goo blog サービス終了のお知らせ 

日本と世界

世界の中の日本

韓国若者世代、2人に1人「決まった時間、業務範囲内でのみ働く」

2023-02-08 18:07:18 | 日記
韓国若者世代、2人に1人「決まった時間、業務範囲内でのみ働く」

2/8(水) 16:03配信


【02月08日 KOREA WAVE】

韓国で職場生活をしているMZ世代(1980年代~2000年代初旬の生まれ)の2人に1人が、決まった時間と業務範囲内ですべきことだけを最小限にするいわゆる「静かな辞職」中という調査結果が出た。

 求人求職のアフバイト専門ポータル「アルバ天国」がMZ世代の1448人を対象に調査した結果、
アルバイト生45.2%、会社員47.5%が「現在静かな辞職中」だと答えた。

 具体的には「自分から仕事を見つけたり追加で引き受けたりしない(アルバイト生45.8%・会社員54.2%)」という事例が最も多かった。

これに
▽超過勤務をしない(アルバイト39.0%・会社員38.2%)
▽本業外の副業・趣味活動で自己実現(アルバイト29.5%・会社員36.6%)
▽決まった業務時間以後、仕事関連の連絡を受けない(アルバイト24.3%・会社員38.2%)――が続いた。
 回答者79.7%は「静かな辞職」を肯定的に考えているようだ。
理由としては「正当な報酬を伴わない追加労働に対する否定的認識」が62.7%で最も高かった。

 次いで
▽仕事と日常の分離が必要だから(37.4%)
▽仕事は単にお金を稼ぐ手段だと考えて(23.2%)
▽会社と個人の成長を区別するため(20.3%)
▽仕事・成果中心の社会が変化することを願うから(13.6%)――などの回答が続いた。

 反対に「静かな辞職」を否定的にとらえると答えたのは20.3%。

最も大きな理由として「仕事の能率低下」(52.0%)が挙げられた。 

(c)KOREA WAVE/AFPBB News


「自国に絶望した」韓国の若者 人材不足の日本に大量流入

2023-02-08 17:55:12 | 日記
「自国に絶望した」韓国の若者 人材不足の日本に大量流入
  • 著者アレン琴子
    フォロー
長年にわたり、就職難が社会問題となっている韓国で、海外就職を希望する若者が増加傾向にある。

