハの春」。1968年に起きた、チェコスロバキア(当時)での、共産党による共産党体制の改革運動。ドゥプチェク第一書記が陣頭に立ち、検閲の廃止など、自由を希求する国民の声に応える改革を行いましたが、結局ワルシャワ条約機構軍の軍事介入により、ひと夜の夢のように潰え去ってしまいました。
しかし、40年以上経って、舞台をアラブ諸国に移した「春」は、チュニジアからベンアリ前大統領を追いだし、エジプトではムバラク体制を倒し、リビアでもカダフィ大佐を窮地に追い込んでいます。「2011年の春」に世界の大国・アメリカはどのような対応をし、そこから何を学んでいるのか・・・14日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。
どう対応すべきか。このゲームは非常に難しい。あまりに有無を言わせぬ方法で、あるいは早すぎるタイミングでムバラク退陣を要求したら、エジプト国民の蜂起にもかかわらず、ムバラク大統領の運命が外国の手の中にあると明かしてしまうことになっただろう。逆に傍観を決め込んでいたなら、一方では民主化を支持しながら、他方では同盟関係にあるムバラク政権を支援するという、アメリカの偽善者ぶりを露呈させることになっていただろう。結局、アメリカの自制は、国民による運動であるというエジプト革命の最も大切な価値を守ることになった。
ムバラク政権の崩壊は、アメリカ外交のスケジュールには全く入っていなかったようで、「アラブの春」に不意打ちを受けたアメリカは、長らく同盟関係にある為政者への慎重な対応と民主化運動への支持の間で、数日、綱渡りのような状況にあった。今やアメリカは、今後のエジプト国内での動きや民衆運動の他の国々への拡大を必死になって推測しようとしている。
『ニューヨーク・タイムズ』が指摘しているように、アメリカはCIAをはじめ、ムバラク大統領退陣のリスクを過小評価していた。ベンアリ政権終焉の直後、ムバラク大統領が同じ道をたどる可能性は20%だと予想していた。民衆運動の広がりを最も確信していたのは、他でもないオバマ大統領だった。ムバラク大統領の政権返上に関しても、先手を打ったのはオバマ大統領だった。
また、『ワシントン・ポスト』によれば、ここ数日、アメリカはヨルダンやサウジアラビアの政権担当者とコンタクトを取っている。これらの国々は、景気停滞、若者の失業、潜在的な政権への不満などチュニジアやエジプトと似た状況にあり、いつ運動の導火線に火がつくか分からず、好戦的で反西欧の運動によって長年の同盟政権が自らを守るためにアメリカと距離を取ってしまう可能性が否定できない。
抵抗運動の側に立ったというアメリカの最終的な態度は、アラブの指導階級にとって大きな不満となった。サウジアラビアや他の国々はアメリカがムバラクを見捨てたと決めつけているようであり、それらの国々との関係修復が必要だと、ブッシュ政権で国家安全保障会議の中近東政策トップを務めたエリオット・アブラムズ(Elliott Abrams)は語っている。
専門家たちは、アメリカ外交の秘められた争点をよく心得ている。イスラエルをめぐる状況だ。イスラエルは、中近東において唯一自国に敵対しない稀な政権であったムバラク体制が崩壊するのを心配のまなざしで見つめていた。しかし、それでもエジプト革命からアメリカが学んだのは、ある種の謙虚さだ。アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』(Foreign Policy)が言うように、アメリカは結局決定的な役割を果たすことはなかった。国務省に勤めていたアーロン・デイビッド・ミラー記者(Aaron David Miller)は、アメリカはエジプト革命からあることを再認識すべきだと述べている。そのこととは、アメリカは名ばかりの役割を演じる羽目になることはないが、かといって世界をコントロールできるわけではなく、実際コントロールしてきてはいなかった、ということだ。
