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読書メモー国民党の敗北は腐敗が原因ではなかった 

2020-11-18 15:52:23 | 日記
  • 読書メモー国民党の敗北は腐敗が原因ではなかった 

    by  • December 1, 2014 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2014年11月22日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/E7Xgc

    ヒットするとは思われていなかった映画「北平(*北京)無戦事」(*「北京無血開城」。

    北京の平和解放に尽力した国民党に潜入した中共党員の話らしい)が大ヒットしたのはまず、みんなが習近平の言った「自分が飯を食う鍋を壊す輩」論の元のセリフを劇中に発見したのと、蒋経国が陥った「泥沼の反腐敗との戦い」の中に現実の投影をみたからでしょう。

    多くの人々が「胸がスッとした」と感想書いてますね。

    しかし依然として気になる問題があります。

    それは「中共の腐敗は今や遥かに国民党を超えているのに、いまだにしっかりしているのか?」です。

    《腐敗は直接、国民党政権敗亡の原因になったわけではない》

    私は以前にに書いた「”危機の共振”はまだ来ないのか?」

    http://xinqimeng.over-blog.com/article-109981500.html 

    2012/914)の中で、腐敗は政権を衰弱させるが、それは長い長い時を必要とする過程であって、政権崩壊の十分条件ではないと書きました。

    歴史的経験からみれば中国の歴代王朝の衰亡は往々にして大危機が重なったからでした。

    例えば統治集団の内部危機、経済危機(最終的には財政危機となって現れる)、そして外敵の侵入です。

    「北平無戦事」はまさに国民党政府が直面した4大危機の嵐の様子をよく描いています。

    作者は共産党のスパイで国民党側の経済学者だった冀朝鼎が宋子文に故意に間違った貨幣政策を献策したことは省いていますが、たぶん現政権に気を使ったのかもしれません。

    私がここでいう「腐敗は政権崩壊の決定的要素ではない」ということの意味は、

    中国人にとっては、これまでに植え付けられた「中国人の常識」とは違うからなかなか理解されないでしょうこの「中国人の常識」というのは実は共産党が学校教育を通じて小学校から大学まで、またメディアをつかって人々の『常識』になるように脳みそに注ぎ込まれてきたものなのです。

    ひとつには共産党が反腐敗に使ってきた「腐敗は亡党亡国」という話や、蒋経国が上海の腐敗の大物退治に失敗した事件を格好の例とする「蒋介石の国民党政府が大陸で失敗した主要な理由は軍事・政治面での腐敗が原因」という話です。

    しかし国民党時代の腐敗現在の共産党の腐敗を比べてみたらすぐわかります。

    20世紀の90年代中後期すでに中共の腐敗は遥かに国民党より深刻でした。

    国民党の腐敗の最高点は抗日戦争勝利後にそれまでの大物金持ちから接収して「兄弟みんな大成功」したのがひとつ。

    もうひとつは国共内戦の戦時物資の分配でした。

    平時の腐敗は税金の取り立てや司法の分野でのもの。

    土地が私有だったので国民政府の時期には現在のように政府が大量の土地を強制収容して住民を追い払うとかはありませんでした。

    しかし中共は違います。

    国家があらゆる資源を独占し、土地も国有(農村集団所有)で何から何まで資源、公共プロセス、政府投資、銀行資金の監督、司法、教育、医療など一切を手中に収めてしまっています。

    高官の家族の腐敗強欲について国民党の時期のことを共産党の陳白達が「中国の四大家族」という本を書き著し、宣伝効果は極めて強く中国人はみんなそれを信じました。

    しかし、いま中共の政治利益集団が民衆公共から奪った財物はたとえ40家族であってもかなわないほどで、「オフショア金融会社の秘密」やNYタイムズ、ブルムバーグの一連の調査報道の中身は陳の「中国の四大家族」の中身よりはるかに信用できます。(*参考;「中国のダーティマネーはどこへ?」 http://urx.nu/eqiz

    こうした事実から、私は国民党はなぜ負けて台湾に追い払われたのか、ということをあらためて考えさせられました。

    幸いも、一部の学者がこのことに対して大変熱心に研究しています。

    《国民党と共産党の比較;弱い専制と強固な専制》

    北京大学の歴史系教授の王奇文は数年前に「弱い独裁性政党の歴史的命運」と題する一文をものし、政党の社会的基礎、組織構造と組織管理方法を深く検討しました。以下はその概要を書きだしてみました。

    《国民党は自らの社会的基礎を持たなかった》

    1927年以後、国民党が全国的政権を掌握しソビエトロシアを模倣して一党専制を実行しました。

    しかし国民党には実際は専制の社会的条件が備わっていませんでした。

    政権を握った当時(1928年)国民党の普通党員は27万余人、それが1937年になってやっと52万余人でした。

    1929年、南京政府が制圧していたのは国土の8%と人口の2割にしか過ぎませんでした。

    抗日戦争前夜ではやっと国土の25%と人口の66%でしたが、その管制力は非常に弱いものでした。

    「党の力不足のために南京政府は都市の上層部に限定的な接触しかできなかったし、県以下の農村の基本社会は自治状態のままだった」と。これが共産党が辺境地区で生存できた原因です。

    また、「大量に北洋旧官僚をその各級のシステムに組み入れたため、北洋官僚界の旧習が新政権でもずっと続いてきた」。

    これにたいして「中共が全国を掌握したときには600万人以上の党員を擁し、そのうちの331万人が専従党員(1952年).

