∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

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 ご質問やお問い合わせのコメントをいただいた場合、その時点で管理者が解る範囲でお応えしておりますが、その後かなり日数を経て、それに関する史料の所在が判ったり、またブロガーのみなさんからご教示いただき、その内容が判明する事が多々ありました。その場合ご質問者のご連絡先が判っておりますと直ぐにご報告できるのですが、過去には連絡不可能で残念ながら折角判明した内容をお伝えすることが出来無いケースもありました。こういったことを回避する為、「ご質問・お問い合わせのコメント」については、本ブログの「コメント欄」ではなく、本ブログ用「掲示板」にメールアドレスを記載し(非公開)投稿されることをお勧めいたします。尚、「コメント欄」には、ご住所、電話番号、メールアドレスなどの個人情報は書き込まれないようお願いいたします。管理者へのメールは、サイドバー・ブックマークの「 [\/] ∞ヘロンへメール」からご送信下さい。

B-1 >洪山 清涼禅寺

2006-04-26 00:10:04 | B-1 >水野太郎左衛門系
◎第六代水野太郎左衛門政良作 清洲時鐘――  正徳二年(1712)に鋳造された鐘で、当時の清洲宿の時報の鐘として時が告げられていたが、いつの頃からか、鳴らずの鐘となり、特別な行事がない限り鳴らすことはない。また、この鐘は第二次大戦の供出を免れ、県内で寺鐘として現存する唯一の鐘*である。(当寺リーフレットより) . . . 本文を読む

B-1 >高須別院

2005-06-24 18:52:45 | B-1 >水野太郎左衛門系
宝永二年(1705) 第六代水野太郎左衛門政良作 時鐘  高須藩は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、幾たびか改易、廃藩を繰り返してきたが、元禄13年(1700)、信濃国伊奈郡・高井郡・水内郡内に三万石の所領を得ていた尾張藩二代藩主徳川光友二男の松平義行(1656-1715)は、所領の半分である一万五千石を高井郡・水内郡の領地と、美濃国石津郡・海西郡内の領地とに交換された。よって高須に居所を定め、再度、高須藩が成立し松平義行が初代高須藩主となった。 . . . 本文を読む

B-1 >宝亀山 蔵福寺

2005-06-02 13:22:20 | B-1 >水野太郎左衛門系
蔵福寺は、浄土宗西山禅林寺派で、山号は宝亀山と号し、延宝四年(1676)尾張藩主光友の命により第五代水野太郎左衛門政長作の熱田時鐘(径87.5 高152.0 、鋳銅製)を設けた。鐘楼が消失したことで、現在は当寺の南端、木下の地面に直に置かれ、駒の爪(『梵鐘名所』の記事参照)が半分ほど埋もれ、哀れにも野ざらしとなっている。戦災により大半の梵鐘・喚鐘などが供出され、現存するものが僅少となっている現状においては、こういった貴重な資料をなんとか大切に保存できないものかと心が痛んだ。 . . . 本文を読む

B-1 >真宗大谷派 名古屋別院

2005-06-02 11:00:11 | B-1 >水野太郎左衛門系
「真宗大谷派名古屋別院(東別院)は、元禄3年(1690)尾張の地に本願念仏のみ教えを伝える道場として、一如 上人(東本願寺第16代)によって開かれた真宗大谷派の寺院です。当時の尾張藩主、徳川光友公より織田信 長の父信秀の居城「古渡城」の跡地1万坪の寄進を受けて建てられました。以来、約300年にわたり、名古屋別 院は尾張の人々の信仰を仰ぎ、広く「御坊さん」の名で呼び親しまれています。……」 . . . 本文を読む