Kanaheiのデンマーク生活

糖尿病の勉強をしたくてきたデンマークでの紆余曲折な生活を日記として残しています。

最近のデンナースのお仕事

2020年04月14日 | デンナースのお仕事
 さて、前回久しぶりに近況を一挙ご紹介した後ですが、これまた久しぶりに仕事ぶりなんかも書いてみようと思います。

 ステノ退職、Herlev小児科と経て就職した王立病院内分泌外来ですが、早くも4年半が経ちました。ひと所に4年以上というと、ステノを超える長期逗留です。
 基本的には、内分泌外来に4つあるチームのうちの、糖尿病チームに所属しているわけですが、去年いろいろと思うところがあって、内分泌チームも兼任することになり、二足の草鞋を踏みしだいている毎日です。でもまあ、この内分泌疾患がこれまた複雑で、正直言ってわからないことばかりですが、なんとか平静を装って仕事をしています。

 王立病院の糖尿病チームで対応している患者さんの多くは、いわゆる「続発性糖尿病」というカテゴリーの糖尿病です。他科に入院、通院中で、その治療の関係で糖尿病を新たに発症したり、元々の糖尿病が悪化したというケースが多く、しかし、他科の先生達はその元の病気を専門的に診る以外、二次的に現れた糖尿病の高血糖問題に関して、そこまで手が回らないため、うちの外来に往診を希望してきます。そして、内分泌科の研修医の往診だけでは手が回らないため、出動するのが糖尿病ナースです。
 王立病院は一応デンマークの中枢的、高度専門医療機関なので、専門的な手術や治療として、臓器移植や癌治療でのステロイド投与、消化器系外科治療、肺線維症(システィックフィバローシス。王立病院にはデンマーク唯一のCFクリニックがある)、透析を含む腎臓病、広範囲熱傷などの外傷などなどを背景に、高血糖が問題となる場面が多く、糖尿病だけではなく、元々の病気とその治療にもある程度知識をもち、その治療に高血糖が支障とならないよう管理し、さらには地方の病院に転送される前に、ある程度の糖尿病管理とプランを緊急対応ドクターとともに、入院中に立てておく(場合によってはうちの外来で引き続きケアをしていく)のが往診糖尿病ナースの仕事です。
 糖尿病以外は畑違いなもので、外科のこと、癌治療のことなど、最初は本当に手探りで、わからないことばかりでした。特にうちのお得意さんである上部消化器外科、主に膵臓癌患者さんのことは、本当にその管理が難しく、知れば知るほど、深く関われば関わるほど、どんどん膵臓の病気にはまってしまいました。
 そして気がついたら、すい臓がん全摘出後にインシュリン依存性糖尿病となる患者さんへの、術前糖尿病指導、外科病棟での術直後のインシュリン治療導入、癌病棟での術後抗ガン治療中のインシュリン調整と栄養管理などなど、消化器外科、癌病棟、糖尿病科と3つの領域を最小限のトラブルで治療が進むように管理をする、「治療過程コーディネーター」となったのが2年前です。
 コーディネーターとして他の糖尿病往診ナース達に指示を与えつつ、外科から糖尿病外来へ、そこから癌治療へとスムーズに移行させること、術後即抗ガン治療に入り、体力のない患者さんや、遠方に住む患者さんへの、電話やメールでのフォローアップと、膵臓全摘後の糖尿病に関する患者指導資料作り、術後栄養士とのコラボで行う合同診療、糖尿病看護評価のためのデータ採集とアナライズなど、やることはめちゃくちゃ多いのですが、目に見える効果が出てきていること(術後1年以内の死亡率低下と低血糖問題の減少)、上司やドクター達、同僚からの理解とサポートをたくさんいただけていることもあり、なんとかやりくりできています。

 そんな他科往診糖尿病ナース、そして独立して行う糖尿病看護外来の仕事について、知り合いの日本人糖尿病専門医の方と話していたことがきっかけとなり、なんとその先生の推薦で、「CDEの役割を考える〜将来の展望〜」というテーマで行われる、日本糖尿病療養指導士のワークショップにゲストとして登壇させていただくことが決まりました。
 同じ日の講演プログラムには、聖マリアンナ医科大、慈恵会医科大、日医大などの糖尿病会の大御所である名誉教授が名を連ねており、Kanahei、すでにちびりそうでしたが、「宝の持ち腐れ」状態の日本の糖尿病療養指導士資格、ドクターにとっても負担減、ナースにとっても活躍の場が増えて仕事にやりがいが生まれるならばと、「よっしゃ!頑張るで!」とやる気満々だったんですけどね…。残念ながらコロナのせいで講演会は延期となりました。とほほ。でも来年まで発表内容を温めつつ、さらに熟成の進んだ良いものとする時間ができたと思って、前向きに行こうと思います。
 

 そしてコロナ。たくさんの、いろんな人に様々な影響を及ぼしたコロナ。私のようなヘボ市民にも影響がおよび、コロナ緊急事態宣言のせいで、4月1日からコロナ重症患者専門ICUに飛ばされたのですが、今のところ現場は予想とは裏腹に、とても落ち着いています。

 デンマークではICUの専門ナースとなるためには最低2年のICU現場経験、その後2年の専門教育を受けるので、彼らの専門性は非常に高いです。働き方としては、ドクターが出した指示に従って、ICUナースが人工呼吸器、透析、すべての管、投薬の管理をほぼ独立して行っています。なので、ナースだからというだけでICU勤務ができるかというと、全然できないわけです。
 そしてそんな高度専門資格を持つスタッフはそこまで多いわけではなく、人工呼吸器のような医療機器の台数も限られています。イタリアやスペインのように医療崩壊が起きた現場では、このキャパを超えて患者さんが押しかけたため、患者さんがバタバタと亡くなっていきました。デンマークみたいな小さな国では、とにかくそんな状況を何としても避ける必要があり、イタリアの医師と実際に話をしたというデンマーク保健相のボスは、「とにかく、なんでもできることを全てしてください。崩壊が起きてからではもう遅い」と、必死な訴えを聞いたそうです。
 そういった理由もあって、王立病院では本院の隣に出来たばかりの、最新設備を備えた脳神経センターとなる予定だった新棟を、丸ごとコロナ対策病棟としてオープンすることになりました。ICUベッドが30床、状況によってさらに30床増設可、さらに入院管理が必要なコロナ患者さんのためのコロナ病棟を30床、コロナ外来、コロナスクリーニングと、4月からどんどこ作っていき、ロックダウンで通常診療を出来ない外来などからスタッフを寄せ集め、新コロナセンターを作りました。
 何よりも必要となるICU資格保持ナースは、各所から集められ、すでに退職した人も、他のキャリアに転向した人も集められました。現首相のMetteは「やれることをして、後で必要なかったねって笑える方がいい」と、デンマーク医療空前の、莫大な資金を湯水の如く投下して、このコロナセンター開設しました。人によっては意見が分かれるところだとは思うし、もちろん経済を維持することは大切です。が、命あってこそ、Human first、な彼女の支持率はコロナ危機の前の約30%から70%以上に上がったそうです。
(ちなみにこのMette Frederiksen、娘さんがいるのですが、うちの次男とEfterskolen(超ヒューマニズム全開、環境、世界の貧困などのテーマにかなり熱いスクールカラー)のクラスメイトでした。首相になった後も変わらず、普通のお母さんとして発表会や卒業式にもきており、ヘニングも「話しかけたら、普通に話してくれた」とのこと。)

 さて、勤務が始まる前は、私達ヘルパーも患者さんのそばでICUナースのアシストのようなことをするのかとドキドキしていたのですが、ヘルパーの主な仕事は、宇宙服のような防護衣を着て汚染域である隔離室でケアを行っている彼らのために、隔離室の外、クリーンゾーンにとどまり、そこから物品の支給をすること(いわゆるランナーという外まわり)、そして患者さんが亡くなった場合のエンゼルケア、家族へのコミュニケーションとケアだとのこと。
 FacebookでコロナICU勤務になりましたと載せた後、みんなから「気をつけて頑張って!」とか、「尊敬します!」とか、「あなた達は英雄だわ!」みたいなコメントをたくさんいただきましたが、実際はICUカースト制度の末端にいるヘルパーの私達はのんきにクリーンゾーンで雑用をしているだけで、温かい激励のコメントに、だいぶ罪悪感を感じる日々です…。
 デンマーク政府の迅速的確なコロナ対策と、有能なICUドクターおよびナース達のおかげで、ここまでいわゆる絵に描いたようなフラッティングカーブを維持できているのだと思うと、私はもう、感謝しかありません。ほぼ毎日のように休憩室に企業や個人から届けられるチョコレートやケーキなど感謝の贈り物をもぐもぐしつつ、「あなた達がいてくれてよかった…」としんみり噛み締めております。
 とはいえ、1週間先の状況も見えない今。イースター休暇が明けた今週から、段階的に保育園と小学校(5年生まで)が再開され、病院も一部を通常診療に戻すことが決まりました。自粛続きで人々のフラストレーションも高まりつつあり、最近の好天もあって、だんだんと自粛ムードも緩みつつあるこの頃。この再開でまた感染者が増えることも考えられるので、まだまだ油断はできませんが、このままどうか、穏やかにコントロールされつつコロナが収束していきますように…。