    1958年には党員は1300万人以上で、専従が792万人、2013年までに中共の党員は8668.6万人で18歳以上人口の8%でこれが中共の広範な社会的基礎となっています。

    国民党政府の軍隊に対するコントロール力は中共より弱かった

    国民党政権を支える力は党員と党機関ではなく軍人と武力でした。

    党と政府と軍の三者の中で党の力はもっとも脆弱でした。

    抗日戦争時も戦後の「共産党掃滅」時期も真っ先に崩れたのは往々にして党で、次に政府、最後が軍隊でした。

    ある地方に進駐するのも一番先が軍隊で、次が政府、最後にやっと党幹部でした。

    共産党はこれに対して党の力量は往々にして軍政の前衛であり、ある地区を占拠するとまず真っ先に党の組織がやってきて、そのあとで軍・政の力がやってきました。

    またある地区から撤退するにも軍・政が引いてのちにも党の組織は依然として踏みとどまって戦闘を継続したのでした。

    ですから国民党政権時には「国民党は完全に軍の従属物」で派閥が乱立し地方軍閥は一地方の軍事、政治、経済を独占し、国民党政府中央とはますます離れた存在になりました。

    共産党はその点、在野であろうと権力を掌握していようと、すべて党が政治的な革新的役割を果たしており、党の軍に対する絶対的な指導、つまり「党が銃口を指揮する」原則を堅持していました。

    1927年に毛沢東が「三湾改変」で軍隊の中に必ず共産党小組を作るという方法で軍権をしっかり党の手中に収めたのでした。

    国民党の対社会的浸透力ははるかに中共に劣った

    「国民党は執政以後も既存の社会機構と接触しなかった。

    国民党は政治的に合格した党員を選抜して各級の政治と社会機構の中に派遣して新しい立脚点をつくることをしなかった」

    「また党員を陶冶して社会の模範となるようにして社会の様々な模範とし民衆の信用と擁護を勝ち得るような努力もせず、資質をしっかり分別もしないで旧社会の勢力から党員をかき集め国民党に加入させた」「そうした連中は国民党のバッチをつけてはいても、要するにただこれまでの既得権を保つだけが目的だった」。

     

    これに対して中共の組織は極めて厳密だった。1949年中共政権成立後は中共は農村と都市の中に浸透し最後には農村では人民公社制度を通じて、都市では道路事務処と居住委員会制度を通じてそうした基礎組織の中に党の支部を建設し、全社会の隅から隅までコントロールした。

    十数年前からは中共は私企業の中にも 党支部を建設し、企業に対してもコントロールできるようになった」。

    中共はかくていかなる僻地の隅々でも目が行き届き、かっての毛沢東時代の井崗山や陕西にいたころのように各地に革命根拠地をもとめなければならないなどということは起こり得ないのです。

    国民党は党脱退にも放任政策をとった

    王奇文はさらに「国民党の政府部門と国有経済部門を担当した公職者が必ずしも国民党員ではなかったし、党をやめても懲罰を課す制度はなかったと言及しています。

    「1947年9月、国民党6節4中全会が南京で開催され、席上、蒋介石は3青年団を国民党に合併し、国民党の全党員、団員は再登録する決議をして、その腹積りでは合併後、総党員は1000万人を超すとおもっていた。

    しかし1948年11月、党員、団員で再登録したものはわずかに132万人だった。

    つまり、この合併の過程で9割が国民党を脱党したのだった」「この時同時に国民党中央は1947年から県級の党務経費支払いをやめてしまった」
    「県以下級の幹部たちは自分で生きていけということになり、こうした状況のもとで各県の党には一人か二人が残るだけとなり、また全く誰「この情景は国民党が軍事的な大潰走の前にすでに崩壊していたという事実を表している」。

    中共党員は除籍されたり脱退を勧告された者以外、自ら脱党した者は「反逆行為」とみなされ攻撃され、時には肉体的な抹殺まで含まれていました。

    中共政権発足後、歴史的汚点としての事件がたくさんあり、何度も政治運動の粛清の対象になったのですが、文革時期には1936年、北方の責任者だった劉少奇が中共総書記の張聞天の許可を得て幹部の力を温存するため61人の国民党に逮捕された幹部が自首して保釈手続きをとった”偽装転向”ですらも、「61人の反逆者集団事件」とされ、6000人以上が巻き添えになったのでした。

    現段階で中共に面従腹背の人々は少なくありませんが利益関係のしがらみによって中共党員は「自分から党と縁を切る」ことはできず、自分から党を辞める人は大変すくないのです。

    以上の論述は中共政権というこの強力な専制政権の組織機構、方式、結束力などから その攻撃能力は国民党の弱い専制政権の比ではないことを明らかにしています。現在、「組織化なし、中心化なし」というネット革命で中共政権と戦う人々にとって、この一文で少しばかり歴史的経験を提供いたします。(続く)

    続編は、国民党と共産党の異なった社会コントロールのやり方について比較してみます。


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