今回から観閲行進を紹介しますが、観閲行進は規模が非常に大きく、勇躍遙か札幌まで飛んだ甲斐があったぜ、というものです。














北大路機関:はるな
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
北大路機関:はるな
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◆第1特科隊 北富士駐屯地祭
本日、北富士駐屯地創設52周年記念行事へ行ってまいりました。取り急ぎG-12にて撮影した写真を用いて速報記事です。
北富士駐屯地、山梨県の駐屯地で第1師団隷下の火力戦闘部隊である第1特科隊、そして陸上自衛隊富士訓練センターFTCが置かれている駐屯地です。実は、いつもお世話になっている方が週末に行事に気づき、思い立ったら吉日ということか、行こう、と急遽お誘いを受け、これに便乗する形で初めて足を運ぶこととなった駐屯地記念行事、北富士駐屯地祭2012です。
北富士駐屯地祭ですが、今年度は第1師団司令部の練馬駐屯地祭、第1戦車大隊の駒門駐屯地祭、第32普通科連隊の大宮駐屯地祭、第34普通科連隊の板妻駐屯地祭と足を運ぶ機会に恵まれまして、ここまで第1師団の管区駐屯地記念行事へ足を運ぶのは初めてのことでした。
第1特科隊は、第1特科連隊を縮小改編して編成された特科部隊で、かつては二個中隊基幹の直接支援部隊の四個特科大隊の三個が駒門に駐屯し、もう一個大隊と四個中隊をもって全般支援にあたる第五大隊が北富士駐屯地に駐屯していた編成でしたが、現在は特科隊本部、本部管理中隊、情報中隊と四個特科中隊という編成、実質第五大隊のみ特科大隊は残ったというところ。
北富士駐屯地には第1特科隊のほか、富士訓練センターFTCの本部が置かれているのですが、主力部隊である評価支援隊第1機械化大隊は滝ヶ原駐屯地に駐屯しているため、部隊整列以外、観閲行進ではその強力な装甲部隊は参加しませんでした。しかし、FH-70榴弾砲の行進は勇壮そのもの。
FTCですが、北富士演習場富士訓練センターにおいて評価対象の中隊が如何にして損害を受ける可能性があるのかを体験させ研究させる目的で仮設敵を務める部隊ですので、非常に手ごわく、しかし、手強くなくては世界に通じる最強水準の部隊を練成することはできないとして、誇りを持って任務に当たっている、とはFTCの1尉さんのお言葉です。
式典には澤﨑伸二1佐が部隊巡閲と訓示を行ったのち、横内正明山梨県知事も祝辞を述べられ、続いて観閲行進、その後に訓練展示模擬戦が行われました。模擬戦には礼砲用の105mm榴弾砲が仮設敵と参加し、我が主力榴弾砲であるFH-70との違いを併せて展示したかたち。訓練展示模擬戦は久々に行われた、と北富士駐屯地祭常連の方に教えてもらいました。
北富士駐屯地、装備品展示に並ぶFH-70には照準装置が装備されており、覗く機会に恵まれました。聞くところでは重要装備で破損の危険性があるので中々取り付けての展示は行われないのだとか。隊員さんとの話は弾み、忍野八海という富士の湧水と水中洞窟の話や、ほうとうが名物であるという話をいろいろと教え頂いたのですが、忍野村の北富士駐屯地、やはり一杯飲みに行くのは大変なようです。
何しろ大変でした、最大射程撃った場合何処何処へ届く、という説明を聞くにも周りの土地勘がなく、相模原まで届くという話でしたので、なるほど相模原の位置から逆算して北富士はこのあたりか、と知った次第。晴天ならば富士山とFH-70発砲焔が見られるとのことでしたが生憎の曇り、ただ、評価支援隊の装甲車やFH-70の発砲焔などを撮影でき、帰路につきました。最後になりましたが、ご一緒いただきました皆様、現地でお世話になりました皆様、ありがとうございました。
北大路機関:はるな
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◆真駒内駐屯地祭2011 第一回詳報記事
2011年6月19日に行われた真駒内駐屯地祭を詳報にて掲載してゆきたいと思います。