今後の動きに備えて、アメリカはかつて民衆運動によって政権が倒れた事例のケース・スタディを行っている。『ワシントン・ポスト』によると、特に大きな注意を払っているのが、1998年に、イスラム教徒が多数を占めるインドネシアで起きた民衆による民主化運動だ。この国で幼少期を過ごしたオバマ大統領にとっては、よく見知った国だ。このインドネシアのケースが、アメリカの今のような対応が続けば、イランのようなイスラム共和国が中近東の国々で誕生するのではないかと言う保守派からの批判に対する反論の根拠となる。
・・・ということで、「世界の保安官」とも言われるアメリカが、実は世界をコントロールしていたわけではない、という意見があるのですね。しかし、一方では、アメリカにより政権の座を追われた為政者たちが多くいるという意見もあります。命さえ奪われた権力者たちがアフリカや他の地域にいた、とも言われています。命までは奪われないにせよ、アメリカの巧みなリークや世論操作によって、政権の座から降りざるを得なかった政治家は、多くの国にいるという意見もあります。日本でもその犠牲者に違いないと言われる元首相も一人や二人ではありません。
しかし、アメリカから見ると、アメリカが世界をコントロールしてきたわけではない、という意見になる。それは、どこまで思い通りにできればコントロールしたと言えるのか、という程度問題になってしまうのかもしれません。また世界中を支配下に置かないと、世界をコントロールできたとは言えないのでしょうか。全世界ではないものの、かなりの地域を抑えていたようにも思えますが。
ただ、世界のいかなる動きにもコミットしようというアメリカの姿勢は変わらないのでしょうし、その意気込みがアメリカのダイナミズムの源泉になっているのかもしれません。そして、アメリカほど表立ってはいませんが、イギリスやフランスの情報収集力と、水面下での動きはしたたかです。
日本にとっては、アフリカや中近東での民衆運動や政権転覆は、遠い世界での出来事かもしれません。メディアはそれなりに報道していますが、政界からは状況を注意深く見守るといったコメントしか発せられません。しかし、原油価格の上昇や円高、株安などの影響を受けつつあります。国際化、グローバル化・・・世界はより狭く、より複雑に絡み合ってきています。傍観していていい出来事はないのかもしれません。
「アラブの春」と言えば思い出されるのが、「プラハの春」。1968年に起きた、チェコスロバキア(当時)での、共産党による共産党体制の改革運動。ドゥプチェク第一書記が陣頭に立ち、検閲の廃止など、自由を希求する国民の声に応える改革を行いましたが、結局ワルシャワ条約機構軍の軍事介入により、ひと夜の夢のように潰え去ってしまいました。
しかし、40年以上経って、舞台をアラブ諸国に移した「春」は、チュニジアからベンアリ前大統領を追いだし、エジプトではムバラク体制を倒し、リビアでもカダフィ大佐を窮地に追い込んでいます。「2011年の春」に世界の大国・アメリカはどのような対応をし、そこから何を学んでいるのか・・・14日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。
どう対応すべきか。このゲームは非常に難しい。あまりに有無を言わせぬ方法で、あるいは早すぎるタイミングでムバラク退陣を要求したら、エジプト国民の蜂起にもかかわらず、ムバラク大統領の運命が外国の手の中にあると明かしてしまうことになっただろう。逆に傍観を決め込んでいたなら、一方では民主化を支持しながら、他方では同盟関係にあるムバラク政権を支援するという、アメリカの偽善者ぶりを露呈させることになっていただろう。結局、アメリカの自制は、国民による運動であるというエジプト革命の最も大切な価値を守ることになった。
ムバラク政権の崩壊は、アメリカ外交のスケジュールには全く入っていなかったようで、「アラブの春」に不意打ちを受けたアメリカは、長らく同盟関係にある為政者への慎重な対応と民主化運動への支持の間で、数日、綱渡りのような状況にあった。今やアメリカは、今後のエジプト国内での動きや民衆運動の他の国々への拡大を必死になって推測しようとしている。
『ニューヨーク・タイムズ』が指摘しているように、アメリカはCIAをはじめ、ムバラク大統領退陣のリスクを過小評価していた。ベンアリ政権終焉の直後、ムバラク大統領が同じ道をたどる可能性は20%だと予想していた。民衆運動の広がりを最も確信していたのは、他でもないオバマ大統領だった。ムバラク大統領の政権返上に関しても、先手を打ったのはオバマ大統領だった。