お久しぶりです

2020年04月03日 | ご報告
 最後にブログを更新して以来、3年半も経ってしまいました。

 この3年半の間、まあ色々あったわけで、時々思い出しては「ああ、ブログにでも書いて残しておきたいな」とは思うことはあったものの、普段FacebookやInstagramなどで細々としたことをあげていることと、ブログを書くまとまった時間が意外にもないことから、ずっと放置していたのですが、今回のコロナウィルスのせいで、なんと5年ぶりに深夜勤をする羽目になったので、時間を持て余すことに。よく考えてみると、当時よくブログを書いていたのは、こういった深夜勤前だの、家にいる時間だったので、今回急に描きたくなったもの納得です。

 ざっと前回の投稿から何があったのか、思いつくままにあげていくと、以下のようになります。

2016年
10月
最後の体外受精、もちろん失敗。というか着床せず。最後の冷凍卵も着床しなかったので、事実上公立医療機関で受けられる治療は終了。

2017年
2月、ヘニング東京マラソンを走る。世界6大マラソンを完走する目標を立て、当時勤務していた銀行から資金援助を得る。
4月、息子たちも一緒にパリ旅行。行きの空港で、急遽泊まる先のAirbnb大家からキャンセルの連絡でパニック。なんとかツーリストジャングルのど真ん中の宿を見つけてことなきを得る。
5月、次男の謙信式のため母とキヨちゃん来デン。その後母とキヨちゃんを連れてプラハへ小旅行。母大喜び。
6月、ライカアパートの中庭にいたグレイハウンドに噛み付く事件。ここからさらにライカの他の犬への問題行動が増していく。
7月、夏休みに家族でヨーロッパ縦断旅行。車でまずはライプツィヒ(ドイツ)、ブレンナー(オーストリア)、フラスカーティ(イタリア)、デンマークに戻る息子達と別れてからペニーラの新しいサマーハウスのあるプーリア、ウンブリア州のトディ、インスブルック(オーストリア)、リューネブルぐ(ドイツ)、そしてデンマークへ。
とても楽しかったホリデーだけど、ここでもまたライカが事もあろうにペニーラの愛犬ミニーに噛み付いてしまい、止めに入ったラースとラースの弟まで怪我をする羽目に。史上最悪のホリデーとなる。
8月、4月から始めたシーカヤックでようやくライセンスをとり、カヤックを始める。が、カヤック用品の値段を見て、安月給庶民のする趣味ではないとがっくり。
9月、人生初のハーフマラソン参加。史上最悪の悪天候にて途中で大会自体は中止となるが、それでも完走。その後ベルリンフルマラソンに参加したヘニングと、その周りのランナーに感化され(中年太りの男性が完走のメダルを首から下げて、ボーダーショップの外で、買ったたくさんのビールケースを横にタバコを吸っているのを見て、「これなら私もいける」と)、一緒にベルリンにいった友人トーマス(離婚直後のショックでトレーニング不足から棄権)、イヴァン(20km地点で棄権)とともに、翌年のベルリンを走る決意。
12月、ライカの問題行動が日に日に激しくなる。ドッグトレーナー、行動療法士、カウンセラー、もろもろ試すも効果はなし。安楽死をすすめるヘニングと大げんかを繰り広げる。クリスマスのあと、私のみ日本帰省。福岡を久しぶりに訪れる。朝日新聞の記事にデンマークでの幸せとはというテーマで載る。

2018年
1月、ライカを動物愛護団体を通じて里子に出す。ヘニングも私も悲しみで心身ともに憔悴しきった、身が千切れる思いとはまさにこのこと、というお別れ。その後ライカは、田舎に住む家族(お母さんの職業はドッグトレーナー。4歳のジャックラッセル雄犬を飼っている)のもとへ引き取られたと連絡あり。死ぬほど悩んで喧嘩もして、苦渋の決断だったけど、彼女のためにはこれで良かったんだと、やっと落ち着きました。
そして、ライカを里子に出して、間髪入れずに、なんとココ嬢が古巣へカムバック。
元奥さんのところに引き取られたココでしたが、気変わりしやすい元奥さん。私達がライカのことでバタバタしているうちに、犬禁止の新しいアパートへの引っ越しを決めており、かわいそうなココはホームレス状態に…。しばらくは義姉の家に居候していたのですが、「ライカがいなくなって気の毒だけど、ココを引き受けてくれない?」と、ライカを里子に出したその日にすごいお願いをしてきた、すごい神経の元奥さん。
私たちのメンタル的にはとてもそんな状態じゃなかったのですが、ココのことを考えると放っておけず、その足で迎えにいくと、私たちが使っていたボロボロのリードをまだ使っている、私たちを見て嬉しそうに迎えてくれたココを見て、即引き取ることを決意。もう誰かのところになんて、2度と行かせません。
元奥さんの家では2年間、ほぼ何も手入れをされていなかったココですが、すぐに獣医さんのところで歯石取り、ワクチン、ヘルスチェックとこなして、メイクオーバー完了。麗しのココ嬢、再び。
2月、義母とその旦那さんが所有していたスウェーデンのサマーハウスを売却することとなり、スウェーデン好きな私とヘニングで、私たちのサマーハウスを買おうと決意。
3月、1820年に建てられた小屋を南スウェーデンはカルマー地方に見つけ、ほぼ廃墟であったその土地付き物件を、なんとデンマークの軽自動車の新車価格ほどの安価で購入。雪の降るイースターにいよいよ改修工事スタート。ここからほぼ毎週末と夏の連休を改修に費やす。
4月、ヘニング世界6大マラソンの星3つ目となるボストンマラソン完走。ボストンマラソン史上最悪の天候で、低体温で救急に運ばれた人は2000人に上ったらしい。いろんな意味ですごいマラソンだった。その後メイン州にエコヒッピーな宿を借りて滞在したけど、最高にHyggeなホリデーだった。採りたてロブスターの味、狂ったように毎日通いつめて買いまくったL.L.Beanとか、スウェーデンにそっくりな自然とか。またぜひ行きたい。
6月、義姉とその旦那さん、ヘニングと4人でサルディーニャ島旅行。次男小中学校卒業。夏休みの後は、1年間寄宿制の学校Efterskolenへ。
7月、スウェーデン水無し廃墟での、改修工事3週間(夏休み)。ポーランド人大工への怒りと失望の繰り返しの日々。真夏の大工仕事で上半身がマッチョになり、服のサイズがSからMへ。体重は4kg減。
9月、30代最後の年にと、無謀にもベルリンフルマラソンに参加。前回傷心のため棄権したトーマスは、まだ浮上しておらず、また棄権。イヴァンと一緒に無事完走。人生初の特大靴づれと、マラソン後2週間死ぬほどの筋肉痛を除けば、思い出に残るいい大会でした。
10月、またしても母とキヨちゃん来デン。今回はストックホルムとサマーハウスへ。サマーハウスHyggeを理解してくれるか不安だったけど、大喜びしてくれました。
そして10月13日、今まで義姉の家でも、義母の家でも、犬種を超えたシスター達と一緒に暮らしていたココ。うちに来て以来、犬仲間がいなくて寂しそうなので、ポルトガルはアゾレス諸島のドッグシェルターで保護犬だったエリウッドを里子として引き取ることに。ライカの件があったので、かなり慎重になっていましたが、エリウッドは驚くべき気性の穏やかさ。人懐こくて、大人しく、ココとも瞬時で打ち解けてくれました。以来、2匹は切っても切り離せないほどの仲良しに。
ちなみにエリウッドという名前は、この年ベルリンマラソンで世界記録を出した、エリウッド・キプチョゲから拝借。うちのエリウッドは全然俊足ではないけど。
11月、仕事でよくワルシャワへ行くようになったヘニング。毎回素敵なホテルに泊まっており、羨ましいので私も初ワルシャワ。
12月、数々の困難をくぐり抜け、ようやく水の通ったサマーハウスで、犬2匹とクリスマス&年越し。

2019年
1月、朝まで元気はつらつだったココ嬢。仕事から戻ると血便の嵐。あれよあれよという間に具合がどんどん悪くなり、緊急入院、そしてぼったくり獣医のおかげで深夜に緊急手術までする羽目に。結果はただのウィルス性腸炎。元奥さんが動物保険を解約してしまい、高齢に近いココ嬢は再加入ができず、ここでかかった医療費が軽く私の給料の2ヶ月分。ココも飼い主も死ぬかと思った。無事でよかった…。
2月、パリ旅行。今度は私が食中毒になり死ぬかと思った。でもさすがパリ。日本の美味しいうどん屋さんがあり、救われる。
3月、ワルシャワ再訪。前半はヘニングが仕事の間一人で観光。ネオンミュージアムとか渋いところを攻める。ポーランドはごはんが安くて美味しい。
4月、40歳の誕生日をお気に入りのカヤックバーで開催。
5月、スウェーデンに日々感化されていくヘニング、長年忠誠を捧げてきたメルセデスから、ついにヴォルヴォへ。
6月、スウェーデンの自然を満喫するため、連休を利用しキャンプへ。大量の蚊に襲撃され、一睡もできない夜。2度とごめんだぜ。
長男、高校卒業。夏休み明けからバイト生活へ。次男、Efterskolen修了。長男と同じ高校へ進学。
7月、義姉家族、うちの家族、義姉の元旦那とその後妻との息子、義姉の旦那さんの甥っ子の二人を加え、総勢10名で日本へ。毎度のことだけど、ようやるわ、と周りに呆れられる。私も本当にそう思う。全員で高山各地を旅した後、ヘニングと私で高知(ペニーラの仕事の一環で)、そして高野山から熊野古道高野山参詣道を逆にくだり、熊野へ。途中で大型台風に見舞われ、踏破はできなかったけど、素晴らしい自然にまたしても感動。
9月、より本格的に家庭菜園と田舎暮らしをするため、コペンハーゲンのアパートを売りに出すことを決意。が、なかなか売れず現在に至る。
10月、ヘニング世界6大マラソンの星4つ目となる、シカゴマラソン完走。いかにもアメリカ!シカゴ!な雰囲気だったけど、乗り換えで上空から見たアイスランドの方にもっと心を打たれる。
11月、またワルシャワ。グルメなレストランでも安い。3度目にしてようやくちょっとおしゃれで興味深いエリアを見つける。でもそれでも東欧は東欧…。
2016年の最後の不妊治療以来、ずっとPMSがひどく、毎月のように病欠をしていたら、ついに師長から「いい加減にちゃんと調べなさい!」と怒られ、しぶしぶ検査を受けたら子宮内膜症の診断が。またしても腹腔鏡手術を受ける羽目に。合計するとA4の紙の面積に相当する内膜症を剥離したとのことで、執刀医は「そりゃあなた、痛かったはずよ…」と。でも不妊治療中あんなに頻回にスキャンをしていたのに、誰も気づかなかったってどういうこと…?あれ以来急に増殖したのでしょうか?謎は増すばかり。
ただ、内膜症は繰り返すそうで、執刀医は「半年猶予をあげるから、まだ妊娠を諦めてないんだったら、この半年で頑張ってみては?でも半年したら内膜症再発防止のために、ピルやスパイラルを開始しないといけない」とのこと。
2016年の合併症による出血、緊急手術で死ぬかと思ったので、もういい、死ぬよりはいい、と妊娠の夢は諦めていたのですが、ここにきて降ってわいたチャンス。でも実際にはこれ以上の負担を体も心も、ヘニングも無理そうなので、諦めているのが現状です。

