∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >大雄山 性高院(1)

2005-09-13 18:47:19 | B-1 >水野太郎左衛門系

大雄山 性高院(しょうこういん) (1)
  愛知県名古屋市千種区幸川町3-6 Visit :2005-07-22 10:00


第六代 水野太郎左衛門政良作 梵鐘 元禄十年(1697)
名古屋市指定文化財 工芸品 昭和五十八年(1983)四月二十七日指定
名古屋市博物館に寄託 口径80.5cm 高142.5cm 鋳銅製
名古屋市博物館 Visit :2005-09-10 09:30


§性高院
慶長十五年(1610)、徳川家康の第四子松平忠吉の菩提を弔うため、名古屋市中区大須南寺町(現中区大須3)
に建立された。当時は、別図の如く、若宮八幡宮(名古屋市中区栄3-35-30)の南に隣接し、広大な境内を
有していた。跡地は、若宮大通および名古屋中郵便局などとなっている。昭和十六年(1941) 大須区画整理に
伴い、同十八年(1943)、現在地へ移転。四千坪(約13,000平方メートル)の境内に、国宝の表門、偉容を誇った
本堂並びに鐘楼等があったが、名古屋大空襲で惜しくも全焼。その際梵鐘も鐘楼と共に焼け落ち、その後、
地中に半分ほど埋もれてしまった。昭和三十一年(1956)、本堂再建。境内には松平忠吉公及び殉死者石川吉
信、稲垣将監、小笠原吉光、中川清九郎らの墓がある。忠吉公墓碑銘は「性高院殿御遺骨」。当山の入り口は
「性高院幸川マンション」が建っている。


§松平忠吉略歴
 松平忠吉( まつだいらただよし)は、天正八年(1580)九月十日、徳川家康の四男として浜松城に生まれ、翌天正
九年(1581)、東条松平家忠の養子となる。小字は福松麿、初名は忠康。文禄元年(1592)二月、従五位下下野守に
叙し、武蔵忍城に十万石で転封。慶長五年(1600)九月、関ケ原の戦に従い、東海道の先鋒となり、岐阜城を攻め
て織田信秀を降し、次いで島津義弘の兵と戦いこれを破った。同年十月、その功により尾張清須城を賜り、併せて
二十四万石を領した。慶長十年(1605)四月、従三位に進み、左近衛権中将となり、薩摩守と改めた。慶長十二年
(1607)三月五日、二十八歳の若さで歿し、跡継ぎは無く、家は絶えた。


§梵鐘
 尾張藩主二代 徳川光友(忠吉の甥)寄進の第六代水野太郎左衛門政良作梵鐘(元禄十年(1697))は、名古屋市
指定文化財で、現在は名古屋市博物館に当寺から寄託され、常設展示室に展示されている。梵鐘の写真は、事
前に性高院様と名古屋市博物館の許可を得て、同館立ち会いの下に撮影したものである。撮影条件として、フラ
ッシュおよびカメラを固定しての撮影は不可であった。梵鐘の前面はガラスで囲まれており、証明はスポットライト
で、薄暗く、ガラスに廻りの物が映り込み、露出時間が長いことからどうしてもブレが起こり、残念ながらブログ掲
載用の満足な写真は得られなかった。


[池の間に記された銘文・銘曰]    ( )内は小さい文字、 □は不明文字(一文字のみ)

  〇
尾州愛智郡前津郷大雄山性高院者浄家之
蘭若報佛之精舎也其一簣濫觴者
従三位左近衛中将兼薩摩守源朝臣忠吉郷
為先妣慶長五(庚子)自草創清須邑以住維歳
九十有餘慶長十五(上章閹茂)因当城の築以
練那亦移矣紹隆此所即忠吉郷成霊場自
爾香煙向空理趣法燈不怠相継可謂浄筵
儼然矣干茲有梵器闕故前第二世住上人円誉
発弘願而使遠近緇素勧誘之元和九(癸亥)春
暮律音新鋳華鯨以備晨昏雖爾及当今
忽破止於其聲夫鐘者為佛閣最要乎告旦
暮干参備徒干集必不可有無斯具乎
尾陽君二品前大納言源朝臣光友公者厚仁政更
敬佛教是故今頗梨之梵音其補於断絶改鋳
洪鐘有丹誠元禄十(丁巳)冬霜月十二日鎔範既成
再架于大雄楼焉厥葩尤可綻於戯蒲牢為徳
聲一歴其根菩提之良縁成佛之種子也響震
三千音動十方賢聖為之歓喜諸天為之降臨
其徳無量不可勝計
   〇
銘曰
尾城南界 雄峰道場
事鋳大器 再掛高堂
巍々鄭々 鏗々鏘々
叩之目善 聞茲果良
妾息夢覚 真至罪喪
唐始李主 梵素[口+屯]王
音出幽獄 響脱剣殃
天神有感 魑魅成惶
晨香不□ 夕燭岡忘
所庶幾者 壽福無量
国家万歳 惟久惟長
于時元禄十龍集(丁巳)霜月十二日
尾陽君二品前大納言源朝臣光友公寄進
当刹十四世天蓮社香誉大察謹書
   〇
冶工
水野太郎左衛門
   藤原政良




☆旅硯青鷺日記
 性高院を訪れたのは、夏の初めの七月二十二日であった。当山に着くとご住職が車で帰院されたところで、先方から
お声を掛けてくださった。用向きを話すと、戦火により鐘楼が燃え尽き梵鐘は残ったが、現在は名古屋市博物館常設展
示室に展示されていると伺った。その後、長い夏休みに入り、九月になって漸く名古屋市博物館に連絡を取り、ご住職
の許可を得てから来るようにとのご指示があった。電話でご住職にお願いすると快くご許可を与えて下さいました。改め
て深謝いたします。
 撮影当日、学芸員の方に色々とお話を伺い楽しい一時を過ごさせて頂きました。その後、撮影に立ち会って下さり、腕
章を着けてデジカメで梵鐘を撮りました。しかし私の未熟な技量ではうまく撮ることが出来ず、ぼやけた写真しなってしま
いました。


水野太郎左衛門家系図http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06






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