その大半は、韓国政府が推進する海外就職プログラムを介して日本へ斡旋されており、日本も人材不足解消策として受け入れ枠を拡大している。

将来有望な韓国の若者を海外に駆り立てているのは、自国に対する絶望感だ。

「高スペック社会」で高学歴でも3~4割が無職
韓国統計庁のデータよると、15~29歳の失業率は2012年以降上昇し続けており、2020年には日本の2倍に値する9%だった。韓国のトップ4大卒業生の就職率は過去数年60~70%と、高学歴でも3~4割が職にあぶれる過酷な現状だ。
厚生省の報告書や現地の事情に詳しい人々の証言から判断する限り、総体的に就職口が不足しているというわけではない。金融危機(2008~2009年)以後に正規職が契約職に代替されたことに加え、「高スペック社会」が、就職難の要因として指摘されている。
格差社会の韓国で、一流企業に就職するのと中小企業に就職するのでは、その先の人生が180度違う。だから皆、必死に高学歴・高スキルを目指す。2020 年の大学進学率は98.45%と、アジア圏で断トツトップだ。
しかし、サムスンやヒュンダイを含む上位10社が国内の時価総額の半分を占める韓国において、高給高待遇の大手企業や公的機関への就職は極めて狭き門である。ロイターの報道によると、従業員数250人以上の企業に就職できるのは国の労働力の13%しかいない。また、2019年は大卒者約30万人に対し、大手・公的機関の就職口はその3分の1以下だった。
結果的に多数の若者が、学歴に見合わない低賃金職で身を粉にして働かざるを得ない。「だったら働かない方がマシ」とふてくされ、無職に甘んじる若者も少なくない。
老人貧困率OECD中1位 国民年金は2055年に枯渇?
それに加えて、不平等な国民年金制度が将来への不安をさらにあおる。
同国の国民皆年金制度は設立されてから20年と歴史が浅く、高齢者(55~79歳)のうち「無年金者」が過半数を占める。受給額も職業により格差が大きい。2015年の公務員年金は約234万ウォン(約22.2万円)、軍人年金は約273万ウォン(約25.9万円)だったのに対し、国民年金の平均月額は約31万ウォン(約2.9万円)、基礎年金は約13.1万(約1.2万円)ウォンと驚くほど低かった。
追い打ちをかけるように、急激な高齢化で国民年金が2055年には完全に枯渇する可能性が高いことが、年金当局の分析で明らかになった。韓国経済研究院は、国内の老人貧困率が2020年に40%を超え、OECD37ヵ国中最も高い現状に警鐘を鳴らしている。
「一生懸命頑張って勉強しても、低賃金で一生働いて年金すらもらえない」」と、将来に絶望して自らの命を絶つ者が後を絶たない。同国の自殺率は世界4位、OECD加盟国中1位である。
8割以上が「韓国脱出したい」
絶望した若者が、残された希望として向かう先は「海外」だ。
就職サイト「ジョブコリア」が韓国の20~30代を対象に実施した調査では、84.9%が「チャンスがあれば海外で就職したい」と回答した。人気が高いのは、高齢社会化で労働人口が不足しており、かつ里帰りしやすい近隣国の日本だ。
韓国は2005年から、雇用支援サービスの向上を国家戦略課題に掲げている。2013年に導入された、若者の海外進出支援プログラム「K-move」はその一貫だ。
同国の雇用労働部の発表によると、2018年の時点でネットワークは世界70ヵ国に拡大しており、2017年には5,783人の大卒者が海外で就職した。そのうち3分の1が日本へ4分の1が米国へ、残りはシンガポール、オーストラリア、その他の国へ流出した。
新型コロナによる入国制限の影響でコロナ禍の動きは低迷しているが、規制緩和後は、さらに大量の人材が流入することが予想される。
在日韓国労働者6万人突破 「高度人材5万人」アジア圏から誘致
人材不足で頭を抱える日本企業にとっても、韓国の優秀な人材は喉から手が出るほど欲しい存在だ。
実際、日本の韓国労働者数は2020年10月の時点で、全在日外国人労働者(約172万人)の4%に値する6万8,000人を上回った。「専門的・技術的分野」の在留資格保有者は全体の44.6%と、G7/8+オーストラリア(56.9%)の国々に次いで高い。
2018年には外交部と雇用労働部が提携し、「韓日つなぎプロジェクト」を発足させた。5年間で韓国の若者1万人が日本で就職できるように、求人から育成、マッチング、就職後のケア(支援金含む)までを提供する。
さらに2021年11月には、経済産業が「アジア未来投資イニシアチブ」の設立を発表した。デジタル国家戦略の一環として、デジタル分野などに強いアジアの高度な人材5万人を対象に、今後5年間にわたり日系企業への就職を支援する。
「月収は契約した金額の3分の1」利用者から不満の声も
その一方で、一部の海外就職支援制度の利用者からは、「いざ現地に到着したら給与や雇用条件が聞いていたものと違っていた」という声も聞かれる。
2017年に「K-move」を介して、シドニーで水泳コーチの職を得た30歳の韓国女性は、「蓋を開けたら月収は600豪ドル(約4.8万円)。契約条件の3分の1もなかった」とロイターに語った。家賃を払う余裕すらなかったため、店舗の窓ふきのアルバイトと掛け持ちして何とか凌いでいたが、辛さのあまり1年もたたずに帰国を決めたという。
グローバル人材の獲得戦が展開されている現在、人材難に悩む日本企業にとっては、海外の若者が安心して日本で就労できる環境創りが重要な課題となるだろう。
将来有望な若者が大量流出
若者の海外流出は、日本側には優秀な人材の確保、韓国側には失業緩和というメリットをもたらすため一見ウィンウィンの関係に見える。しかし、長期的な視野に立つと、韓国側にとっては将来有望な若者がどんどん流出していることにほかならない。これらの若者が「いずれ自国に戻って来る」という保証は、どこにもない。

文・アレン琴子(英国在住のフリーライター)


今書き遺すノモンハン事件の激戦

2023-02-08 11:07:25 | 日記

今書き遺すノモンハン事件の激戦


和田 正治 大正四年二月九日生(八十四歳)