2020年
1月、自給自足生活への夢は膨らむ一方。当初、スウェーデンでの家と土地探しをしていましたが、家族(特に息子達)や友人達と離れてしまうのは後々きついだろうと、デンマークはMøn島にて物件を探し続ける日々。その間も、自給自足界のTVスター?の講演会や、共同経営農園の共同オーナーになったり、準備をコツコツと。
3月、デンマークおよび欧州にてコロナパンデミック。おかげでアパートの売却契約も、4月に招待していただいていた東京での糖尿病セミナーの講演も、全てキャンセル。Mønで見つけた物件も他の買い手がついてしまったり、いいことがない。
4月、そしてパンデミックの影響で、勤務している内分泌外来も半閉鎖、緊急対策で急遽立ち上げられたコロナ重症患者専門ICUに移動させられ、今夜から勤務です。え?ICUの経験?ありませんよ、そんなたいそうなもん。

 てことで、ここまでのKanaheiライフでした。いろいろあった気がするけど、こうしてみると地味っすね。自給自足生活とか、もう、どこへ向かっているのでしょう。自分でもよくわかりません。また夜勤の合間に暇ができたら、ぼちぼちコロナICUのことでも載せてみようと思います。あまり明るい話にはならなそうですけどね…。

死ぬかと思いました。

2016年11月02日 | 妊娠関係
 いやはや、大変な目に遭いました…。まさかの事態です。

 ホルモン補充療法を始めて、卵もすくすくと順調に育っていました。採卵の6日前には右側卵巣に7つ、左側に2つだったのが、採卵2日前にはなんと右側9つ、左側3つとさらに増え、採卵日には12個中、卵子が含まれていたのが11個と、なかなかの収穫高でした。

 採卵の日には、過去、モルヒネでめまいと吐き気でひどい目にあった経験から、看護師さんに最初は控えめなモルヒネ量でとお願いしていたのですが、それがいけなかったのかなんなのか、最初のひと突きがかなり痛く、「すいません、やっぱり痛み止め追加で…」と。処置をしてくれたドクターも私が痛がるものだから、急いで終わらせてくれて、無事にその時はおわりました。

 その後、診療台のような簡易ベッドに寝かされて休んでいたのですが、お腹の痛みが止まらないのです。処置後は生理痛のような鈍痛がある、と言われており、過去2度の時もそうだったし、でも普通の痛み止めで十分な程度でしたが、今回は明らかにもっと痛い。
 痛みで眠ることもじっとしていることもできず、唸っていると、看護師さんがボルタレン座薬を持ってきてくれたのですが、これも一瞬効いて5分ほど眠りに落ちたものの、また痛み復活。しかも今度は胃の締め付けられる痛みです。
 朝ごはんはしっかり食べたものの、この時点でもうお昼近く。緊張もあって胃酸がたくさん出ているところにボルタレンだったので、きっと胃を刺激したのでしょう。しかもお腹の痛みも痛みのスケール10のうち7か8くらいまで下がったものの、相変わらずです。でもとにかく寝心地の悪い診療台にいるよりも、家に帰って休みたい気持ちがあり、ドクターに確認のスキャンをしてもらったあと、帰宅しました。このときは、「通常採卵で起こる程度の出血はあるけど、問題はない」ということだったのですが…。

 帰宅してすぐにベッドで休んだものの、やっぱり痛い。うとうととしながら悶えつつ、頭に浮かんだのが「卵巣過敏刺激症候群」。いわゆるホルモン剤による合併症です。症状としては、お腹の痛み、そして腹水による膨満感。見れば私のお腹もみるみる膨らんでいき、腹痛も治るどころか、どんどん増していくばかりです。
 通常、卵巣過敏刺激症候群は妊娠確率時、もしくは受精卵を戻したあとに起こることが多いそうですが、最後にスキャンをしてくれたドクターは、「卵巣過敏刺激症候群リスクのボーダーラインね。慎重に経過を見ましょう」と言っていました。でもすでに症状的には似ているし、知り合いで2人、これになって(しかも重症の)しまった人がいるので、やっぱり受診することにしました。

 私は看護師で、普段から超健康体です。なので、救急(クリニックは公立病院なので夜は閉まる)に電話をするというのはかなり勇気がいります。というのも、「こんなの実は私が大げさに騒いでるだけなんじゃ…」とか、「たいしたことないのに救急かかって迷惑かけてしまうかも…」とか、他人事だったら「何言ってるの!すぐに電話しなさい!」と言えることが、自分ではなかなかできないのです…。でもさすがに、このまま夜を過ごす、しかも翌日仕事に行くとなると、「無理だな…」と判断し、首都リージョン(州)の緊急電話へかけることに。
 電話対応してくれたナースはイマイチ不妊治療や卵巣過敏刺激症候群についてわかっていないようでしたが、王立病院の婦人科に連絡をとって緊急受け入れの体制を整えてくれました。

 しかし、この緊急電話は、患者の待ち時間を減らすため、各地にある病院の中でもっとも順番の少ないところを選んで予約制にするシステムです。私がもらった予約時間は20時。この苦しんでいる時点から2時間半後です。H氏は膨らんでいく私のお腹と、苦しみようを見て、その王立病院の婦人科に電話し、「こんな状態ではとても家で待っていられない!」と説得し、すぐに王立病院へ。

 救急の婦人科では、一通りの手続きの後、ドクターの診察を待っていたのですが、あまりに苦しそうにしている私をみた看護師さんに、廊下にあったストレッチャーに横になるよう言われ、そのようにすると、途端に信じられない激痛が!!ちょうど横隔膜あたりに刺すような痛みが走り、びっくりして起き上がったものの、それはもう痛くて痛くて呼吸ができず、涙がボロボロ出て来るだけです。横になることで腹水が移動するのか、起き上がりしばらくするとやっと呼吸ができるようになる始末です。

 そこから椅子に座って、まるでお産をする妊婦さんのように口で浅い呼吸をしながら痛みをしのぎ、待つこと1時間ほど、やっとドクターがきて診察です。クールな女医さんがまずスキャンをしていくのですが、とにかくそれも痛い。最後にお腹を外からエコーで診るとき、診察台を倒さねばならず、また仰向けになったとき、例の激痛が!!!とにかく息ができないのです。悲鳴にもならない、嗚咽のような声で、痛みでパニックになって起き上がろうと必死になるのですが、痛くて痛くて起き上がれないし、地獄です…
 それまで何も言わずにエコーをみていた女医さんは、やっと起き上がってまだパニックの私に「お腹の中で出血しているみたいだから、手術をしなければいけない。今すぐに準備をするから」と冷静に説明すると、すぐに内線でオペ室と連絡を取り始めました。
 私はもう痛みのショックで血圧がどーんと下がったようで、意識朦朧(看護師さんの説明とかまったく耳に入らない)、全身冷や汗でぐっしょり、さらに気持ち悪くなって吐きまくる始末。

 その後あれよあれよという間に手術の準備がされ、オペ室へ入ったのが21時ごろでしょうか。ここでもまた、座っていれば大丈夫なのに、手術台に仰向けになった際、例の発作が起こり、何も知らない麻酔科医、麻酔科ナース、オペナースがびっくりして「落ち着いて!横になって!深呼吸して!」と4人がかりで押さえつける(手術台から転げ落ちる勢いだったので)のですが、痛みで息ができない私は説明することもできず、麻酔医が慌てて鎮静剤を投与するまで、たぶん5分くらいだったとは思うのですが、私には永遠と思える拷問のような仕打ちでした…。手術後2日経った今でも、首の周りが筋肉痛で痛むのは、押さえつけられて必死に起き上がろうと抵抗したからかと思われます…。

 手術が無事おわり、目が覚めたのは、麻酔科ナースが「起きて!しっかり目を開けて!」と荒手な感じでバシバシ顔を叩いたり体をぐわんぐわん揺すりつつリカバリー室へ向かう途中でした。相当鎮静剤を投与されたようで(術前の発作のため)、また出血のせいで血圧が下がっていたため、H氏曰く、移動中、眠りに落ちるとすぐに脈拍が下がってナースがヒヤヒヤしていたそうです。