第11旅団創設記念行事、あの東日本大震災から僅か三カ月と一週間を経て実施された駐屯地祭です。この前日に行われた美唄駐屯地祭とともに陸上自衛隊駐屯地記念行事が震災後再開された最初の行事ということもあり、ここはひとつ、と空路にて長駆北海道へと飛びました。横浜や東京と比べ、節電しているとのことですが札幌の夜景は賑やかで、日常の大切さを感じたところ。
実のところ、真駒内駐屯地祭は、その後多くの駐屯地祭にてお会いする方々との初対面となる貴重な機会となりました。前日の美唄駐屯地祭にて開門前に並んだ方と意気投合し話していまして、どちらから?当方は京都から、と話しますと、大津や大阪に神戸と、・・・、あれ?ここ札幌だよね?、と。
真駒内駐屯地は札幌市にあり、札幌市営地下鉄にて直接足を運ぶことが出来ます。しかし、かなり広い駐屯地だぞ、とは中の方のお話、話半分で札幌市内と足を運べば、それはもう広大な駐屯地、聞くところでは札幌市内に羆が出没している時期で、その昔、明治時代に住民に大被害を与えた三毛別羆害の話しを思い出し、駐屯地に入るまでは油断できないな、そういう気合いで駐屯地へ進みました。
初めて足を運ぶ駐屯地ですと、やはりどこから撮影したものか、これは迷うわけです。観閲台周辺のスタンド席や椅子席を考えるのですが、それでは観閲行進は真横から一枚に2~4両だけしか映らず、迫力が無くなってしまいます。それならば、と正面から観閲行進を撮影できる場所を選んだのですが、この場所、木陰で涼しく、式典の始まる時間まで過ごすことが出来ます、いい場所だ。
観閲部隊の式典会場入場。音楽隊の演奏と共に合図を待って部隊が整列位置へ進んでゆきます。多い、隊員さん多い。真駒内駐屯地、第11旅団司令部および付隊、第18普通科連隊、第11特科隊、第11後方支援隊、第11戦車大隊、第11高射特科中隊、第11施設中隊、第11通信中隊、第11偵察隊、第11音楽隊。第11旅団隷下部隊だけでこれだけ駐屯しているのですから広いはずです。
旅団長にゅじょう。真駒内には北部方面混成団、東千歳駐屯地に団本部を置く方面直轄混成団ですが第1陸曹教育隊が東千歳駐屯地に置かれているのですけれども第52普通科連隊と第120教育大隊と冬季戦技教育隊が真駒内駐屯地に駐屯しています。冬季戦技教育隊は、陸上自衛隊における冬季最強の遊撃部隊として訓練の厳しさと精強さで知られる部隊、北海道に軍事的野心を固める勢力は冬季のこの部隊の強烈な洗礼に耐えなければなりません。
さて、参加部隊ですが総勢1000名を超えています教育大隊は新隊員教育を受け持つことから、新隊員の父母向けにほぼ全員が式典に監査するのですから、式典参加部隊は多くなるということ。撮影位置は整列した部隊を真横から一望する位置に展開しましたので、部隊敬礼における旗の敬礼動作に際しては、同時に数多くの旗が振り上げられ、壮観そのもの。
国旗入場。全員起立です。考えてみれば北海道の行事と言えば、東千歳駐屯地祭には何度も足を運んでいるのですが、そのほかの行事となりますとどうしても距離の大きさにより気軽に行けない、というものがあります。そういえば、いろいろなところでお会いする方で、関空から千歳方面の駐屯地祭へ日曜日日帰りで足を運ぶという方が、正直凄いなあ、と感心してしまいますね。
巡閲。真駒内駐屯地駐屯部隊は、このほか第1特科団第1特科群第133特科大隊のMLRS部隊、北部方面後方支援隊第102全般支援大隊、第101特科直接支援大隊、第1直接支援中隊第5直接支援小隊北部方面輸送隊。北部方面衛生隊、北部方面音楽隊といった部隊が駐屯、加えて第314基地通信中隊、第325会計隊、真駒内駐屯地業務隊、第120地区警務隊本部、自衛隊札幌地方協力本部、南部地区隊が駐屯しています。
第11旅団長吉田明生陸将補が観閲官を務め、副旅団長兼真駒内駐屯地司令安藤正一1等陸佐が式典執行責任者となっています。幕僚長松戸厚1等陸佐以下4000名が旅団を構成しており、真駒内駐屯地駐屯部隊のほか、旅団隷下部隊には函館駐屯地第28普通科連隊、滝川駐屯地第10普通科連隊、丘珠駐屯地第11飛行隊という編成です。