昭和十二年十一月、私は二ヵ年の現役を終えて帰郷していた。十三年二月召集令状がきて、旭川第二十八連隊第三中隊に入隊する。七師団に満州派遣の動員令下令される。
一月十日 入隊の初年兵を主軸に、私等召集兵を基幹として満州派遣部隊の編成をする。
三月一日 七師団は出陣、旭川衛戍地(えいじゅち)を軍旗を先頭にして出発。
三月二日 改造の貨物船にて室蘭港出帆、母国と別れる。
三月六日 北朝鮮羅津港上陸一泊。
三月七日 満鉄の貨物列車に詰められて、凍る北満の拡野を走り続ける。
三月九日 北満の「チチハル」に到着駐屯する。
三月十日 北満の警備についた。
八月東郡国境にソ連軍が越境し張鼓峯(ちょうこほう)事件が勃発、吾が芦塚部隊(二十八連隊)が出動する。
昭和十四年五月、満蒙西部国境にて勃発の戦闘以来六十年が過ぎ去り忘れられ様としている。郷土の二十一歳の若者、北村(島津)、西谷(東中)、永楽(富原)、山口(市街)の四人の諸君が激戦で、若い尊い生命をお国に捧げて戦死された。
この激戦を郷土の皆様に語ることなく流れ去って行くこと残念に思う。満州から帰還後村民に「ノモンハン」の戦闘を語ることを強く禁じられていた。町内でも「ノモンハン戦」参加者は中央区の千葉誠君と私二人になり、他は亡くなった。
私も八十歳の峠を越し四人の方の激戦の思い出と吾が中隊の行動を書き御冥福を祈らんと決意し、書くことにした。
―― ノモンハン事件とは ――
モンゴル人民共和国と満州との国境ノモンハン地区での日ソ両軍の衝突事件。一九三九年(昭和十四)四月、関東軍は「満ソ国境紛争処理方針」を発表、国境線不明個所の国境線は防衛司令官が自主的に認定するという対ソ強硬方針を採用した。ノモンハン付近の国境不明確な地点(日本はハルハ川の線、ソ連はそれより十三キロ東方のノモンハンの線を主張)で、五月二十二日ハルハ川東岸にはいったモンゴル軍と日本軍との衝突がおきたが、モンゴルとの相互援助条約によるソ連の機械化部隊のため、同月末日日本軍は全滅した。六月二十日、関東軍は第二三師団に第一戦車団・第二飛行集団などを加えた大部隊をノモンハンに集結、陸軍中央部の事件不拡大の説得の前に、二十七日モンゴルの拠点タムスクに対し、一三〇機による爆撃を強行、関東軍独走の局地戦争となった。これに対しソ連側は、ジューコフ将軍指揮の第一軍団が戦車・銃砲・飛行機の援護で八月二十日から全面反撃に転じた。そのため日本軍の火炎びん作戦も第七師団による増強も失敗、第二三師団の死傷者は一万一〇〇〇余人、死傷率七〇%を超える被害をうけた。たまたま独ソ不可浸条約の締結、欧州大戦の勃発に直面した。陸軍中央部は関東軍の反対をおさえて、九月四日攻撃を中止し、兵力撤退を決定、関東軍司令官以下首脳部を更迭、以後モスクワでの東郷重徳・モロトフ間の外交交渉で九月十六日停戦協定が成立した。
「ノモンハン」の戦闘は、満州西部国境の満州国領と外蒙古領の境界にて起る。「ハルハ河」と言う大きな河が流れ、一望千里の満蒙国境は砂原の平野が続き河の水は大切な資源であった。昔から両国はこの河を自分の領土として主張して小競り合が起きていた。昭和十四年五月外蒙古軍が「ハルハ河」を越境して満州領に陣地を構築してきた。それで満州国軍が追い返し、「ハルハ河」を奪回して追いつ追はれつ、小戦闘を繰返していた。その中外蒙古は共産主義国家でソ連が支援していた。ソ連軍が近代兵器や飛行機、戦車部隊を逐次増援してきた。やむなく関東軍は「ハイラル」駐屯の「小松原師団」(九州部隊)に動員をかけ、遂に満蒙軍は影をひそめて、日ソの「ノモンハン」の激戦が始まった。ソ連軍は驚くばかりの物量戦を展開、これに小松原師団は対抗して反撃なせるも、日ソの被害は甚大なものであった。ソ連はひるむことなく益々飛行機、戦車など近代兵器を繰入れて日本軍に攻撃してきた。
関東軍は六月二十日、「チチハル」駐屯の園部師団(七師団)の須見部隊(二十六連隊)と吾が芦塚部隊(二十八連隊)に動員下令された。六月二十日に先遣隊として須見部隊と吾が芦塚部隊の二大隊と速射中隊を出陣させて「小松原師団」の指揮下に入る。両軍は「ハルハ河」の争奪戦が激化して、一進一退悪戦苦闘が続き死傷者も多勢出て部隊に帰還し、安置所の白木の箱も日毎に増えて行った。関東軍は待機中の芦塚部隊(二十八連隊)と砲兵中隊に八月一日出動命令を下令した。
三十一日夜半、満警と満軍が町の十字街にて満人の客馬車の馬夫と満馬を物言わず徴発して、日本軍に引き渡すのであった。部隊の裏側には、引込線が「チチハル」駅から入っていた。その引込線に黒々と長い軍用貨物列車があり、日本の将兵や清人の馬夫と馬、野砲、軍馬がこの貨車に詰め込まれていった。八月一日未明引込線を出陣、「チチハル駅」を経て翌二日昼頃「ハイラル駅」に到着し下車する。「ハイラル」の駅には公主嶺駐屯の戦車部隊が、指揮官の戦車を引いて帰っていた。戦車部隊兵から、皆どちらから来たのかと尋ねられる。「チチハル」の北海道部隊と言うと、気の毒だが日本の戦車は指揮官全員戦死全滅、戦地には日本戦車は一台もないとのことで、公主嶺の部隊に還るのだと言う。戦塵真黒な兵士の顔、いささか哀れと思う。私達はその戦場にいくのである。悲壮な心になる。吾が部隊は出動の「小松原師団」の空兵舎に一泊する。夕食時に一杯の「ビール」にて小隊長を中心にして別れの乾杯をする。
翌三日薄暮、吾が部隊は夜行軍にて軍旗を先頭にして堂々と「ハイラル」を後にして戦場に向けて進軍を始めた。愛国婦人会の襷をかけた十数人の日本婦人に混じって、白系ロシア婦人三、四人が送ってくれた。
昼間の行軍は敵ソ連の爆撃機の恐れがあるので、部隊は夜行軍をするのだ。夜通し歩き未明部隊は砂原の平原に散開して夕暮を待つのであった。又夕暮に行動開始、草原に軍靴と砲車がつけた一本の軍用道路が、草原の彼方にどこまでも続き、その上を将兵は一歩、一歩歩くのである。三晩も歩くと些か将兵は疲れが出てきた。四十五分歩くと十五分の小休止、兵は道の両側に「背のう」を着けたまま「ゴロ寝」で鉄砲を抱えて眠りに入る。防蚊網をかぶって眠る兵隊に、満州特有の大きな蚊が真黒に襲来、上から刺すのであるが払う力もなく眠りにつくのである。