また、『ワシントン・ポスト』によれば、ここ数日、アメリカはヨルダンやサウジアラビアの政権担当者とコンタクトを取っている。これらの国々は、景気停滞、若者の失業、潜在的な政権への不満などチュニジアやエジプトと似た状況にあり、いつ運動の導火線に火がつくか分からず、好戦的で反西欧の運動によって長年の同盟政権が自らを守るためにアメリカと距離を取ってしまう可能性が否定できない。
抵抗運動の側に立ったというアメリカの最終的な態度は、アラブの指導階級にとって大きな不満となった。サウジアラビアや他の国々はアメリカがムバラクを見捨てたと決めつけているようであり、それらの国々との関係修復が必要だと、ブッシュ政権で国家安全保障会議の中近東政策トップを務めたエリオット・アブラムズ(Elliott Abrams)は語っている。
専門家たちは、アメリカ外交の秘められた争点をよく心得ている。イスラエルをめぐる状況だ。イスラエルは、中近東において唯一自国に敵対しない稀な政権であったムバラク体制が崩壊するのを心配のまなざしで見つめていた。しかし、それでもエジプト革命からアメリカが学んだのは、ある種の謙虚さだ。アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』(Foreign Policy)が言うように、アメリカは結局決定的な役割を果たすことはなかった。国務省に勤めていたアーロン・デイビッド・ミラー記者(Aaron David Miller)は、アメリカはエジプト革命からあることを再認識すべきだと述べている。そのこととは、アメリカは名ばかりの役割を演じる羽目になることはないが、かといって世界をコントロールできるわけではなく、実際コントロールしてきてはいなかった、ということだ。
今後の動きに備えて、アメリカはかつて民衆運動によって政権が倒れた事例のケース・スタディを行っている。『ワシントン・ポスト』によると、特に大きな注意を払っているのが、1998年に、イスラム教徒が多数を占めるインドネシアで起きた民衆による民主化運動だ。この国で幼少期を過ごしたオバマ大統領にとっては、よく見知った国だ。このインドネシアのケースが、アメリカの今のような対応が続けば、イランのようなイスラム共和国が中近東の国々で誕生するのではないかと言う保守派からの批判に対する反論の根拠となる。
・・・ということで、「世界の保安官」とも言われるアメリカが、実は世界をコントロールしていたわけではない、という意見があるのですね。しかし、一方では、アメリカにより政権の座を追われた為政者たちが多くいるという意見もあります。命さえ奪われた権力者たちがアフリカや他の地域にいた、とも言われています。命までは奪われないにせよ、アメリカの巧みなリークや世論操作によって、政権の座から降りざるを得なかった政治家は、多くの国にいるという意見もあります。日本でもその犠牲者に違いないと言われる元首相も一人や二人ではありません。
しかし、アメリカから見ると、アメリカが世界をコントロールしてきたわけではない、という意見になる。それは、どこまで思い通りにできればコントロールしたと言えるのか、という程度問題になってしまうのかもしれません。また世界中を支配下に置かないと、世界をコントロールできたとは言えないのでしょうか。全世界ではないものの、かなりの地域を抑えていたようにも思えますが。
ただ、世界のいかなる動きにもコミットしようというアメリカの姿勢は変わらないのでしょうし、その意気込みがアメリカのダイナミズムの源泉になっているのかもしれません。そして、アメリカほど表立ってはいませんが、イギリスやフランスの情報収集力と、水面下での動きはしたたかです。
日本にとっては、アフリカや中近東での民衆運動や政権転覆は、遠い世界での出来事かもしれません。メディアはそれなりに報道していますが、政界からは状況を注意深く見守るといったコメントしか発せられません。しかし、原油価格の上昇や円高、株安などの影響を受けつつあります。国際化、グローバル化・・・世界はより狭く、より複雑に絡み合ってきています。傍観していていい出来事はないのかもしれません。