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眞菰の池

2011年01月13日 | 言い伝え&伝承
歴史に精通されている大川小学校の校長先生は、資料文献から「まこもが原」が大川地区・日向にとって、とても重要な場所であったと指摘されています。そこから収穫されるお米を福田とし、現在は観音堂だけ残る福田寺のお堂がかつてはこの地にあったのではないかと推理しています。現在、その場所はプールとなり、夏には子どもたちの声がコダマします。

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「眞菰が池と池の段」(前半)

あの近所で「・・・・ココイラがまこもの原と云った所ダ・・・・」と古老が云い伝えた小学校のプール付近は、なるほど古帳によれば、まこもの原と記され、日向村の小字であって、昔、検地の時は最初に測量をはじめた所で、畑が三カ所で四畝歩余りあったようである。
此の付近は山裾の西面と、南面の傾斜地と接する辺りが小字「切屋敷」で、更に北へ「家の上」「矢切り場」「ヤゲ辻」と続く。
その名から推して、この原の中にあったものと想像される「まこもヶ池」の生成については今のところ残念ながら知るべき由もない。時は「承應」という年代の頃、日本では江戸幕府の初期で検地条例が出たり、諸国飢餓や、各地に寺子屋が起こり学者も大勢でたりした時代で、日向村には戸数七十三ー四戸があった。中にも現在、中学校運動場と県道境の辺りに、もう少し昔、二人の仲良しが住んでいた。一人は開墾に精出し、他の一人は特殊の職業であったらしい。ところが或る時、この二人はどうしたことか面白い遊びから激しい技となり、遂に腕試しとなった。まこもの生えた原っぱで、始まったのだろう。突然一人の履いた金色の靴が片方脱げて、この池に沈んだ。これではどうしようもならない。で、残った靴は、黄金の盃と一緒に土中に埋め、梅の木を植えたというが、それは何処か知れない。この付近か。また、后に出てくる山脈の付け根あたりか。近年までこの付近には、その頃の梅かとも思われる古株が一ー二カ所樹っていたものである。
或る書には「まこもの原は水涸れてその形をとどめず、明治初年以前までは池跡には作付をしなかった」とある。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)



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