水野代官所(陣屋)跡
愛知県瀬戸市上水野町鳥林 Visit :2005-09-26 13:00
尾張九代藩主 徳川宗睦の時代に、藩政の大改革があり、藩内に大代官を置き、その出先機関として各地方に
所附代官所十箇所を設け、各地の庶政を司った。
所附代官所は、天明元年(1781)五月、まず最初に中水野村鳥林に水野代官所が設置された。所轄は、愛知、
春日井の一部と美濃の一部に跨り、百九か村 六万一千三百五十七石余を管理し、徴税事務、申請事務、司法
事務などの全般処理を行った。つまり今日における市役所・税務署・警察署の仕事を一手に扱う強い権力を握っ
ていたことになる。
他の所附代官所は、鳴海、北方、佐屋、上有知、横須賀、鵜多須、太田、小牧、清洲の九箇所に設置された。
代官所は別称「陣屋」ともいい、役所の組織は、代官一名の下に、補佐役の手代が四名、その属官の同心八人
が主となり、管下の各所に配置する番人若干名によって、村々の動勢連絡、治安状況報告、犯人検挙に当たらせた。
初代代官には、第六代御林方奉行水野権平正恭が、奉行を兼摂し就任した。このことから、水野氏が当地で権勢
を振るっており、藩としても無視できず、当地に代官所を設置し代官に起用したことで、当時の強大な支配力が伺える。
しかしながら、代官は世襲制の御林方奉行とは異なり、その後、水野一族からは第三代に水野平右ヱ門、第十三
代に水野竹太郎が就任するに留まったが、別表のように代官職は維新まで十九代続いた。
陣屋構内には、司所、吟味所、道場、管宅、倉庫、火薬庫、牢屋などの建物および藩士の子弟を教育する尾張藩の
学府明倫堂の分校「興譲館」という学校も設けられ、配下の武士が日を定めて出仕し、道場に集まって訓練を受けたり、
少青年が論語や孟子を素読する声が聞こえたり、付近には、遠来者のための合宿所もあって、商人達の出入りで賑
わったとある。
山の中でも水野は城下
地方山方両役所
と謳われ、水野はこの代官所と御林方奉行の両所が設置されたことで、尾張藩の地方に在っても、さながら文化の中
心的存在であったことが伺われる。これらの存在は水野村民の気風に大きな影響を与え、優雅穏健で茶事・築庭を好
み、和歌俳諧に親しむ風流人も現れ、どことなく上品な感じのみえる「水野ことば」が話されていたと伝わる。
☆旅硯青鷺日記
代官所跡の碑は、現在水野小学校正門前にあり、正門を入ったところに、天保十二年(1841)時点の水野村図が、
“ せともの ”の町に相応しく陶板六枚を繋いで再現されており、当小学校の三年生が社会科の授業に利用していると
聞かれた。また代官所跡の碑が在る場所は、『水野代官所之図』に書かれている「官舎」辺りに建てられており、現代
地図の赤い矢印の箇所に相当する。
水野代官所代官名:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/efb1b15689a494a7eefe5cbc09ec95d8
水野代官所(陣屋)発給文書:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/f671cf8003e4b89bdbddebe5e9a5a485
桓武平氏水野系図:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/777ff67bab506fc94b32ecf3b04681f4
赤い矢印の先が「水野代官所跡」碑設置場所であり、『水野代官所之図』の官舎付近に当たる。
祖父も同じように探していたようで、「水野忠邦に仕えていた」と幼い時に聞いた記憶だけが残っています。
久々に家系図を借り足跡を辿ると、肥前唐津~江府西ノ久保~山形にお墓がある事が判りました。
水野家にずっと仕えていたような足取りでした。
そんな中でこちらのblogに行き着きました。
沢山の資料があり、とても楽しく嬉しくなりました。
これからもまたお邪魔します。
ちなみに私の苗字は"牧野"です。
このブログを立ち上げてから、久しく
蓮さんのような同好の志を心待ちにしていました。
ようやく、仲間が見つかったので、こちらこそとっても嬉しく思っています。
水野忠邦は、水野氏の代名詞とも云うべく最も有名な人物ですよね。
ところで、「江府西ノ久保」という所はどこにあるのでしょうか。これからの参考になりますので、どうか教えてください。
牧野氏はどこかの資料にあったように思いますが、今は思い出せません。探してみます。
ということで、先ずは歓迎のご挨拶まで。
"江府西ノ久保"、私も探しているのですが全くつかめません。
"江府"は鳥取にあり、"西ノ久保"だと東京の阿佐ヶ谷南でした。
お寺名で探すと広島・宮崎・金沢・世田谷にはあるのですが。。。
初めてこの"江府"という字を見た時に"江戸幕府"を省略したのかと思った位で、てっきり江戸にあるものだと思ったのですが。。。
ちなみに弘化2年に没しているようなので、ちょうど忠精が出羽山形に行った時期だと思います。
その途中で亡くなったのかとも思ったのですが、検討がつきません。
亡くなった日(?)は、"弘化二乙巳 正月 八三年 卒行"と書かれていました。
牧野氏は、やはり由緒あるお家柄で、水野家同様、徳川家に仕えていたようですね。元々は愛知県の三河南部の城主でいらしたようです。
"江府西ノ久保"の江府は、遠江(浜松)か、江戸でしょうね。この場合は、江戸で、旧地名:東京都港区西久保または芝西久保あたりで、現在の虎ノ門の辺りだと推測できます。わたしもこれから調べていきますが、老中水野忠邦の上屋敷の近くの菩提寺ではないかと思われますが、今のところ特定できません。
こんな頼りないことで、申し訳ありません。
マイ・ブログに書きましたように、忠邦の墓所は結城市の萬松寺にあります。
牧野家のお墓が、肥前唐津~江府西ノ久保~山形にあるとすると、藩主忠邦の赴任先に墓を設けたと考えられますよね。これから、ゆっくりと調べていきましょうね。
近いうちに一度そのお寺へ行って、過去帳があったら調べさせていただこうと思います。
もしそのお寺でしたらまたご報告させていただきます
牧野さんのお住まいは東京周辺のようですけど、
今月30日(日)まで、下記の通り展覧会が催されています。
豊橋市制100周年記念
吉田城築城500年展
吉田城と城下町
10/1〈土〉-10/30〈日〉
愛知県豊橋市美術博物館
〒440-0801 愛知県豊橋市今橋町3-1
TEL (0532)51-2882 FAX (0532)56-2123
この城は、1050年、三河国宝飯郡周辺を支配していた“牧野氏一族である牧野古白”によって築城されたといわれています。つまり牧野さんのルーツですよね。
もし、お近くでしたらご覧に成られたらいかがでしょうか。
蓮さんの、豊川、∞ヘロンの瀬戸と両方ともに愛知県にありました。
先のコメントでは、西久保は虎ノ門付近と書きましたが、水野忠邦は、老中を勤めた間の弘化元年(1844)2月22日から翌2年6月6日までの間、大名小路に上屋敷を拝領し、以後は麻布市兵衛町内(現在の東京都港区六本木1 泉ガーデンあたり)にに移ったもようですので、かなり近い距離にあったようです。
本当に感謝してもし尽くせません。
ちゃんと確認してからとも思いましたが、(家系図で)二代目のお墓が虎ノ門のそのお寺にあり、オランダ大使館の近く、、、とだけお伝えします。
資料を読むと、二代目のみが眠っているお墓のようですので、今すぐにでも手を合わせに行きたい気持ちです。
"牧野古白"という名前は初めて聞きました。
また新しい世界が広がってきましたが、まずは一つずつ確かめないとですね