「背のう」の中には靴下に入れた白米や着替えの襦袢その他、又その上に、腰の帯革の前金に六十発、後金に六十発の銃弾、「雑のう」には手榴弾や医薬品等を入れており、器具等を含めて四十キロ近くもある。兵は疲れ果てているが戦場に向う闘志は意気盛んである。
毎日、地平線の大草原に沈む赤い夕日を拝みつつ夜行事が開始される。人家は一軒もなき草原で、道端に「ゴロ寝」する兵士達が仰ぐ満州の夜空には、星が輝いている。故郷の父母や、同胞を思い夢を見て眠るのであった。満蒙の草原には一滴の水もない。夜行軍で水筒の水も朝までに呑み干すのであった。行軍開始の翌朝から兵隊の呑み水は「給水トラック」で「ハイラル」から中隊に「ドラム缶」一本の水が配給される。軍馬の水は消防自動車で運ぶ。「ドラム缶」の水は石油臭くて苦労する。散開の兵は朝方一本の水筒の水で三食の炊飯をして又水筒に夜行軍の呑水が一本配給される。一晩に四十キロ位の行軍を続けるのである。三日位すると軍馬は赤い消防車を覚えて、見ると「イナナキ」水を持つ可愛いものである。石油臭い水もぜいたくは言えぬ。
兵もすっかり足を痛め疲れきっていた。四晩歩いた、人家は一軒もない草原、七日朝友軍の飛行場が見えた。若干の戦闘機が攻撃に飛び立っていった。武運を祈る。
八月七日、十時頃目的地の採塩場についた。小さな沼があった。その横に蒙古包が二つある。そこで激戦になるまで満人が塩を取っていたらしい。沼の水は塩分で飲めない。当分ここでソ連軍の進攻を見んと待機することになる。「ハイラル」から百四十キロ以上夜行軍で連続歩いたのだ。
各中隊から二名使役兵を出して沼の端に飲水の鉄管三本の「ボーリング」を打ち始めた。広野にその音が響いた。綺麗な水が出た。兵士はその水で汚れた身体を拭き飯盒炊飯をする。部隊は二十個分隊毎に携行天幕にて幕舎を建て、草原の丘には無数の部隊天幕が立って見事である。夜になるとその中に二個分隊毎、軍衣は着たまま、枯草を集めて敷き、夏外套をかぶって「ゴロ寝」をするのだ。戦場とは、このこと、明日の命も分らない運命だ。夜は幕舎内での「ローソク」の灯は禁物であった。
蚊の来襲を防ぐため真暗の中に兵は眠りにつく。吾が幕舎の上には軍馬が一列につながれている。夜になると軍馬は蚊を払う足音と、尾のうなりが一晩中聞える。野戦で始めてのお盆を迎える。
欧州では「ドイツ軍」が猛進撃を続けていた。敵ソ連軍の情報が入る。ソ連は不可侵条約を締結し、「ポーランド」国境に布陣のソ連軍を引き揚げて、二日程で「ノモンハン」に移転したとのこと。これが重砲火、飛行機、戦車、狙撃師団の近代兵器の装備の最強の部隊であった。
八月二十日、草原に待機中の吾が部隊に、「ノモンハン」の激戦地に向けて出動命令が出る。吾が三中隊は、野砲と満夫満馬の輸送隊の護衛中隊として夜行軍を命ぜらる。愈々ついていない。他の部隊は「トラック」輸送で急遽戦場に行くことになった。朝から部隊は幕舎を撤去、身体を清め千人針を腹に巻き各中隊は出動の準備をする。赤い夕日が地平線の彼方に沈む頃に、吾が中隊は行軍を開始する。彼方には砲車を曳く六頭曳きの軍馬の隊列や、満人の輸送隊が長々と続く。草原の一本の軍用道路を兵は黙々と進軍する。
翌朝「ノモトツリン」に着いた。当地は満軍の騎兵隊が守っていた。散開して三食の飯盒炊飯をする。後続の「トラック部隊」が追越して行く。夕暮に行動を開始し、しばらく歩く。行軍部隊は道路両側にて大休止、夕食をとる。西方の空に変な音がする。
皆が見ると、ソ連の爆撃機らしい。四、五機こちらに向って飛来する。大休止の吾が部隊に近づくと「バラバラ」と爆弾を投下する。夕焼けに輝いて見える。
爆弾は部隊の両側百米位に落下、爆発炸裂して砂土を噴き上げ、物凄い轟音と噴煙が立ち込めた。幸いに吾が部隊には命中せず、飛び去って行く。愈々戦場なのだ。夜は更けて行く。
無言で兵は歩く。時折「ライト」を消して「トラック」の輸送部隊が追越して行く。夜空に星がまたたいている。敵の爆撃機が数機吾が頭上を飛び去って行く。吾が行軍部隊には気がつかない。爆音に空を見ると星が「チラチラ」とさえぎられ敵の機影が見られる。数分すると遠方眼前に今の爆撃機が投下した爆弾が炸裂し、火花が噴き上げる。戦場は近いのだ。惨劇な戦場で兵士は闘っている。朝「将軍廟」に着いた。
以前ここまで戦場であった。小高い丘に小さな廟がある。色の法衣を着た僧が二、三名で廟を守っていて、私達を見送ってくれた。いずこも同じで、信仰は強かった。
小休止後又歩き続ける。戦場は近づく。丘の草原に焼かれた敵装甲車や戦車が真黒くなって放置されている。昼頃日本の野戦糧抹所に着いた。昨日夕べの六時から十六時間歩いたのだ。
ここで大休止の最中空襲警報が鳴る。兵は散開して「蛸ツボ」の壕を掘って一人当て入る。これも「ノモンハン」戦で発明された壕である。私達日本軍は横に長い散兵壕の指導を受けていた。「ノモンハン」では、敵戦車はその散兵壕に片側の「キャタピラ」を入れて兵を引き殺して行くのだ。それで一人当ての丸い「タコツボ」式の壕に切り替えたのだ。兵は「蛸ツボ」で仮眠する。
夜半敵爆撃機が襲来し、照明弾が投下され地面は明るくなる。それをめがけて爆弾が投下されるのだが、我が方では敵機が見えぬ数分間が続く。地上の炸裂の轟音と大煙が噴き上げて去る。静かになる。大丈夫かと叫ぶ声、大丈夫と応える声が飛び交う。吾が中隊は一人の被害者もなかった。爆弾は恐ろしくはない。
夜が明けてみると糧株所はやられていた。朝方出発。吾が行軍部隊の進む道には、敵爆弾が開けた「トラック」の入る程の大きさの穴が数カ所ある。以前に行軍部隊を爆撃したあとだ。又道端に焼けた敵の戦闘機があり、その横に焼けこげたソ連飛行士が真黒になって死んでいる。誰も葬る者もいない。それを見て進む。哀であるが戦場なのだ。
夕方吾が中隊の行軍部隊を、烏の群来の様に無数の敵戦闘機が低空飛行で頭上「スレスレ」に襲撃してきた。中隊は散開し応戦する。
池に豪雨が降り無数の水しぶきが上る様に、兵の身辺には機銃弾が砂土を噴き上げた。数分後敵機は去った。吾が兵士は銃身が焼ける程射ったが敵機は一機も落ちなかった。吾が兵士も、一人も敵弾に当たらず無事であった。弾は当らぬものと兵は確信する。
