ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

緩和医療と尊厳死に関する、フィヨン首相からの手紙。

2011-02-04 21:13:38 | 政治
フィヨン首相からの寄稿文が、1月24日の『ル・モンド』(電子版)に掲載されていました。テーマは、緩和ケアと尊厳死。重いテーマですが、どう語っているのでしょうか・・・

個人的には、回復の見込みがなく、ただ耐え難い苦しみの中にいる、そうした親しい人の終末期ケアの現場に立ち会ったことはないのだが、息子の死ぬ権利を求めたマリー・アンベール(Marie Humbert)の苦悩に大きな衝撃を受けたことを思い出す(若き消防士Vincent Humbertは2000年9月、交通事故により、視覚障害・聴覚障害・四肢麻痺に。しかし、意識は正常で、その苦痛から脱するためにシラク大統領に尊厳死を求める書簡を送りました。そうした息子の願いを、2003年9月、ついに母であるマリーは医師の協力の下、叶えてあげました。しかし、尊厳死は違法・・・この事件が、フランスにおける緩和医療、尊厳死をめぐる大きな議論のスタートになりました)。

苦しむ家族を看取った人々が、苦しみを終わらせるために人生を短くすることがあってもよいのではないかと自問することは十分に理解できる。しかし、問題は、尊厳死の権利を法律で認めることをフランス社会が受け入れるかどうかだ。私は、この一線を越えてはいけないと思っている。しかし、議論の中では、どのような信念も排除されるべきでないことは理解している。

数年前、緩和医療と苦しみに対する取り組みに関して熱心な議論が行われたが、今日では、今までの取り組みの成果も踏まえての議論が行われるべきだ。

2008年6月、サルコジ大統領は、終末期ケアへの取り組みを最優先課題とした。この決断により、緩和医療の第一人者、オーブリー医師(Régis Aubry)を長とする緩和医療発展プログラムが始められた。オーブリー博士は2008年以降の4年間で、終末期ケアの患者数が10万人から20万人に増加し、緩和医療の病床1,200がさらに必要になると予想した。政府も、2008年12月に出された終末期ケアに関するレオネッティ(Jean Leonetti)の報告書にある助言を受け入れることを約束した(与党の下院議員であるとともに観光地としても名高いAntibes:アンチーブの市長を務めるJean Leonettiは、2004年秋からMission parlementaire sur l’accompanement de la fin de vie:終末期ケアに関する議会委員会をリードし、2005年には、La Loi relative aux droits des malades et à la fin de vie:患者の権利と終末期に関する法律を成立させています)。

上記の約束を、政府はしっかりと守っている。その例を二つ、紹介したい。

まず、医師の職業倫理規定を修正した。終末期ケアの中止を決める集団合議制の手続き、苦痛に耐えられない患者への緩和鎮痛剤の投与を行う手順を明確にするためである。

また、終末期ケアを受ける患者に付き添う家族への手当を、2010年3月2日の法律で制定した。一日53ユーロ(約6,000円)、最長21日まで支給されるこの手当は、家族連帯休暇を取得しているサラリーマンや一時的にパート勤務に移行した勤労者にも適応される。

こうした例からも明らかなように、私たちの基本的考えは、緩和医療を発展させること、どこまでも治療を続けるという態度を拒むこと、ということである。ただし、こうした考えは、緩和医療と看取りの権利を認めた、ジョスパン内閣が成立させた1999年6月9日の法律の流れをくむものであることを認めないわけにはいかない(ジョスパン内閣は、現在の野党、社会党政権です)。

尊厳死に関する法案を上院の社会委員会で採決するのを機に、尊厳死を法律で認めることに関する国民的議論が湧きあがって来ている。上院はこの件について、来週採決することになっている。その前に、誤解を解いておこう。「死ぬための積極的な手助け」、「死ぬための医療支援」・・・こうした声の背後にあるのは、尊厳死の問題だ。つまり、人の人生を終わらせる行為に関する問題であり、その結果はその行為に関わった一人一人が背負うことになる問題だ。

上院で採決されることになっている法案には、必要とされる保証が含まれていない。人生の終末をどう定義するのか、手続きをどうするのかといったことについて、曖昧な点が多く、法的に不備な点となっている。尊厳死の実施に関しても、明確でない条件が多い。法案は、医師の診断に関しても、家族からの情報に関しても明確な義務規則を整備していない。