 執刀してくれたのは、診察をしてくれた女医さんで、術後の説明では、約500mlの血液を腹腔内から吸引し、出血源である右側卵巣の穴には止血の処置がされたとのことでした。仰向けになったときの痛みは、横隔膜に血液が流れ込むことで染みるような痛みが発生していたのだとのこと。
 なんと恐ろしいことに、腹腔鏡オペでも経過がよければ即日退院もある、とのことでしたが、さすがに病棟に戻ったのが24時を過ぎていたこともあり、その日は休んでいくことに。ていうかさすがデンマーク…。

 初めての入院は、2人部屋に一人だったこともあり、また、この日の急患がほとんどいなかったこともあって、とても静かでした。術直後、全身が恐ろしく浮腫んだためでしょうか、体のあちこちが痒くて、それだけが睡眠を妨げていましたが、かなり快眠でした。

 翌日は血液検査(ヘモグロビン値はやはり低かった)と回診の後、じゃああとは適当に帰っていいから、とさっくり言われ、貧血マックス(ヘモグロビン5って…なんで輸血してくれなかったんだろう…)でグロッキーな中、歩いて病院出口まで行き、車で迎えに来てくれたH氏の運転で帰宅したものの、しばらくは会話するのにも苦しいし、めまいはひどいし、20時間くらいぶっ続けで眠りに眠りました。
 
 本当ならこのまま眠り続けて回復を待ちたいところですが、執刀してくれた女医さんは「子宮にはなにも影響はないし、不妊治療を続行できるわよ」と太鼓判を押してくれたので、今日は重い体を起こして、無理やり何か栄養になるものを食べ、がんばって水を飲み、少しでもお腹の空気(腹腔鏡で見通しをよくするため腹腔内に空気を入れるので、術後膨満感が残る)を排出するため、短時間ですがライカの散歩にも出かけました。

 クリニックの卵ラボに電話すると、11個もとれた卵子なのに、受精後分裂をしたのは6つのみ。それでも十分ではありますが、やはりあんな苦労(オペ)までしたのに感はぬぐえません…。まあしょうがないけど。
 採卵後に起こったことを軽くラボに説明し、正直まだ全然体調よくないっすと伝えると、とりあえず受精卵たちはあと3日は成長を見守らなきゃいけないし、金曜日にもう一度連絡して、どうするか決めましょうとのことでした。

 本来ならここまでストレスを受けたわけだし、受精卵を全部凍結して、私の回復を待ってもいいのでしょうが、私はなんてったってナースなので、そのへんタフにできてるし、ある意味卵を戻すという目標があることで、リハビリにも気合が入ります。女医さんの「子宮は大丈夫」というお墨付きでもあるし、これまた女医さんから「卵も戻すんだから、ゆっくり2週間は休みなさい」と、病欠の書類も書いてもらいました。
 それに卵は鮮度が命。凍結後解凍した卵は、やはり着床率ががくんと落ちるのだそうです。なので、金曜日には出来る限りのベストコンディションへもっていけるようにがんばります。

 これまで、いろんな現地在住日本人の方から、いかにデンマーク医療はひどいか、ということを聞かされていましたが、今回、自分が初めてデンマーク救急医療の患者になるという体験をして、まあ、もちろん後遺症も残ってないし、ある意味軽傷の類だったこともありますが、私個人の印象では「そんなに言うほど悪くない」という感じです。
 自分が医療者の一端だから言い訳をするわけではありませんが、医療は100%じゃありません。私が出血したことも(そしてそのまま帰宅させられたことも)、きっと日本人の目から見ればそれってどうなのよ?と見えることかもしれません。それでもこの限られたリソースの中で、デンマークの医療者、とくにドクターたちは本当にがんばって、その時にできることをしています。まあでも、王立病院の近所に住んでいるというのは、やはりデンマークで救急医療を受ける際の運を分けるところではありますが…。

 と、まあそんなわけで、死ぬかと思った出血騒ぎでしたが、あとはデンマーク流の「貧血にはステーキと赤ワイン」という食事療法も取り入れつつ、リハビリに励みたいと思います!
 

家での音楽の聴き方

2016年10月08日 | 家族のこと
 長期ホルモン補充療法なるものをはじめて1週間が経ちますが、今のところとくに心配したような副作用が出ることもなく、穏やかに過ごしております(周りはどうだか知らないけど…)。

 カフェやバーが集まるエリアのど真ん中に住んでるので、ちょくちょくと仕事のあと、アペリティフとしてカフェでH氏と一杯飲みつつ、その日あったことなんかを話し、これといって出かける予定のない週末でも、浮かれた人々に混じってバーめぐりをしたり、ライブを聴きに行ったりしていましたが、お酒もコーヒーも飲んじゃいけないとなると、はっきり言って手持ち無沙汰です。犬の散歩で外に出ても、みんなが楽しそうに飲んでいるので、うらやましくなります。

 そんなわけで、持て余した時間に、家で読書と音楽鑑賞を意欲的にするようになったのですが、ここでちょっと問題、というかめんどくさいことが。

 うちのアパートの構造は、各両端に子供部屋、その真ん中に私たちの寝室、そしてワンルームのリビングダイニングキッチンがあります。手狭、1階で日当たりもそこまでよくないので、どかーんと一間にして共有スペースをオープンにしているのですが、つまり、いろんなことを共有せざるを得ない空間ということになります。
 特に音に関しての共有が大きく、TVを観る、音楽を聴く、ラジオを聴く、または静かに読書をするためには、H氏と常に合わせなければなりません。

 私は特にTV番組に関して固執するものがないし、H氏が観るものも基本的に趣味が似ている(ガヤガヤしてるのや、基本エンタメ系は観ない)ので障害はないのですが、問題は音楽です。

 子供の頃からバンドでドラムを叩き、高校は数学と音楽を専攻とする学校へ通っていたH氏にとって、音楽は鑑賞するより、自分で演奏する方がいいようです。そして彼は自他共に認める、聴覚優位の人です。

 聴覚優位の人の特徴はというと、
・時間を追って、段階的に理解するのが得意(経次処理)。
・全体よりも細かいことに関心を示す。(*会話全体の内容より、一つの単語や発音の違いが気になって先に進めないこと超多し)
・フレーズや歌詞を覚えるのが得意。
・リスニングが得意。
・BGMを思わず聴いてしまい、集中できない。
・自問自答、独り言をよく言う。
・言葉で伝えたことをそのまま、復唱をかんたんに出来る。
・音に敏感。雑音があると集中できない。
・論理的に話してもらわないと嫌がる。
・うんちくや有名人といった権威性に弱い。
・話に矛盾があるのを嫌う。
・聞いて学習することが得意。
・音楽を聞くことが好き。
・記憶に音(声)や音声がともなっていることが多い。
・話す時に、言葉に詰まったり、言葉が出なかったりすると過度に焦る。(*だから日本語学習にすごい苦手意識がある)

 男の人なのにけっこうマルチタスクというか、この聴覚優位のおかげで、何かをしながらでもラジオでごく普通に情報を吸収していたり、歌詞なんかみなくてもドライブしながら音楽を聴いてるだけでスラスラ歌えたりと、視覚優位の私とは正反対です。しかし、記憶メモリーのインプットとアウトプットも、いちいち声に出して言うので、結果、一人で自分のことばかり話しているようなこともあります。

 そんな人なので、私が音楽、特に彼にとってあまり興味のないジャンルである、ジャズとクラッシックをかけていると、苦痛以外のなにものでもないようで(まあ、大概の人がそうだろうけど)、「気が滅入る音楽」といって腹を立てています。
 では、彼が何をBGMにかけているかというと、午前中は基本的にデンマーク国民放送ラジオ(ポップス)、あとはストリーミングでインディーポップス、インディーロック、デニッシュポップスなんかを聴いており、私は最近、特にセレクティブに、集中して音楽を聴いていることもあってか、単なるBGMとして、常に音楽が流れている、耳に入る状況というのは、なかなかイライラします。

 もともとけっこうな寂しがり屋にもかかわらず、月の半分をひとりぼっちで長年過ごしていた彼なので、なにかを埋めるためにずっとラジオや音楽をかけていたのでしょう。音に囲まれているのは、もはや習慣なのでしょうが、二人で暮らし始めて5年も経つのですから、そろそろ習慣も変わってきていいはず…。

 新しいアパートに引っ越すにあたり、場所をとるCDステレオを捨て、新居にはリビングダイニングキッチン、寝室、子供部屋、さらにはバスルームにまで全部屋にWi-Fiスピーカーを設置し、すべての音楽はSpotifyや多種ネットのストリーミングで聴けるようにしました。
 場所をとらず、すべてのネット端末から操作でき、聴きたいものを聴きたいだけ、選びたい放題なのはいいのですが、CDのときのような「選ぶ」という行為をきちんとしないで、適当ないいとこ取りプレイリストをかけることが習慣化してしまい、音楽をじっくり聴いて「いいねえ〜」という体験が少なくなってきました。
 そして、各部屋にスピーカーを設置したはいいのですが、たとえば別の音楽を私が他の部屋で聴いていても、小さいアパートなのでH氏のいるリビングに音が漏れてしまい、それもまた聴覚優位で、嫌でも音を拾ってしまう彼には耐え難いことのようです。
 それだってひとつのライフスタイルの形だろうし、今までだって別にそこまで大きな問題ではなかったのだけど、私のホルモン治療によって少しだけライフスタイルが変わって、またじっくりと読書と音楽鑑賞をするという趣味が再燃し、でも家には常に音を共有したがる人が…(音がない、というのはそれはそれで耐えられないらしい)。