やっと夕方部隊に復帰する。柳の幼木が見渡す限り草原に密生していて、その中に吾が兵は散開する。
しかし、夕暮には敵戦車は吾等を見つけて戦車攻撃を始め、弾丸を射ってきた。「ズドンズドン」と吾身辺に炸裂する。不気味である。吾が速射砲が撃ち返すと、敵は逃げ去った。
柳の原の中に、二人入る大きさの「蛸ツボ」を掘って入る。日は暮れ、柳の下に穴を掘って三食の飯盒炊飯をする。
壕の中で夕食「干しホーレン草」に生味噌をかじっての夕食。小雨が降ってきた。壕の上に天幕を張って雨をしのぐ。兵と共に壕の中で仮眠する。爆音も止み戦場は静かに夜は更ける。未明二時頃に起床、集合の命令が響く。兵は一斉に壕から出る。夕べの雨が少し天幕に残っている。生味噌で水が欲しい兵は皆天幕の水をなめてしのいだ。満蒙の朝は冷える。部隊は集結する。小隊に一缶の「ガソリン」が配給された。私は「背のう」の上に背負う。部隊は前進を始める。霧のため十米先も見えぬ。時々停止し道を探しながら、やっと進駐した。朝霧で腰から下が「ベチョベチョ」に濡れ、寒く身振いがする。朝食をする。兵は、甘味品にあがった「サイダー」の空瓶を「雑のう」から出して、「ドラム缶」の「ガソリン」を詰める。敵戦車攻撃をするのだ。朝霧のため二十米先程しか見えぬ。
愈々今日は敵陣地に部隊は総攻撃をするのだ。「小松原師団」の残存部隊と吾が芦塚部隊(二十八連隊)と須見部隊(二十六連隊)は、霧の中の前線に横一線散開し待機する。朝八時頃霧も少しずつ、晴れてきた敵陣地七八〇高地の丘が見えてきた。ソ連はこの丘に近代兵器の陣地を構築し、日本軍の進撃を阻止せんとしている。丘まで二千米位あるであろう。
谷間から敵戦車が三台出てきた。吾れに射ってきた。弾は身辺に炸裂する。吾が速射砲が反撃する。一台は焼け上る、二台は谷間に逃げ去って行く。
間もなく「ハルハ河」後方敵陣地から、吾が後方の野砲部隊に向けて、十五糎砲弾攻撃の射ち込みが始まった。
吾が頭上は轟音にて兵の話声も聞えぬ。敵は一日三万発も射ち込んだそうだ。霧も晴れて陣地の丘もはっきり見えてきた。
やっと十時、総攻撃の命令が出た。日本兵は重い「背のう」と銃弾を背負い散開して前進する。友軍の志気は猛盛である。千米位前進すると敵砲弾は吾が前進部隊に射ち込んできた。砲弾は無数に炸裂し、機銃弾が物凄く身辺に射ち込んでくる。左右に散開する。部隊の姿がかすんで見えぬ程、砲煙で曇っている。
「ノモンハン」の草原は、一瞬にして爆音と炸裂音が鳴り交し、騒然となる。その下を兵は這う様にして敵陣に近寄る。吾が小隊長も足を敵弾に射ち貫れて歩行困難になる。兵も「ヤラレタ」の声がする。
携帯の綿帯で仮治療して前進する。小隊長は吾れに小隊を指揮して前進する様に命ずる。吾が横を機関銃の兵が前進している。その兵に敵砲弾が炸裂した。爆音と共に砂土が天空に噴き上げる。やられたと思うと爆煙の中から、二人の兵は重機関銃を提げて走り出てきた。「生きていたのだ」私は思わず拝む。敵弾は雨霰の如く射ってくる。五、六百米位前進するも丘の陵線には陣地らしきもの見えぬ。何故これ程射ってくるのか不思議でならぬ。三百米位まで近づくと、漸く丘の麓に動く敵の鉄帽が見えた。一線陣地がこんな処にあったのだ。
ソ連は日本軍の攻撃を察知し戦略を変えていたのだ。日本兵は昔から一線陣地は陵線にあるものと指導訓練されていた。ソ連は裏をかいていたのだ。私は三個分隊の軽機に射撃を命じた。軽機は一斉に火を噴いた。擲弾筒分隊も射ち込んだ。敵の壕は土煙りを上げて噴き飛ぶ。敵兵は這って五十米近く接近する。私は突撃をする。一斉に兵も飛び立って昼頃陣地に突撃する。その時私は二線陣地の狙撃兵の銃弾にて左肩から脇下に射貫かれて重傷を受けた。出血は千人針にたまっている。吾小隊の兵二名が戦死、多数の負傷者を出してしまった。敵の戦車は火焔放射器で歩けぬ兵を焼き殺して行くのだ。悲惨な戦場だ。
総攻撃の日、部隊は戦死者と負傷者で戦力半減になった。敵の壕の中にも戦死者と負傷者があった。翌未明「トラック」の給水車に拾われて野戦病院に収容される。驚いたのは柳の幼木の下に何百と言う負傷兵がうごめいていた。敵の空襲をさけるため柳の木の下にかくれていたのだ。一昨日第二野戦病院をソ連戦車が襲撃、全滅したとのこと。赤十字の旗を立てているが、そんなものも容赦なく、情けも涙もない。戦争と言うものは、こんなものかと知りながらも、敵を憎む。
夕方十数台の患者輸送のための「トラック」部隊が来た。
柳の下の重傷兵を衛生兵が「トラック」に乗せる。
薄暮「トラック」部隊は「ハイラル陸病」に向う。「ハイラル」まで百六〇キロ以上あった。夜中には敵戦車が出没し、停止、散開の繰り返しである。私は「ハイラル陸病」に収容後も、陸病を転々と三カ月治療が続いた。
二十四日の総攻撃では、敵は一歩も後退せず抵抗した。友軍は凹地に集結したが、敵は昼夜を問わずに迫撃砲と戦車攻撃を続ける。止むなく日本軍は八月二十四日の総攻撃地点まで後退する。
敵狙撃兵は全員「眼鏡付小銃」を持って射撃してきた。日本兵は昔の三八式小銃で反撃する。装備は天と地の差である。部隊は後退して支援部隊を待って二次の総攻撃を計画した。この矢先九月十六日停戦協定が結ばれ激戦は終った。「ハルハ河」から深く入って、国境線を認めた。日本魂、肉弾戦はソ連の近代戦と物量戦には完全に負けたのだ。前記の郷土の若い兵士四名も、各中隊に配属になって激戦に参加しており、悪戦苦闘の中で若い命をお国に捧げたのである。
吾が中隊も中隊長以下二十八名の戦死者と多数の戦傷者を出した。三ヶ月の激戦にて七師団(旭川)の戦死者は一、五〇五名にのぼり、殆どが須見部隊(二十六連隊)と吾が芦塚部隊(二十八連隊)の兵士であった。
一、五〇五名は一個連隊全滅と同様である。如何に激戦であったかを物語るのである。戦争は二度としてはならぬ。私は再度の召集を受けたが、二十年八月敗戦になり軍隊は解体された。十月に曹長の軍歴を捨て郷里に還り、一介の百姓として第一歩を踏み出し英霊に報いんと生き抜いてきた。
生き残りを詫びて只々戦死の皆様の御冥福をお祈り申し上げます。