なかんずく、この制度が危険なものだと思われるのは、法案では、尊厳死は委員会の経験のみに基づいて実施されるとなっている点だ。こうした仕組みでは、地域やその他の条件により、不均衡が生じるからだ。人生の終末を迎えている本人のみならず、その治療を担当する人にとっても危険なものとなる可能性がある。医師たちが誤った尊厳死を行ったとしてその責任を問われる可能性すらある。従って、全国医師会は、この法案に反対を表明している。

こうした大きなリスクに直面し、政府は責任を発揮すべきである。生きたいという生への希求、あるいは死を選びたいという意思、こうした人生の本質に関わるような問題に関しては、いかなる議論も排除されるべきではない。それは、生死にかかわる議論はまさに最も高貴な意味における「政治」にとって本質的な議論であるからだ。個人的には、死に至る積極的手助けを法律で容認することには反対だ。人間の生への尊厳、私たちの社会を創っている価値の尊重という自分の考えに反するからだ。しかし、終末期ケアにおける苦痛がどれほどのものであるのか、簡単に片づけられるようなものではないことは理解しているつもりだ。賛成、反対の両陣営で、非難し合ったり、タブーや困難な点で委縮すべきではない。お互いの意見に真摯に耳を傾け、誠実に議論を積み重ねていくべき問題だ。しかし厳に慎むべきことが一つある、それは、急いではいけないということだ。

我々は全力でこの問題に取り組むべきだ。国立終末研究センター(l’Observatoire national de la fin de vie)が2010年2月に設立されたが、死の認定とそれに関わる医療行為に関する認識を広めることを目的としている。この研究センターの仕事は、安楽死が認められている諸外国の事例から学ぶことが多い。注意深く分析すべきことが必要だが、たとえば、ベルギーでは安楽死が2002年の24件から2009年には822件に増えている。ベルギーで実施されている安楽死に関する法律よりも曖昧な部分が多い法案をフランスで採択する際には、各人がその結果が引き起こすリスクを推し量るべきである。

病人の権利と終末期に関する2005年4月22日の法律が、終末期の状況に適応した答えを導き出す大枠となりうる。この法律は、治療行為をどこまでも継続すべきという頑迷さを禁じ、また治療や緩和鎮痛剤の使用の停止、あるいは制限を認めている。この法律はまた、患者に延命治療の停止あるいは制限を求める権利を認めている。患者が意識不明の場合は、信頼のおける人物、あるいは家族、近親者の前で、患者自身が事前に表明したそうした意志に基く。

急いで法制化するよりも、本質的な問題を軽率に、深く顧みることもなく決めてしまうよりも、フランスおける緩和医療を強化し、その発展プログラムを綿密に行い、終末期ケアに関する議論を深めるべきだ。こうした議論は、この先、国立終末研究センターで行われることになっている。こうした議論を通して、終末に関する有意義で難しい議論に答えを出すことになる。

・・・ということなのですが、英米では戦後すでに、こうした終末期ケアや尊厳死に対しての議論を始めていました。フランスではカトリックであることも影響したのか、その対応は遅くなりましたが、それでもここ20年ほどで大きく進展しました。一方、われらが日本では、ときどき尊厳死についての問題提起がなされますが、国民的議論までにはなっていません。

フィヨン首相と同じく、苦しみに満ちた終末期ケアに立ち会った経験がないため、実体が正確には分からないのですが、日本では法制化されるまでもなく、患者、家族、医療従事者の間で、それこそ「あうん」の呼吸で尊厳死が行われているのでしょうか。

しかし、医療従事者や看取った家族が責任を問われずに済むよう、しっかりとした法制度が必要なのではとも思うのですが、そこは生死に関わる問題、倫理に関わる問題ですから、まさに慎重に国民的議論を行う必要があるのでしょうね。しかも、それぞれの国でその歴史、倫理観、価値観などが異なるわけですから、どこかほかの国と全く同じようにすればそれで済むという問題でもないのでしょう。それぞれのやり方があってしかるべきとも思います。

個人的には、個人の意思をあくまで尊重すべきだと思います。尊厳死を求める意思が以前に表明されていれば、それを尊重すべきだと思います。脳梗塞等、突然の意識障害に備えて、さっそく、尊厳死を求める文書を作成しようと思います。直筆でないといけないのかどうか分かりませんが、とりあえず、サインだけ直筆のものを。そして、直葬、自然葬のお願いも。人生の最終章、自分の望むピリオドを打ちたいと思っています、我がままと思われるかもしれませんが。