 そんな中、飽きやすく、人に影響されやすい長男が、最近まわりの流行りにのってレコードを集めるようになったのですが(といっても「レコード屋にいって選んで買う」という行為が好きなだけで、買ったあとはあまり聴いていないという)、レコードを聴くならきちんとしたデッキを!と、私もH氏もずっと考えていたので、今、どんなのを買うか検討中です。ついでに一人がけの座り心地のいい椅子を買い、ヘッドフォンを買って、私は私の音楽の世界に浸れることを夢見ているのですが、共有スペースの問題は解決しないまま…。最終的には模様替え案まで出始め、なんだか壮大なプロジェクトに発展しそうな勢いです。

 

最後の妊活

2016年10月03日 | 妊娠関係
 また最後の更新から、ずいぶんと時が経ってしまいました…。

 昨年の8月に王立病院の不妊治療クリニックへ面談にいき、その後やれH氏側の精密検査だの(結果異常なし)、私の方の代謝機能に問題があるだので、時間がかかったものの、やっと治療に踏み切れるとこまで来た12月、さて!と申し込んだら「今月分の患者さんはもう定員です」と…。
 でも実は過去2度の体外受精の、まあいわゆる後遺症的なものでしょうか。毎月、排卵日あたりに卵巣がめちゃくちゃ腫れるため(ある意味生理痛よりひどい)、「こんなしんどい後遺症までできて、またもう一回、しかも今度は長期ホルモン補充療法だなんて、やっていけるんだろうか、私…」と、かなり怖気付いておりました。
 
 子供はもちろん欲しいけど、だんだんと自分が妊娠するというイメージも薄れ、今の生活でも別に悪くないしとか、もしまた妊娠失敗して、さらにはまた後遺症がひどくなったりしたら、この先この体を抱えて毎月の痛みとともに生きていくのかとか、どんどんどんどん決意がくずれ…。
 でもせっかくあるチャンス、最後までやり遂げなかったら絶対後で後悔する!と、覚悟をきめ、今回最後の治療を受けることにしました。

 で、先週末、治療を受けるにあたって異常がないかどうかスキャンで確認後、以前の面談で相談した通り、今回はロングタームのホルモン治療でいくことに。
 これがいわゆる女性にとっても、パートナーや周りにとっても「しんどい」治療なのですが、その訳は、女性ホルモンを抑制する=更年期と同じ状態になる、からです。これまで私の中で順調に分泌されていた女性ホルモンが、ある日突然ゼロになるわけですから、そらー体も頭もびっくりするわけで。普通の更年期のようにじわじわくるものではないので、人によってはかーなーり荒れるそうです。
 普段から生理周期だけでもアップダウンの激しい私。末恐ろしいことこの上なく、H氏にいたっては「寝袋とテントを用意して、いつでも避難できるようにしなければ…」と半分ジョークのような、本気のようなことを言っています。

 そんな女性ホルモンゼロ期間突入から4日経ちましたが、今のところ、自覚症状としては、
・「眠い(いくらでも眠れる)」
・「ややむくむ」
・「生理痛のような下腹部に鈍痛がある」
・「ごくたまに偏頭痛がある(たまたま今日ヨガでブリッヂをしてたからか?)」
という程度で、まったく問題なしです。今のところ。これらの症状もカレンダー上もうすぐ生理なのでそのせいかもしれないし。
この調子で、最悪な時期をあっさり乗り切れたらいいな…と願うばかりです。

 まあ、ホルモン治療のことは専門家に任せるとして、私は私で、葉酸をしっかり摂り、適度に運動して(毎朝、午後とライカの散歩だけでもいい運動量です)、なるべくバランスよく食べるようにして、夜はしっかり眠る、ということを気をつけておりますが、ずばり、今回は今までと違う決意?がございます。

 それは、「どうしてもいろんなことでつらくなったりして、飲みたくなってしまったら、1日1杯はお酒を飲んでもいいことにする」というものです。

 わかってます、わかってます。妊娠したけりゃお酒くらい我慢しろ、という意見はわかってます。無事妊娠したあかつきには、もちろん胎児のために禁酒するわけですが、今、三度目の体外受精に当たって、私の中でいろんな考えをまとめた結果のことです。
 これは、不妊治療を(失敗)してきた人にしかわからないことですが、いくらがんばってもそれが結果に結びつくという確証もギャランティもなく、それでもと信じながら治療を受けていくことは、本当に体も心もしんどいことです。途中でいろんなことを見失って、パートナーとの関係そのものが壊れかけてしまうこともあります。
 不安も痛みも、全部自分で引き受けて続けていく治療の中で、自分の中で何か折り合いというか、フェアさを見出す代わりに、私は1杯のワインを許すことにします。たぶん、どこかで子供を授かることをあきらめているのもあるからかもしれない。たぶん、すべてが神のみぞ知る、運まかせな、ノーコントロールな中で、どこかひとつでも自分でコントロールしたいという願望の形なのかもしれない。とにかく、そんな感じです。
 
 前回、前々回は、飲みたいけど飲んじゃいけない、という制約のなかで、本当につらかった…。なにがストレスってそれが良好な結果をもたらすとはわからないのに、すっぱり断酒をしなければいけなかったことでした。
 しかし不思議なことに、こう決意してしてしまうと、飲みたいという気持ちもそこまで湧いてこず、「本当につらかったら飲んでもいい」という逃げ道があるとわかっていることで、精神的に以前のような追い込まれるようなストレスはまったく感じません。結局、なにが一番自分をつらくしてたかって、自分自身の追い込みだったんですね。

 最後の治療を始める、と、いきつけの足つぼ師?であるBettinaに話したところ、彼女も気合を入れて各ホルモン補充期に合わせて治療プログラムを組んでくれたので、もう、気楽に楽しんでいこうと思います。

Laika

2016年02月21日 | 家族のこと
 小さい頃からずっと実家に犬がいて、デンマークで初めて猫を飼ってみて、あのフワフワ感にやられて「私は絶対猫派!」と思っていたのですが、ヘニングと一緒に住み始めてココを飼い始め、「やっぱり犬はいいね」と思っていたのですが。

 街中のアパートに引っ越しが決まったものの、アパートがペット禁止だったので、残念ながらココは一緒に引っ越しできないと判明し、そしたらヘニングの元奥さんが、私たちが住んでいた家(2階)に引っ越してくることが決まり(というか昔住んでいたので出戻り?)、息子たちは生まれ育った家で階下のお義姉さん家族やいとこ達と離れずに済み、ココも階下のベラと離れずに済むことになり、なんだかすごい話ですが、うまくいろんなことがピタッとはまって一件落着。
 最初は、アパートの管理組合を説得して、ペット可になったらココを迎えにいこうと思っていたのですが、階下の家族やベラのところを自由に行き来し、大きな庭を駆け回り、幸せに暮らしていたココ。さらには一時的に面倒をみてくれていた元奥さんも「ココが欲しい…」と言ってくれていたので、ココは養子に出されることになりました。

 と、そんな感じで前置きが長くなりましたが、ココがいなくなって、アパート管理組合も説き伏せた今、「やっぱり犬が欲しい!」となり、登場したのがライカです。

 ジャックラッセルテリアのライカは、生後2ヶ月でユトランド半島からやってきました。

生後1ヶ月くらいのライカ(左)。ブリーダーさんから送ってもらった写真です。

 「Laika」という名前は本当に思いつきなんですが、次男が「初の宇宙ドッグ!」というストーリーに興奮し、決定。その後ワクチン接種とヘルスチェックで行った獣医さんは、ライカという名前を聞いて「いい名前だね。人類はライカに新しい、いい人生を贈る義務があるからね。」と。
 打ち上げから7時間後、空調が故障して室温が50度まで上昇したスプートニク号の中で、恐怖と暑さの中で苦しみながら死んでいった初代ライカ。新しいライカには、うちでめいいっぱい幸せになってもらおうと思います。


うちにきた日のライカ。古い工具箱がしばらく彼女のベッドでした。


犬が大好きな次男。「tissemaskinen(おしっこマシーン)」とか「 pøllefabrik(ソーセージ工場)」という異名を次々獲得していったライカ(子犬のトイレは本当に大変です…)を辛抱強くしつけていました。


突然雪が降ってきたので、身長198cmの長男の古い靴下で、即席スウェットを作成。


その後アップグレードしてフリースに。子犬はすぐ成長して着れなくなっちゃうので、冬用ジャケットは来年買います。


数々の悪行を重ねてきた彼女ですが、ついにソファーを破壊。まったく悪びれる様子はありません。

 まあ、そんなわけで、小なライカに振り回される日々です。生後3ヶ月までは、夜中も2〜3回起こされ、雨でも雪でもトイレのために外へ連れて行くので不眠が続き、H氏は「赤ん坊のほうがオムツしてる分まだ楽だ…」と言ってましたが、生後5ヶ月の今は夜はぐっすり眠り、トイレもしっかり朝まで我慢できるようになり、日々成長しています。
 ジャックラッセルという犬種の特性上、身体的にも精神的にも毎日必ずアクティベートしていかねばならないのですが、幸いにもうちのすぐ近くには大きな芝生の公園がいくつもあるので、毎朝、午後と1時間以上散歩し、週末は車や自転車で森などに遠出し、なかなか街中の犬としては高待遇なのではないでしょうか。
 けっこう職場の既婚子持ちの同僚には「子供ができない代償的に、犬に母性をつぎ込むイタイ女」と見られがちですが、最近では近所に住む、シングル女子による愛犬お散歩グループに仲間入りもし、街中に住んでると色んなライフスタイルを持った色んな人と出会う機会があって、そんなんでもええやないの、と思えて助かります。
 

ゴムパッキン(byハムテル)。唇?が黒いので、ちょっとゴス系です。

 もうすぐ狂犬病のワクチンの免疫が出来上がるので、スウェーデンのサマーハウスに連れて行ってあげるつもりです。ライカ、牛と初めて出会いますよ。

初のインシュリンポンプ患者さん…はグリーンランド人!