韓国“半導体二流国”に陥落

2023-02-08 10:33:13 | 日記
韓国“半導体二流国”に陥落。台湾との圧倒的技術力の差が露呈し、韓国経済は暗黒時代に突入する=勝又壽良

2022年10月9日

“半導体大国”を謳っていた韓国だが、生産する半導体は技術力を要しない汎用品が大部分を占めていた。

一方、高い技術力を要する半導体は、台湾が先行しており、世界市場の中心となりつつある。韓国は“半導体二流国”に成り下がった。

工業生産の大部分が半導体だった韓国経済は、暗黒の時代を迎える可能性が高い。 

「半導体がこけたら皆こける」韓国経済構造

韓国経済の屋台骨は、半導体輸出である。韓国は5月以降、貿易赤字に落ち込んだ。半導体輸出の不振が影響している。

最近のウォン相場急落の裏には、半導体輸出不振による貿易赤字という問題があるのだ。

韓国経済は、製造業における一種の「モノカルチャー」的な現象を呈している。モノカルチャーとは、一国の産業構造が1つまたは2~3品目の農産物や鉱物資源の生産 (輸出向け)に特化した経済のことだ。韓国は、工業製品で半導体が圧倒的なシェアを占めている。その意味では、半導体が転けたらコリア経済も転ける構造だ。

