∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >高須別院

2005-06-24 18:52:45 | B-1 >水野太郎左衛門系
高須別院
    岐阜県海津市海津町高須町932  Visit :2005-06-18 10:15
      瑞応院(元) 岐阜県海津市海津町高須219
         宝永二年(1705) 第六代水野太郎左衛門政良作 時鐘

 高須藩は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、幾たびか改易、廃藩を繰り返してきたが、元禄13年(1700)、信濃国伊奈郡・高井郡・水内郡内に三万石の所領を得ていた尾張藩二代藩主徳川光友二男の松平義行(1656-1715)は、所領の半分である一万五千石を高井郡・水内郡の領地と、美濃国石津郡・海西郡内の領地とに交換された。よって高須に居所を定め、再度、高須藩が成立し松平義行が初代高須藩主となった。
寛永二年(1705)藩主義行公は、尾張藩鋳物師頭である、六代目水野太郎左衛門政良(1644-1725)に命じ、梵鐘を鋳造させ、海津町高須の瑞応院に時の鐘を設けた。この時の鐘は明治維新後に瑞応院から高須別院に移されたと聞かれる。なお、この時鐘については『部門展 尾張の鋳物師』(発行 名古屋市博物館)には何故か掲載されていない。

以下に、海津町歴史民俗資料館から頂いた地元郷土史研究家による、梵鐘「池の間」に陰刻されている由緒書の資料を転載する。文中の□の部分は、ワープロでは使用できない文字のためやむなく空白とした。

   濃州高洲「分時」鐘銘并叙 
右之聲音之□與政通矣夫挈壺之
定辰刻典鐘之掌更點皆所以示勤
政授人時也今茲乙酉之夏
明府君左近衛少将源義行因舊章
出新命令有司撰萃鐘懸諸随應精
舎而報晨昏警子午於是官吏謹乎
進退之□農夫及乎耕□之時工商
亦得是各□治生利養之業於乎繼
絶與□之義擧可謂盛矣恭奉
□命叙而銘之

[釈文]
右の鐘の音は一般民衆に貢献するものであり
きまった定めをなすものである。
辰の刻(午前八時)には鐘の係が之を行ひ、
更にあらゆる所に規律を示すものであり
民衆に時を知らせるものである。
ここに今年乙酉(宝永二年)の夏
明君「左近衛少将」源義行が規則によって
新しい指示をなし 担当役人が特に優れた鐘をえらび
お寺に懸け、朝と夕方の時を報じ、正午には官史に
警告して出退の時を誤らないようにし、
農夫には失敗のないように耕作を守り
亦一般の工商に携わる人には、これによって(時を知らせる鐘声)
生活を律し生活を養う利益を得る事が出来
依って仕事を継続したり、やめたりする
この様な義挙(正義のために起こす企てや行動をなすもの)を
なすものと云ふべきである。
盛なるかな命を奉じて序言(前書き)を述べ之を記す。

 
  銘曰
 大器爲徳 振古稱之
 獨孤□藻 謫山係詞
 □□改観 新鐘脱□
 無怙□韻 絶銅□疵
 維文維武 茲錫茲思
 徽音其永 流芳萬斯
  寶永二祀乙酉夏五月良日
  尾陽小出巌真 謹撰
  鑄匠 尾州城下
     水野太郎左衛門政良

[釈文]
大器は徳をなすと 昔から称している
孤高の士や勝れた人々が言っている
昔からのしきたりを改めて観れば 
今度の新しい鐘は従来のしきたりから脱しているが
この鐘の響きには憂いの響きはない
この鐘には疵(きず)がない
文武の道を維持せんと ここに賜り これを思ふに
美しい音色は長く長く続き
あらゆるものに良き香りを放つことであらう


水野太郎左衛門家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06


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