2015年11月04日 | デンナースのお仕事


 元気にもりもり仕事に出かけたにも関わらず、突如謎の腹痛(激痛!)と吐き気でタクシー早退というドラマを繰り広げた今日。家に帰って爆睡したらサラッと回復し、なんだったんだ…!?という。年をとると変な体調問題が浮上してきて、いやはや困ります。
 原因はおそらく2度の体外授精でのホルモン治療で、排卵時に卵巣が腫れるから、というものだと思うのですが、それにしても今回はひどかった…。これから閉経までこれが続くのかと思うと、気が重いっす…。婦人科で検査(というか軽い血液検査だけ)もしてもらいましたが、排卵時以外は別になんともないので、もちろん「異常なし」で終わっちゃいましたが。

 さて、仕事の上で色々と面白いことがあったので、久々にまたブログに残しておきたいと思います。

 私が務める王立病院は、一応デンマーク先端医療の中枢病院として機能しているため、デンマーク国内、いろんなところから患者さんが運ばれてきます。「国内」というと、そこにはボーンホルム島(スウェーデン南部に浮かぶ)はもちろんのこと、フェロー諸島(スコットランドの上、ノルウェーとアイスランドの間)、はたまたグリーンランドまでも王立病院の管轄なので、はるばるみなさん、飛行機に乗って受診してくるのです。
 
 王立病院に勤務し始めた1年前、「王立病院なのにインシュリンポンプ患者さんがいないなんて!」と憤慨し、ことある度に、「ポンプ外来立ち上げましょう!」とドクターや糖尿病エキスパートナースのシャーロッテに言って回っていたのですが、念願叶って(そして必要に迫られて)、先日ついに我が糖尿病外来初のインシュリンポンプ患者さんを受け入れることになりました。しかも、その初ポンプ患者さん、なんとグリーンランド在住!どひー。

 事の発端は、妊娠糖尿病のエキスパートであり、インシュリンポンプ治療にも経験豊富なドクター、エリザベスがある日「オーフス大学病院から転送されてきた若い女性患者さんの診察に付き合わないか」と声をかけてくれたのがきっかけ。(たぶん私がポンプポンプうるさかったから)
 患者さんは1型糖尿病のグリーンランド人で、教育の一環で一時的にオーフスに住んでいた時、インシュリンポンプの導入を始めたそう。でもグリーンランドに帰るに当たっては王立病院が管轄となるので、うちの外来に移ってきたのでした。

 オーフス大学病院での患者さんのポンプ設定は、超シンプル、というか最低限のことしか設定されておらず、よくこれで暮らせていたなあと…。エリザベスが設定をある程度変更し、その後私が引き継いで、低血糖時や運動時など、血糖変動に対しどうポンプの機能を活用していくか、ポンプ故障時など緊急時の対応の確認、グリーンランドでポンプに必要な物品をどう手配するか、そして定期検診をどう行っていくかなど話し合いました。

 特に普通のデンマーク国内にいる患者さんと違って、この患者さんは時差4時間、直行便で8時間弱のグリーンランド在住です。通院にかかる交通費は国が負担するのでかかりませんが、それでも「じゃあ1ヶ月後にまた来てください」というわけにはなかなかいきません。なので、王立病院に通院に来るのは1年に1度、それ以外は3ヶ月に1度、グリーンランド首都にある病院でHbA1c(過去2ヶ月の血糖の推移を見るための血液検査)のモニターや合併症のスクリーニングしていく、ということに決まったのですが、変更したばかりのポンプの設定の微調整や、その他もろもろのことをケアしていくのは担当ナースである私の役目です。

 そこで、このハイテクなご時世、ネット環境さえあればどうにかなるもので、患者さんにポンプと血糖測定器からデータをPCに転送して、その解析結果と治療プランをメールか電話で、ポンプが最適な設定に達するまで、およそ1〜4週間ごとにやりとりしていきましょう、と決定。患者さんも若者なので、その辺はすんなりオッケー。
 ポンプのメーカーに問い合わせたところ、この患者さんが使用している、Rubin社のアニマスポンプでは、Diasendというオンラインデータベースで患者さんのデータを共有できるそうで、患者さんは世界中どこにいても(ネット環境さえあれば)、このデータベースに血糖測定器とポンプのデータさえ送信し、担当医療スタッフと交信できるのです。ワンダホー!

 というわけで、ささやかながら突如スタートした、うちの外来でのインシュリンポンプ診療。いきなりグローバルな展開です。距離とか時差だけでなく、グリーンランドはエスキモーの土地。患者さんは首都ヌークに住む現代グリーンランド人の若者ですが、生活習慣がまるで違います。そんな患者さんを相手に、今後どうポンプチーム(現在メンバーは私とエリザベスのみ…)を発展させていくか、かなりワクワクです!

まだ生きてます。

2015年08月08日 | ご報告
 もはや1年に一度、七夕並みにしか更新されない、完全放置ブログとなっております。

 またまた現状ステータスとしましては、

1、まだ妊娠してない
2、昨年10月に王立病院に転職、でもまだ契約社員。
3、春にコペンハーゲン街中に引っ越した


 1、まだ妊娠してない
 長らく不妊治療を休憩し、今年のはじめに「そろそろ王立病院に申し込みでもしてみますかね」と紹介状を送ったものの、さすが王立病院。なんと初回面談までの待ち時間が6ヶ月!
 しょうがないと待ち続け、ようやく6月に面談にいったものの、前回のHerlev病院からの書類がきちんと揃っていないこと、また王立病院の専門の科で男性側の生殖機能を徹底的に調べるということで、さらに3ヶ月待ち。そんなこんなしてるうちに、今年もう私36歳です。だんだんリミットが近づいておりますが、まあ、急いでも仕方のないことなので、のほほんと待ち続けています。
 治療から離れたこともあり、妊娠に対する焦りやストレスがなくなったので、「さりげに自然妊娠なんかしないもんかね」と密かに期待もしているのですが、なかなかそうもいかないようです。
 最近では自分と「妊娠」という言葉がだんだん結びつかなくなってきており、うっすらと、この先も子供ができないでH氏と二人、あるものでやっていくんだろう、という人生の方がリアリティーが増していっています。あきらめたわけじゃないけど、なんといっていいのでしょうか、「信憑性に乏しくなってきた」とでも言うのでしょうか…(自分に対する)。
 明後日には王立病院の不妊治療クリニックに、2度目の面談へ行くのですが、まあそこでどうプランニングがされるのか、ちょい楽しみです。が!なにも妊娠するにあたって良いと思われることをしてこなかったので、身体コンディションとしてはある意味最悪といってもいいほど…。月曜から気を引き締めて、断酒、週3ヨガなど復活させようと思います。

 2、王立病院内分泌内科外来、糖尿病ナースとしてバリバリ勤務。でも契約社員。
 新しい外来勤務では、内分泌、糖尿病、NET(神経系内分泌腫瘍)と3チームに分かれているうちの、糖尿病チームでがんばっております。
 王立病院の糖尿病外来はもともとステノの分院として運営されていたので(4年前に分離、独立した)システム自体は似たところがあり、ステノ育ちの私としてはやりやすいのですが、なんというか、責任者不在でふわふわまとまりなし。
 というのも、チームリーダーのシャーロッテは首都リージョンが作成中の医療ガイドライン内の糖尿病分野でバリバリ働いていることもあり、週に1、2度病棟に顔を出すのみ。その忙しいシャーロッテの代理である、チームコーディネーターのメッテは、コミューンの健康管理センターに教育実習にでてしまい休職中(私はその休職代理として雇われた)。チームコーディネーター代理となったリーネは、経験はあるんだけどいきなり抜擢されたコーディネーターとして右往左往…。糖尿病チームの他の3人は経験に乏しい上、NETチームとの分業ということもあって、あまり糖尿病の方に全力を投入できない模様。
 さらに、コーディネーター代理のリーネが妊娠し、先日産休に入ってしまったので、事実上責任者不在の状態です。メッテは教育実習が終わったものの、今度はうちのクリニック内でプロジェクトナースとして1年働くことになったため、私の契約期間も延長されたのですが、なんだか彼女の進退で私の契約も変わるので、正直むかつきます。もう一人スティーネという産休中の糖尿病チームメンバーが9月に戻ってくるのですが、彼女は他の仕事を探し中という噂があり、もしその彼女が他に転職したら、私もようやく正規雇用がもらえそうなのですが…。
 「契約は来年6月まであるわけだし、それまでには決まるよ」と他の人は言ってくれるのですが、正規雇用にこだわる理由としてはやはり、秋に再開する不妊治療でもし万が一妊娠したら、契約社員の私としては産休前に契約が切られるなんてこともあるわけで。まあ私が担当しているチームの仕事量的に、そう簡単には切らないだろうとは思いますが…。
 あとはこの秋に採用される新しいドクター(実はステノで一緒に働いていた)が、インシュリンポンプチームを立ち上げるようで、なんとそこには私の名が。そんな大役預かるのに契約社員ってどうなのよ?という。
 その他にも、コーディネーター不在の中で、他のチームスタッフ(経験は少なく、仕事量などへの文句は多い…)とどう日々の糖尿病外来をまわしていくか…など課題は山積中。でも仕事内容自体はステノとも、他の病院とも全く違った、王立病院独自の疾患を対象にすることもあって、かなり面白いです。

