∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >來聖山 普光寺

2006-04-26 00:56:57 | B-1 >水野太郎左衛門系


來聖山 普光寺

  愛知県海部郡甚目寺町大字新居屋字久渕郷54(*)   Visit :2006-04-17 13:30


◎宝永二年(1705)(*1) 第六代水野太郎左衛門政長作 梵鐘
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   銘 曰
神 器  越  欽 欽 康 荘
蛟 飛 雲 閣  雉 應 山 梁
夕 [①] 敲 月  [②] 調 [③] 霜
[④][⑤] 維 樅  徳 音 [⑥] 疆
   天 野 信 景(*2) 謹 記
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寶永二 乙酉 年 (1705)
神主正六位守式少輔平圓
    鑄匠 水野太郎左衛門藤原政良
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尾 州 一 宮 正 一 位 眞 清
田 太 社 之 懸  者 盖 文
明 辛 丑 所 鑄 而 既 經 二
□ □ 餘 稔[⑦]韻 殆 爲 裾
□ □ 此 寶 永 甲 申 之 冬(*1)
□ □ 鳩 金 鎔 鑄 新 鐘 架
□ □ 上 再 頌 生 一 紀 三
□……

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[銘文注]
①=木偏に“大”の下に“十”
②=目偏に“尭”の旁
③=“含”の“今”が“令”
④=“慮”の下部“思”が“冖”+“一”+“ハ”
⑤=“黹”の下部が“耒”
⑥=“魚”の“田”が“典”の上部が突き抜けない
⑦=“比”に“攵”の旁


 当寺ご住職談によれば、当山は元は天台宗であったが、永正年間(1504--1521)に、浄土真宗に改宗したと伝えられている。文化二年(1805)、仏教的要素の払拭などが行われた際、愛知県一宮市の真清田神社から、当寺が分離され現在地に移され梵鐘もまた同時に移されたと聞かれる。梵鐘の銘については、当時衆望を得ていた尾張藩の国学者天野信景に銘文を依頼したものの、長らく承諾は得られず渋っていたが、漸く不承不承ながらも銘文を書いて貰い、鋳造にこぎ着けたと伝えられている。この様な顛末があり、第二次世界大戦において、この銘文が功を奏し貴重な梵鐘と認められたことで、供出は免れたと云われる。

[註]
*1=かつて、名古屋市博物館で開かれた部門展『 尾張の鋳物師』の資料(昭和58年3月5日発行)によれば、当梵鐘の製造年を「宝永二年(1705)」としているが、「池の間」の銘文によれば、上記のごとく「寶永甲申之冬=寶永元年(1704)」(きのえさる年は元年)に改鋳されたと陰刻されている。
*2=「あまのさだかげ」随筆『塩尻』で知られる尾張藩を代表する江戸中期の国学者。通称は治部・残翁、字は子顕、剃髪して信阿弥、白華翁。渡会氏に師事、国典に通ずる。享保十八年(1733)七十一歳没。
(*)平成二十二年(2010)3月22日、七宝町、美和町、甚目寺町が合併し「あま市」となる。
  愛知県あま市甚目寺新居屋久渕郷54

☆旅硯青鷺日記
 参詣した折、ご住職と坊守様が境内の庭木などの手入れを仲良くなさっていた。お二人ともに気さくにご対応いただき、梵鐘を囲んで由緒についてのお話を伺うことができました。梵鐘の由緒書き銘文を何枚も撮影しましたが、
撮影ミスでどのスナップも一部上部が切れてしまっており、文字の判読はできなかったことから、残念ながら空白としました。
 当寺では、毎夕六時に梵鐘を鳴らすとのことで、その響きを聴きにまた訪れた折に再取材したいと思っています。


水野太郎左衛門系譜 http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06








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