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【京都発幕間旅情】石山寺(滋賀大津)平安朝の中興は菅原道真の孫こと第三世座主淳祐内供

2021-09-01 20:05:57 | 旅行記
■菅原道真公との不思議な所縁
 瀬田川の畔の御寺には独特の風情と静寂を湛える清風に似た趣きが流れますが、その寺院を巡る歴史の流れもまた一風独特です。

 石山寺、瀬田川の畔に琵琶湖を望む大津市石山寺の寺院は本尊に如意輪観音を奉じる聖武天皇勅願寺院です。もともとは聖徳太子の持仏像を奉じた庵でしたが、寺伝によれば平安朝の頃より京都は醍醐寺より聖宝、観賢、高僧が座主として石山寺を支えているのです。

 京都を巡りますと歴史は繋がっているという大河の様な流れを実感し、それが趣き深いのですけれども、聖武天皇、聖徳太子、という天平年間の飛鳥時代となりますと遠い昔のように感じるもの、石山寺は大津市ですが、ここで京都に所縁あるあの人物が歴史に交わる。

 菅原道真公。石山寺の中興の祖とされていますのがの第三世座主淳祐内供、この方は菅原道真の孫に当りまして、道真公と云われますと北野天満宮はじめぐっと身近に思えるのが不思議だ、大宰府に配流された右大臣、その孫です。石山内供や普賢院内供とも呼ばれる。

 北野天満宮よりも遥かに古い歴史を持ちます石山寺ではあるのですが、もともと東寺は残って西寺は変換さえ難しい平安遷都の頃の唯一いや唯二許された寺院の一方だけが残ったのが、真言宗の空海に下賜された歴史の様に、寺院の宗旨は替り、そして続くのですね。

 石山寺との所縁の前に、菅原道真公実子に菅原淳茂がいまして、その子が淳祐内供となっています。平安京きっての学才と尊敬された右大臣菅原道真の子である菅原淳茂もまた才覚に秀で、大学寮に今でいう飛び級で、その後も秀才に及第し文章得業生に補されました。

 菅原淳茂は天皇の侍読に任じられるとともに兵部丞、大学頭、文章博士と出世を重ねまして、式部権大輔を歴任することとなりました。ただ。道真公失脚し大宰府に流された折に配流となりまして、しかし菅原淳茂は現在の神奈川県横浜市港南区貞昌院に配流されます。

 石山寺と菅原道真公の繋がりは、ここまでは関東配流の際に前を通ったのだろうという程度ですが、菅原道真公と違い菅原淳茂は赦免されて帰洛を許されています。そしてこのあたりから繋がりが。美濃部郷、今の滋賀県甲賀市水口町に菅原氏の荘園であったのですね。

 北野天満宮へと後に繋がる配流から、菅原淳茂は帰洛を許されたのですが、その子の菅原直茂は美濃部に残る事となります。そして出家していました淳祐内供とともに兄弟で近江の地に所縁をもつという。また、淳祐内供にも道真公のような学才があり仏道に邁進した。

 淳祐内供は、しかし足に障害があったということで正坐は出来なかったと伝えられます、しかし学才の高さから名が知れ渡りまして、醍醐寺寺主に推されることとなりました、なお病弱を理由に醍醐寺寺主就任を辞退しまして、石山寺普賢院に隠棲することとなります。

 古地図というものは多いのですが、石山寺は勿論の事に数多ある寺社仏閣に思うのは平安朝の頃や鎌倉期の頃の当時の伽藍の配置や広がりなども地図というか伽藍配置図が欲しかったように思います、当時は醍醐寺の影響を受け伽藍の配置も醍醐寺に近かったという。

 醍醐寺との繋がりは、こうして強まる事となるのですが、思い出しますと菅原道真公を配流した際の天皇、清涼殿落雷事件に驚き早逝したのが醍醐天皇、醍醐寺を祈願寺としましたその人ですので、ここでも不思議に歴史は繋がるもの、こうして重用されてゆきます。

 源頼朝の寄進、平安朝の中興を経まして時代は武家政治の時代となりますが、多宝塔と東大門は鎌倉時代初期に源頼朝寄進を受け造営されました。現在の本堂は永長元年こと西暦1096年に再建されたものですが、平安朝末期の混乱からは距離が幸いした事になりますね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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