 3、ノアブロに復活
 4年間の郊外生活、しかも泣く子も黙るいかついコペンハーゲン西部でひたすら耐え抜いてきましたが、やっと、やっと、コペンハーゲンに舞い戻ってきました…。郊外のいいところを探そうと、乗馬をしてみたり、ガーデニング(というか野良仕事)に精を出してみたり、マイカーを買ってみたり(郊外には必須)、いろいろしましたが、H氏とついに一念発起して郊外脱出!
 義母や義姉には散々文句を言われたり、新しいアパートの改装は噂に聞いていた通り、かなり肉体的にも精神的にもヘビーではありましたが、やっと「彼の家」ではなく、「私たちの家」を手に入れた感慨深さはハンパないっす。
 しかも引っ越した先はノアブロ!H氏も私もノアブロで若かりし頃を過ごしていたし、H氏はやんちゃなヒッピー、私はガイジンいっぱい、ちょいアウトローなこのエリアが大好き。さらには以前住んでいたノアブロの端っことは違い、カフェ、クラブ、バー、おされショップの多い街中ノアブロ。住人はヒップスターな若者、容赦なく筋金入りのヒッピーの中高年の方々、ミュージシャンや俳優など、かなり濃い人たちが多いのも特徴です。先日あった総選挙では、この街中ノアブロエリアの政党別支持率は全国ダントツでEnhedslisten(超左側)という、分かり易すぎる結果が…。
 そんなこんなで、新ノアブロ生活、毎日エンジョイしております。問題は外食が増えて食費が増え、なにかとショッピングの誘惑が多いし、しかもみんなおされ(一見だらっとしてるのにそこはかとなくおされな人が多い)なので西部エリアのように気の抜けた格好であまり外に出れないので、街中生活もそれはそれで大変ですが。

 ………と、ここまで書くのになんと1ヶ月くらいかかってしましました。なんかかんかと邪魔が入るので(H氏の)、集中できません。

 そしてこれは先週の話なのですが、ようやく契約ではなく、正規雇用がもらえそうです(まだ契約書にサインしてない)。週38時間勤務のうち、16時間を臨床検査技師と一緒に特殊検査を行うラボに勤務するという、変な条件付きなのですが、採血とか刺すのが意外と好き(しかもうまいぜ)なので、まあいいか、と。今後は内分泌系血液検査の鬼となって活躍していきたいと思います!

生きてます

2014年09月24日 | ご報告
 お久しぶりでございます。前回更新したのが昨年の11月末。忘れかけた頃にまた復活するのが、近年のKanaheiブログです。


 現状ステータスから申し上げますと、

1、まだ妊娠していない

2、10月からまた転職

3、デンマークの家族は相変わらず

と、いう感じでいまだに進展があるようなないような人生です。


 まず1のプロジェクトですが、前回のブログによりますと2度目の体外受精で卵を2つ戻したところで終りましたが、双子の望みもはかなく、まんまと非妊娠確定。
 「もー、ちょっと疲れた。休憩!」ということで、3度目(公立病院で無料で受けられる最後のチャンス)に継続していく前に、タイムアウトをとったわけですが、まあこれは正解でした。というのも、この頃から冬本番、小児科が地獄の忙しさを迎える季節になったわけで、満床、重症、次々と襲うスタッフ病欠によるマンパワーの慢性的欠如、病棟からの度重なる緊急出勤要請、と、こんなときに不妊治療なんてしてる場合ではありません。
 他の妊婦さんスタッフのシフトをカバーするのまで安易に引き受けちゃったものだから、1月の夜勤回数が19回に上るなど、真冬だし、太陽を見ることもなく過ごした、もぐらの日々。精神が破綻しかけた頃にようやく「嫌ならノーと言えばいいのか!」と気付き(遅い)、事なきを得ましたが…。いやいや、きつかった。

 というわけで、冬が終るまで(なんだかんだで4月末まで激務は続いた)休憩の予定だった不妊治療ですが、夏は夏で、去年も私の不妊治療を理由にあきらめてもらった、H氏と息子達および義姉家族を連れた大家族日本ツアーを、今年こそは実現させてくれ!という義姉夫婦のアツい要望により、梅雨明けの蒸し暑い日本をツアコン、ガイド、通訳という3役をかってしまったため、不妊治療再開の目処はたたず。
 さあ、じゃあ夏も過ぎ、穏やかな秋に…と思ったら、今度は10月から転職で、生活がどう変わるかちょっと先行き不透明。「子供を持つのに、パーフェクトなタイミングなんてないんだ…」というのは、今や2人の子供を持つ友人S談。映画監督で常にプロジェクトを複数同時進行で抱えている彼に、「あなたにとってReadyな時を待ってたら、一生子供なんて作れない」という彼女からの、ある意味説得もあったようですが…。
 まあ、そんなわけで、確かに「なにが、いつが」パーフェクトかと言われますと、確かに難しい問題ですが、でも最後のチャンスと思うと、やっぱり万全を期して挑みたいもの。なので、新しい仕事が落ち着き、クリスマス休暇に入る直前、12月頃でしょうか。それまでに体調もばっちりに整えておく必要もあります。
 そして、過去2度の体外受精を行った、現在勤務中のHerlevではなく、次は王立病院の方にいってみようかと。治療に大きな違いがあるわけでもないのですが、まあなんとなく2度もだめだったし、3度目の正直ともうしますか、願掛けみたいな?新天地(大げさ)で気分リフレッシュみたいな?

 そうそう、初の体外受精で妊娠した同僚のおすすめで、春から夏にかけて、けっこう集中的に針治療に通ったりもしました。1回400kr(幸い民間保健に入っているものの)と、決してお安くはないですが、不妊治療に効果があるという、その業界?では有名な中国人の先生の治療院です。
 結論から言いますと、まあ治療を2ヶ月集中して受けてもミラクル自然妊娠なんてことはなかったのですが、はじめの2回ほどの治療と漢方薬の後、毎月くる(そして体外受精後なぜかひどくなった)PMS症状がその月はなかった、その後も生理痛もほとんどなく、Kanahei史上初、鎮痛剤ほぼ無しで過ごせたという、脅威の効果。
 すごい!きっともっと続ければ身体のバランスもよくなって、自然妊娠も夢じゃない!と喜んだものの、2度目3度目と効果は徐々にフェイドアウト。費用もだいぶかさむので、治療を止めた今は、すっかり元の状態に戻ったようです。
 治療には個人差がだいぶあるのであれですが、なんとなく私の経験だと、針治療は即効性はある、けど持続性はない、という感じです。なので次回最後の体外受精をする際には、タイミングを合わせて(生理後排卵期にいたるまでがベストらしい)、短期集中で挑戦してみたいと思います。そしてH氏と息子達曰く「Kanaheiだんだんヒッピーっぽくなっていってる…」だそうですが、Zoneterapi(足ツボ)、さらに足ツボのBettinaさんおすすめの、Healingという、なにやら確かにヒッピーぽい治療もすべてまとめてトライしてみようかと(カウンセリングでオーラ?をみて、それに合わせたハーブオイル?を調合してくれたりするらしい…魔女?)。
 職業一応ナースですし、こういったAltanativな治療を100%信じているというわけではありません。でもカップルのどちらにも医学的に妊娠するにあたって何の問題も無い、と診断されている場合、もうこれは「運」だな、と思っているので、じゃあ目に見えるもの(医学)ではない、目に見えないものの力を利用してみてもよかろう、というのが私の考えです。なんてたって、針も足ツボも気持ちいいし、言うことなしです。


 さて、2、の転職に関してです。
 ステノのリストラ以来、まさしく新天地で心機一転と始めた小児科ですが、転職の一番の動機は、やっぱり「糖尿病看護が恋しい」です。
 小児科でも糖尿病の子供に接する機会は決してゼロなわけでもなかったし、新規発症の子供を受け持ったこともありました。でも、小児糖尿病を専門に受け入れてるのは、10階にある「Social pediatrien(社会的家族的背景によって体調に影響があったり、入院による観察、治療が必要な小児を対象とする)」で、20階の通常の小児科の私は、なかなかチャンスがありませんでした。
 この1年の間に、10階の小児科と小児糖尿病外来とハーフ&ハーフの勤務ポジションと、10階の専属ナースのポジションと、2度面接を受けてみましたが、ワンマン婦長で知られる10階の婦長には、「糖尿病にフォーカスを当て過ぎている。精神看護の経験がない」という理由ではねられてきました。(インシュリンポンプも扱える私のキャリアを、糖尿病外来の医長はとても買ってくれていたんだけど)
 どうやらこの10階の婦長にとっては糖尿病とSocial pediatrienとの優先度は2:8くらいの割合。そして私に「Social pediatrienや精神科の経験がないから」と言っていたくせに、10階で実習(半年)をしただけの新卒ナースを雇った、というのが、何より決定打。こちらにもプライドというものがあります。

