桜天神社 時分鐘
愛知県名古屋市中区錦2-4-6 Visit :2005-05-10 14:30
桜天神社の立て札には、――
「時分鐘 万治四年(1661)三月藩命によりここに鐘楼を造り昼夜十二時に鐘をついて時を知らせた。鐘は鍋屋町水野太郎左衛門藤原則重の作であった。然し宝暦十三年(1763)十月二十六日の火災で焼失した。翌明和元年(1764)藤原孝政作鐘を新調し時を知らせた。この鐘は特に音色がよく名古屋城下に鳴り響いたが明治六年(1873)廃止された。」
とある。
また、水野太郎左衛門家資料によると、藩御用の鐘鋳造に際し、立ち入りを禁じた制札が現存している――
「御用鐘鋳候内
無用之者一切
不可入候事
申十一月 」
とある。
しかしながら、水野太郎左衛門家系譜によれば、第四代水野太郎左衛門則重は、寛永十三年(1636) に没となっており、同年に第五代水野太郎左衛門政長が相続し、宝永二年(1705) に没している。この系譜を正しいものとすると、天神社の立て札の「則重」は、「政長」の錯誤ではなかろうかと思われる。なぜならその他の年号と、藤原孝政=第八代水野太郎左衛門孝政は、元文三年(1738) 相続、明和元年(1765) 没で符合し、再鋳の時鐘は、孝政の最晩年の作とわかる。
時鐘の寸法については判明しないが、半鐘程度の大きさとみられた。
水野太郎左衛門家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06
愛知県名古屋市中区錦2-4-6 Visit :2005-05-10 14:30
桜天神社の立て札には、――
「時分鐘 万治四年(1661)三月藩命によりここに鐘楼を造り昼夜十二時に鐘をついて時を知らせた。鐘は鍋屋町水野太郎左衛門藤原則重の作であった。然し宝暦十三年(1763)十月二十六日の火災で焼失した。翌明和元年(1764)藤原孝政作鐘を新調し時を知らせた。この鐘は特に音色がよく名古屋城下に鳴り響いたが明治六年(1873)廃止された。」
とある。
また、水野太郎左衛門家資料によると、藩御用の鐘鋳造に際し、立ち入りを禁じた制札が現存している――
「御用鐘鋳候内
無用之者一切
不可入候事
申十一月 」
とある。
しかしながら、水野太郎左衛門家系譜によれば、第四代水野太郎左衛門則重は、寛永十三年(1636) に没となっており、同年に第五代水野太郎左衛門政長が相続し、宝永二年(1705) に没している。この系譜を正しいものとすると、天神社の立て札の「則重」は、「政長」の錯誤ではなかろうかと思われる。なぜならその他の年号と、藤原孝政=第八代水野太郎左衛門孝政は、元文三年(1738) 相続、明和元年(1765) 没で符合し、再鋳の時鐘は、孝政の最晩年の作とわかる。
時鐘の寸法については判明しないが、半鐘程度の大きさとみられた。
水野太郎左衛門家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06