∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

B-1 >大雄山 性高院(2)

2005-09-14 18:40:29 | B-1 >水野太郎左衛門系
大雄山 性高院(しょうこういん) (2)


 前に記事を投稿した明くる日、性高院のご住職から『本堂落成記念の絵はがき』8枚セットが、「宜しければ
 お使い下さい 合掌」と記された書面とともに送られてきました。
 名古屋市博物館で私が撮影した、梵鐘の写真をお送りしたところ、余りの写りの悪さに哀れと思し召されて、
お贈りいただいたものと思われます。
ご住職のご厚情に深く、深く感謝し、あまりの嬉しさから、そのうちの4枚を別掲載しました。



§性高院の由来 (当山『本堂落成記念絵はがき』の説明文から)

 由来、開基松平忠吉(性高院殿憲塋玄白大居士)は、徳川家康の四男で、天正十七年(1589)その母、宝台院
(三河西郷出身、同年五月十九日寂)の菩提追弔のため、武蔵の国埼玉郡忍庄(おしのしょう)に一宇を建立
「大雄山正覚寺」と号した。
 忠吉は一歳の時、東条松平家忠の嗣となった。後に、文禄元年(1592)忍城主(*1)となり従五位下下野守に任
ぜられた。東海路の総大将として井伊直政、本多忠勝を軍監(*2)に攻め登った関ヶ原の戦の功により、慶長五年
(1600)十月清洲(*3)五十七万石城主となった。同月家康の名代として、京都伏見にて忠吉公の掟書(*4)を発給
している。
当寺も同八年清洲外町に移転した。
 同十二年(1607)三月五日、忠吉は参勤の途江戸にて病死、増上寺に葬られ、翌十三年(1608)二月十日、将軍
秀忠(忠吉の同母兄)は当寺に制札(*5)を賜った。同十五年(1610)清洲城遷府に伴い、当寺は、中区大須門前町
(名古屋市中区)に移り、改葬(*6)により、寺号を「性高院」と改めた。忠吉には子が無く、家康の第九子義直が後
継となり、初代名古屋城主となった。以降、当寺は同家一族の菩提寺となって十数基の位牌が納められるととも
に、寛政七年(1795)十一月二十五日、性高院殿廟宇(*7)が建立され、同八年(1796)二月二十九日影像(*8)と位
牌が遷座された。
 寛永十三年(1636)より朝鮮から使節が度々来朝し、当寺は正使の休泊所となった。昭和十八年(1943)軍用道路
計画で現在地に移転したが、同二十年(1945)戦災により堂宇を焼失した。誠に残念ながら数点の宝物しか残らな
かった。平成6年(1994)本尊阿弥陀三尊佛を美術院(*9)にて完璧に修復した。同十一年(1999)七月、忠吉公所用
懸盤(*10)、尾張徳川家二代光友公側室松寿院様(宝永二年1705寂)所用狭箱(*11)等十数点を修理(室瀬和美氏)
した。同年境内地が名古屋高速道路に抵触(*12)するを機にビル8階に本堂を再建した。

[註]
*1=埼玉県行田市忍
*2=軍事の監督をする職
*3=愛知県清須市
*4=(おきてがき)=中世後期から盛んになった公布法の一形式。初めに「掟」「定」などと書かれた。在地領主・
土豪などが用いた。
*5= 一般に知らせる禁止事項や伝達事項を書いて、路傍などに立てておく札。たてふだ。
*6=一度葬った遺体や遺骨を、他の場所に葬り直すこと。
*7=先祖や偉人の霊をまつる建物。たまや。廟。
*8=絵や彫刻に表した、人や神仏の姿。えすがた。肖像。ようぞう。
*9=財団法人美術院(京都)
*10=(かけばん)=食器を載せる道具。古くは、四脚の台の上に折敷(おしき)を載せたが、のちには脚を作り付け
にした。儀式や貴人用。
*11=(はさみばこ)=近世、外出の際、着替えの衣類などを入れ、棒を通して、供の者に担がせた箱。
*12=名古屋高速道路、四谷入口の開設に伴い、当寺敷地が施設の一部に接したことによる。






水野太郎左衛門政良作 梵鐘





松平忠吉公画像





本尊阿弥陀如来三尊立像




忠吉公墓碑



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。