韓国は、底の浅い経済である。

こういう脆弱な構造にあるという認識が、ゼロというのも珍しいことだ。

それどころか、GDP10位となって先進国意識に燃えている。

文在寅前大統領のように「日本に2度と負けない」と強烈発言もある。産業構造から見て、これは不可能というほかない。


韓国には、バランスの取れた産業構造へ転換することが、最も必要になっている。

技術力の低さが露呈した韓国産半導体

韓国は、メモリー型半導体で世界一のシェアを誇るが、非メモリー型半導体(システム半導体)では、台湾の後塵を拝している。

一口で言えば半導体技術力の差である。

メモリー型半導体は、パソコンやスマホ、ゲーム機などに大量に使われる汎用品である。非メモリー型半導体は、自動車など一段上の品質を要求される「オーダーメイド」になる。

汎用品半導体の市況は大きく変動するが、オーダーメイド半導体はその性格上、価格は比較的に安定している。注文生産ゆえに、過剰生産にならないからだ。

一口に半導体と言っても、メモリー型と非メモリー型ではこういう大きな差がある。韓国は、メモリー型半導体に依存するゆえに、すでに輸出面で市況下落の影響を受けているのだ。

韓国は、中国への輸出全体の依存度が25%と4分の1も占めている。
韓国半導体輸出額に占める中国の割合は40%。香港を含めると60%にも達している。

だが、中国のメモリー型半導体需要そのものが、大きく落ち込んでいるのだ。これを受けて、韓国からの半導体輸出も落ち込む結果となった。

中国国家統計局によれば、中国の8月の半導体生産は、前年同期比で24.7%も減少した。1997年に統計を始めて以来、最大の減少だ。

7月も前年比16.6%減である。今年1~8月までの半導体生産量は、前年比10%減少である。

この減少は、パソコンなどの需要減を反映したもの。

ゼロコロナで生産が落ちたわけでない。半導体生産は、全自動化であるのでコロナ感染とは無縁である。ただ、停電の影響は受けている。

技術力の高い台湾半導体の輸出は順調

台湾は、半導体の中国輸出で、韓国と全く異なる様相を呈している。

台湾の半導体輸出には、何の変調も出ていないのだ。

中国の半導体生産は、需要減で大きく落込んでいるのに、台湾半導体にはその影が全くないのはなぜか。

それは、台湾半導体が非メモリー型であることだ。

自動車などに使われる「オーダーメイド半導体」であるので、需要先に変調が出ないかぎり、台湾半導体輸出に陰りは出ないであろう。

台湾半導体の対中国輸出状況を見ておこう。

今年1~8月の中国向け半導体輸出が430億ドル。輸出全体の51.8%を占めた。1~8月の半導体貿易黒字は223億ドル。貿易黒字全体の92.7%を占めた。昨年1~8月の半導体貿易黒字は303億ドル、貿易黒字全体の69.8%だった。

込み入った数字だが、言いたいことは次の点にある。

今年は世界的なインフレで輸入物価が上昇している中で、台湾は半導体の貿易黒字で貿易収支全体を支えていることだ。

台湾トップの半導体メーカーTSMC(台湾積体電路製造)は、設備投資資金も自己資金で賄うという「スーパー優良企業」になっている。

「オーダーメイド半導体」の採算が、いかに良いかを端的に物語っているのだ。
TSMCは、半導体の進化を支える微細化技術で、世界一の実力を持つとされる。20年春には半導体の性能を左右する回路線幅が5ナノ(ナノは10億分の1)メートルの半導体を世界で初めて量産。製造分野に集中投資し「技術力と生産キャパシティーの両面で、各社はTSMCに頼るほかない状況だ」とまで言わせる存在だ。

半導体工場は台湾が占領

このTSMCに刺激された形で、台湾全島で半導体設備投資が進められている。台湾は、未曽有の半導体の投資ラッシュが起きている。総額16兆円に及ぶ、世界でも例を見ない巨額投資だ。世界から台湾の地政学的リスクが何度も指摘されてきた。それでも、台湾は巨額投資に突き進んでいる。

それは、世界一の「半導体生産基地」になれば、いくら中国でもこれら設備を破壊する侵攻作戦を始めないだろう。また、西側諸国が「半導体」台湾を簡単に見捨てることはあるまい、という思惑に突き動かされているように見える。

台湾南部の中核都市・台南市は、TSMCが一大生産拠点を構えた場所である。世界で最も先端の工場が集まる場所として知られ、今年、TSMCが4つの新工場を完成させたばかりである。さらに、2つの工場が建設されている。

TSMCは、最先端品(3ナノメートル=ナノは10億分の1)の新工場建設を周辺4カ所で同時に進め、拠点での集中生産を加速させる。

TSMCが手掛ける半導体の新工場は、少なくとも1工場当たり、投資額が1兆円程度と巨額である。それをTSMCは現在、この周辺だけで実に4工場も同時に進めているのだ。

