日本最西端の与那国島(沖縄県与那国町)は、約110キロ西の台湾と終戦直後まで交易で栄えた。
島民は「景気時代」を懐かしむが、往時の隆盛は見る影もなく、本土復帰から50年たった今も、台湾との交流は途絶えたままだ。
終戦までの50年間、台湾は日本が統治しており、与那国島とは人々が自由に行き交っていた。
米軍統治が始まり、台湾に自由に渡航できなくなったが、1950年ごろまで島は交易の拠点となった。
町史などによると、47年の島の人口は約5700人だったが、商人や台湾からの引き揚げ者を加えた住民は1万2000人以上と推定され、裁判所や警察署も置かれていた。
島西端の久部良地区で暮らす長浜智恵子さん(89)は、商人や船乗りで昼夜問わずにぎわっていた日々を「人がぎっしりで、肩と肩がぶつかった。バーも70軒以上、岩陰にまでできた」と記憶する。
父を結核で亡くし、母を助けようと洋裁店で働いた。
夜の飲食店で働く女性の洋服の仕立てに追われて寝る暇もないほど忙しかったという。
家々の軒先には、台湾から持ち込まれた米や卵が山積みになり、沖縄本島からは米軍払い下げの衣類や油類などが入った。
「卵も食べられない時代に、皆ぜいたくな暮らしをしていた」。
島では「道にこぼれた米粒を鶏もつつかなかった」と語り継がれる。
米軍が「密貿易」として取り締まりを強化すると、町の活気は「ぱっと消えてなくなった」が、交易はひそかに続いた。船乗りだった夫は時折、自身のカツオ漁船で深夜に出航した。「夫が台湾商人と『次は何を持ってくるか』と交渉するのを台所で聞いていた。見つかれば命が危ないから、毎回戻ってくるか心配だった」と回想する。
台湾商人とはその後も家族ぐるみで付き合い、台湾からの「密航中」に自宅に泊めたこともある。「悪いことと言われればそうだが、親しい隣人だった」
町は今も、日常的な往来を取り戻そうと、定期船の就航を目指す。
ただ、国際航路となるため検疫や税関など制度面で課題が残り、実現していない。国に国境交流特区を申請し、拒否されたこともある。
島民は1700人弱まで減った。
「島に住んでいた活気ある『糸満グチ』(沖縄県糸満市の方言)を話す女性たちも亡くなり、威勢の良い競りの声が漁港に響くこともない。
寂しい与那国になった」。
長浜さんは往時の隆盛をしのんだ。
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