 で、新たに見つけたところは、王立病院の内分泌内科の外来、10ヶ月の産休代理です。
 デンマークでは日本と違い、外来ナースは独立してカウンセリングや看護を行うなど高い専門性が要求され、現場経験を積み、科によってはその専門教育を受けたナースが勤務しています。
 その中でも、王立病院は首都の大学病院ということもあり、オーフス大学病院、オーデンセ大学病院とともに、難病な複雑な症例を集めて治療する中枢的医療研究施設でもあるわけで、その内分泌科は国内最大の科となります。
 私が勤務する内分泌外来では、糖尿病チーム、内分泌系チーム(甲状腺ホルモン異常など)、NETチーム(神経系内分泌腫瘍)と、主に3つのチームに分かれており、まだそのどこに配属になるかはわかりませんが、面接での雰囲気ではどこに回されてもおかしくはなさそうな…。NETなんて、面接受けるまで病名聞いたこともなかったし、外来抗ガン剤治療も見たことないけど…。10ヶ月、みっちり集中してがんばります。きっとすごくいい経験になるはず。
 
 10階の婦長にプライドを傷つけられ、なんとなく「私って実は自分で思ってるより、かなりだめなのかも…」と、またしてもステノリストラのトラウマと自信喪失のループに陥りそうでしたが、王立病院の外来部長には「あなたの申し分ないキャリアと、目標に向って突き進む野心的なエネルギーをすごく気に入ったわ。面接後ほとんど満場一致で即決だった」と言われ、長い長いトラウマからようやく抜け出せそうです。
 一時はこのトラウマのせいでカウンセラーのところへ行ったりもしましたが、やはり失った自信はまた勝ち取ることでしか、本当の意味でトラウマ克服することはできないんだな、と。目には目を、歯には歯を、ですよ(?)。

 毎日ベビーやおもしろい子供達と戯れて、忙しいけど超ヒュゲリだった小児科を去るのは、自分で決めたこととは言え、かなり淋しいですが、まあ、王立病院も産休代理だし、10ヶ月後また小児科に舞い戻ってたりして。


 そんなわけで、ここまでの報告でだいぶ長くなってしまったので、3の家族は割愛させていただきますが、みんな元気です。H氏は相変わらず尻に火が点いており、長男はティーンエイジャーでのっそりしてるし、次男は相変わらずあちこちで問題をまき散らしてますが。ココは相変わらず太めで、階下のベラのおやつを盗んでばかりいます。年末は息子達抜きで、初H氏と二人でお正月帰省します。楽しみ!


京都の宿坊での(彼らにとって)想像を絶する過酷な修行から解放された直後、憔悴しきったデンマーク人と別の意味で憔悴した私。

 ではでは、また1年以内にブログを更新できたらいいなー(遠い目)。


*トップ写真は、Herlevの小児科。カラフルな70年代デザインの病院にマッチした、小児科の壁イラスト。

ベイベープロジェクト10~2度目の体外受精!双子妊娠なるか?!~

2013年11月28日 | 妊娠関係
 またしても放置してましたブログ!Facebookとかで日々の細々としたことをつぶやいていると、まとまった記事をブログで書くのがどうしてもおっくうになってしまいます…。

 さて、9月初旬にダメだった初の体外受精、その後月経1周期分の休憩をとった後、冷凍庫で待機していた卵で2度目のトライ。
 この卵を戻すだけの場合は、戻す前にエストラジオールというエストロゲンホルモンの錠剤を飲み、戻した後はエストラジオールに加え、またプロゲステロンの経膣ジェルを血液検査で妊娠判定するまで(2週間)続けます。

 さて、この2個目の卵を戻す日、ラボの方が残念そうに「解凍した卵にその後分裂がみられず、残念ながらこの卵を戻すことはできません。分裂がみられないのを確認した直後に3つ目(最後)の卵をすぐに解凍したんですが、この卵はまだ解凍したてなので、分裂するかどうか見届けられていませんが、あなたの身体の準備は整っているし、今日しかもうタイミングがないので、一か八か戻してみましょう。」と。

 スウェーデン人のおっちゃんドクターは「まあ、出来の悪かった卵を取り除いたわけで、最後の1個はきっといい卵だ、と希望を持ちましょう」とさっくり。ま、そう前向きに考えるしかないよね。
 前回戻す時にも、その前に通っていたクリニックでも、私の子宮口探しはドクター泣かせだったらしく、ちくちくちくちくと時間がかかり、さらにその後、処置でつつき回すせいか、じわじわ出血が止まらず、トホホだったのですが、このスウェーデンおっちゃんドクター、はじめにスキャンで子宮口への道を確かめ、すいすいとあっさり見つけ、1分ほどで卵戻し完了。その後出血も痛みも一切ありませんでした。やるな。


 そんなわけで、期待の微妙に薄い2度目の体外受精だったわけですが、そのせいか結果を待っている間もほとんど自分が卵を持っているということを忘れて生活し、「気にし過ぎるのもかえって良くないから、これくらいの方がむしろいいかも」とのほほんとおりました。

 が、やっぱりというか、人生甘くはないものです。血液検査の4日前くらいからお馴染みのアゴニキビ。生理前にどかんと出る男性ホルモンの影響?らしいのですが、毎月生理前の悪しき予告として、巨大なニキビ(吹き出物)がアゴにできるのです。あー今回もやっぱりー。血液検査でもばっちり陰性が出て、正真正銘の非妊娠です。まあ、期待も最初から少なかったので、ショックも最小で済みましたが。

 さて、今後どうしますか?すぐに次の体外受精に行きますか?(ホルモン注射+採卵)と病院で聞かれ、どうしようかなとも思ったのですが、12月はクリスマスなどみんなが取りたがらないシフトを取ったために、意外に休日が多く、実はまた治療をするにはいいかも、ということで、11月、またしてもホルモン治療スタート。前回と全く同じ薬とプランです。

 仕事上、企業戦略なんかを専門としているH氏は「うまくいかなかった前回とまったく同じ薬で、同じプランなの?そのやり方で前回うまくいかなかったのに?前回なにが原因でうまくいかなかったのかとか、調べたりしないの?仕事だったらもし部下が、前回失敗したのと同じプランのものをまた持ってきたら、間違いなくやり直しさせるか、それ以上のアイデアがないならクビにするところだ!」と、不満そうでしたが、いやいや、言いたいこともわかるけど、妊娠は仕事と違ってほとんど運任せ(とりあえず今のデンマークで無料で受けられる治療の範囲では)なので、仕方ないと思うのだけど…。H氏、なかなか納得いかず。

 まあ、そんな尻に火の点いた男は放っておいて、2度目の採卵のためのホルモン注射も、これまたまっっっっったく副作用とかなく、快適に滞りなく済み、採卵も例のスウェーデンおっちゃんドクターのゴッドハンドのおかげで、今回は卵巣痛も2日間のみ、出血もほっとんど無し、そして施術中のモルヒネ投与量を少なくしてもらったお陰で、ふらふらになることなく、「前回のあれはなんだったんだ?」というくらい、超快調楽勝で帰宅しました。
 2日前のスキャンでは1~2個を除いてみんな発育が遅い、ということだったのですが、なんと採卵できたのは計11個。うちの雌鳥マダム達もびっくりな収穫量です。

 で、本日、卵リターン日。朝ラボに電話し、試験管受精した卵達の発育具合を聞くと、11個中受精に適したものは5個、さらにその中で受精し細胞分裂が見られたものが1個、もう一個は受精したものの細胞分裂まではまだ見られないので様子見中とのこと。とりあえず1個は確実に育ってるからと、戻すことを決定し、病院へ。

 H氏は仕事でオールボーへと飛んでいたので、病院へは私一人でいったのですが、卵リターンの前に電話で話したラボの方が来て「電話でお話したように今回確実に細胞分裂が確認できたのは1個だけで、様子を見ようといったもう一つですが、まだ分裂が見られません。で、提案なのですが、一か八かの可能性にかけて、両方戻すということもできますが、どうしますか?その場合、もしも両方とも順調に育って妊娠した場合、双子ということになりますし、まあこの卵はもともとポテンシャルが高くないので、賭けみたいなものですが…。」と、また”一か八か”かい!と突っ込みたいところを落ち着け、「私はもちろん双子でも構いませんが、夫がなんと言うか…もし細胞分裂の確認できた卵だけ戻すとしたら、その卵(一か八かちゃん)はどうなるんですか?」と聞くと、「まあこれは冷凍できないので、捨てることになりますね」と。

 H氏は「双子が生まれたら困る!ワゴンみたいなファミリーカーに替えなきゃいけなくなるし(ここ重要)、君は双子育児でやつれ果てて離婚の危機になるかもしれないし、Far til fire(デンマークの人気子供映画。やんちゃな4人の子供の頼りないお父さんの話)だなんて、僕には無理だ!」と前々から言っており、「でもそんなのは不妊治療をするに当たって戯言だわ。治療するなら覚悟しときなさい」と、双子を持つ義姉にぴしゃりと言われて納得したものの、それでも子供は欲しいけど双子は困る、というのがH氏の本音でした。

 H氏には申し訳ないですが、私はどうしてもその一か八かちゃんを捨てることができず、ほとんどゼロのその可能性に賭けてみることにしました。だってもしかしたら確実と言われた卵がだめで、一か八かちゃんが生き残る可能性だってあるわけで。メークミラクル(長嶋節で)ですよ。

 そんなわけで、2つの希望という名の卵ちゃん達を、無事おなかに戻してきました。ひひひー。

 帰宅後H氏に電話で上記のことを報告すると、想像以上の狼狽っぷり…。まだ妊娠したとも、ましてや双子が生まれるとも決まったわけではないのに、きっと彼の頭にはBilbasen(中古車売買サイト)に載せられた、愛車のメルセデスが浮かんだのでしょう…。まっ、そうなったら仕方ないよねっ(るんるん)。

 あー、もう今回は2度目だし冷凍庫に卵のストックもできなかったし、本当に上手くいって欲しいです…。双子が授かったらこの上なく幸せだけど(H氏には言えないけど)、一人でも十分。無事に育ってくださいー。