この慌ただしさは、TSMCだけではない。こんな光景が今、台湾全土で広がっている。日本経済新聞が台湾の半導体各社の投資状況を調べたところ、少なくとも現在、台湾域内で20もの新工場が建設中か、あるいは建設されたばかりの状況であることが分かった。立地も北部の新北から、新竹、苗栗、さらには台南、最南部の高雄にまで全土に及び、その投資額の合計は前述の通り約16兆円にのぼる。

一見すると、無秩序な半導体工場建設に見えるがそうではない。

世界10大ファウンドリ(委託生産)企業のうち4社が台湾に存在している。世界1位のTSMCをはじめとする、台湾ファウンドリ4社の世界市場シェアは、今年の第1四半期基準で64.0%を占めた。ファウンドリは、非メモリー型半導体生産である。

今後、半導体があらゆる産業で不可欠の存在になるのは、この非メモリー型半導体に発展に負う。反面で、メモリー型半導体のウエイトは、次第に小さくなるであろう。

対中貿易で台湾に追い抜かれた韓国半導体

台湾は、「ファブレス(設計専門)─ファウンドリ(委託生産)─後工程」と連なる半導体生産の全段階にわたって競争力のある構造を構築している。台湾政府が、中国へ進出した半導体企業に対して、リショアリング(国内復帰)支援政策を通じて、台湾復帰を促したことも影響した。巨額投資が行なわれている背景である。
台湾は2019年から、ファウンドリ分野の競争力を基に、中国向け半導体輸出で韓国を追い抜いた。今年1~7月、中国の半導体輸入市場で台湾のシェアは35.0%で、米国の対中国制裁開始の時の2018年(28.9%)よりむしろ高まった。同期間、韓国のシェアは24.4%から19.6%に低下している。

メモリー型半導体から非メモリー型半導体へと、市場ニーズが移り変わっていることを示している。

韓国は改めて、非メモリー半導体分野の競争力を育て、半導体市場への対応力を高めなければならないことを浮き彫りにした。そうでなければ、韓国は「半導体大国」などと恥ずかしくて言えまい。

中国の圧力もどこ吹く風。欧米各国の台湾詣で
台湾は、すでに未来産業に欠かせない半導体大国の地位を手に入れている。それだけに、半導体で大きく出遅れた欧州が、台湾への接近を始めている。もちろん、「半導体がほしい」などという品格のないことを口にしないが、中国による「台湾接近反対論」を無視した行動の裏には、「半導体」の3字があるであろう。
バルト三国の1つであるリトアニアは、中国と犬猿の仲である。リトアニアが、外交関係のない台湾と積極的交流をしており、中国はこれを阻止すべく圧力を掛けているからだ。ロシアへも立ち向かうリトアニアである。自由と民主主義の戦いでは中ロに屈しないという強い姿勢を見せている。

リトアニアは、今年6月、8月と立て続けに台湾へ代表団を送った。中国は、制裁措置としてすでに、リトアニア製ピアノ輸入契約を破棄した。これに怒ったリトアニアの富豪が、輸入破棄されたピアノを全量肩代わりして、中国を物笑いの種にした。

中国はさらにドイツへ圧力を掛け、リトアニア製部品を組入れた工業製品の輸入禁止をドイツへ通告。ドイツは、中に入って困惑していたが、フランスがEU(欧州連合)議長国の権利を行使して、中国の不当なリトアニア制裁に反駁した。

台湾政府は、リトアニアが中国政府の制裁をものともせずに関係を強めていることに共感し、工業分野での協力関係を打ち出している。暗黙のうちに、リトアニアへの半導体工場の進出を臭わせているようにも見える。

これに刺激されて、欧州の大国であるフランスやドイツまでが、議員団を台湾へ送るようになった。昨年までは、想像もできないような事態の進展である。従来であれば、中国の目を気にして議員団の訪台は考えられなかったのだ。

台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は9月8日、米国のステファニー・マーフィー下院議員率いる超党派の議員団と会談した。

頼清徳副総統も同日、フランス議員団と会談した。

米仏の議員団が、同時期に台湾を訪問する形になった。

8月初め、ペロシ米下院議長の訪台に、中国は大規模軍事演習の実施で反発した。今回は、米仏議員団がこれに強く対抗する姿勢をみせた形である。
ドイツ連邦議会(下院)の超党派議員団10月4日、訪台して蔡総統と会談した。中国が、台湾への軍事圧力を強めるなか、安全保障や環境の分野で意見交換したという。台湾にとっては8月以降、ペロシ米下院議長の訪台をきっかけに独仏の国会議員が顔を連ねて訪台したのである。台湾の世界的な地位の上昇を印象づけている。

ペロシ米下院議長は、訪台中にTSMCの劉徳音会長と面会した。これは、同社が米国アリゾナ州で半導体工場の建設を進めており当時、米議会で審議中の「CHIPSおよび科学法案」について打ち合わせしたと公表されている。ペロシ氏が、中国によるあれだけの反対にも関わらず訪台した裏に、半導体問題があったのである。
ドイツやフランスが、リトアニアに刺激されて訪台したのは、精神的な支援をするだけであるはずがない。米国と同様に半導体で台湾企業と関係強化に動き出したいのであろう。出遅れている欧州の半導体を軌道に乗せるには、台湾企業との提携以外に道はない。
半導体が、外交を動かす大きなテコになってきた。