第11旅団長吉田明生陸将補の訓示では、記憶にまだ新しい東日本大震災への自衛隊の対応と第11旅団の災害派遣などに触れつつ、北海道を含めた我が国全体への軍事的脅威は未だに顕在であることに触れ、国民と共にある自衛隊こそが強く在ることが出来ると強調した内容でした。しかし、東日本大震災、札幌でも揺れていたとのことで、即座に情報収集体制をとった、陸上自衛隊の即応体制の高さは毎回災害のたびに感心させられる。
そうしたうえで来場者へは、これから厳しい道へ敢えて歩む新隊員一人ひとりの面持ちをどうか見てやってほしい、と締めくくりました。この最後の部分の訓示、心打つものがりました。色々ありまして、指揮官の訓示というものは耳にすることが多い当方なのですけれども、一年を経て内容が記憶に刻まれる訓示というものはなかなかありません。
元第7普通科連隊長で参院議員の佐藤代議士、第11旅団記念行事でも祝辞を述べられていますが、前日の美唄駐屯地でも祝辞を述べられていました。しかし、土曜日と日曜日の行事ですが、土曜日の午前中に美唄での行事に出席した後、なんとその土曜日夕方には北関東にて公用があり、なんと東京を往復しての式典参加、これは凄い。
祝辞は新党大地の議員候補の方も。地域政党というものについて、どうしてもジェレミベンサムなどを輪読しますとあり方というものについてやはり疑問符を持ってしまうのですが、ガブリエル-モンドを輪読会で討議しますと、まあ、納得するしかない、ということになります。この点“変化をどう説明するのか”という三冊の体系書があるのですが、これも理解の一助となるのかと。
そのように、まあ、・・・、思ったわけではありませんがこの一冊がカメラバックに入っていて読んでいたので、ちょっと祝辞聞いていませんでした。祝辞のほか祝電披露など進んでゆきます。六月の北海道は思いのほか初夏というべき日差しですが、木立の下、買っておいた飲み物に時々片手を伸ばし、ゆっくり腰を落ち着けての撮影、さて、式典はこののちどのように進むのか。
観閲行進準備の号令がかかります。式典参加部隊が非常に多いことから、準備へ、部隊が動いてゆく情景だけでも壮観。周りを見ますと、この撮影位置、よかったですよ、そういいますのも、椅子席などスタンド席周辺についてはかなりの混雑となっているのですけれども、この周りですとまだまだ撮影位置に余裕があるのです。
そ・し・て、ですね、迷うのは、この一では正面からしか映らないのではないか、もう5m上手に、やや、もう3m下手に降りたほうが車列が、待った観閲飛行部隊は恐らくあの方向から進入するだろうし、いや、戦車の方向転換御場所が恐らく、と。・・・、結局迷うのですよ。ここでどの程度混雑しているのかにより自由度は違ってくるのですが、余裕があるとかえって迷ってしまう。
観閲行進準備の号令と共に観閲行進参加車両の待機位置へ整然と行進してゆきます。ここから北海道道南地区の防衛警備及び災害派遣を担当する第11旅団の機械化部隊が観閲行進を進むのですが、その迫力の様子は次回の掲載とします。次回の掲載ですが、南海トラフ地震連載、地方隊への一考察連載とともに、十日以内、次の記事を順次掲載してゆく方式とします。
北大路機関:はるな
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◆大宮駐屯地祭2012速報
日曜日、大宮駐屯地創設記念行事へ足を運びました。化学学校、中央特殊武器防護隊、第32普通科連隊の駐屯地です。
万一、我が国が再度核兵器の攻撃に曝されたら、そしてあの日のように地下鉄などに対し化学兵器による無差別テロが行われたならば、そしてアメリカで展開されたような生物兵器によるテロが大都市を襲ったらば、そうしたあり得るかもしれない、しかし非日常では決してない非日常に備えるのが大宮化学学校であり、我が国NBC事案への最後の砦でもあります。
大宮駐屯地祭、僅か数年前までは化学学校本校前の限られた駐車場を用いて、学校長挨拶と巡閲、訓示を行うだけの小規模なものでした。しかし、観閲行進も訓練展示も行われないものの装備品展示が、この駐屯地でしか見られない装備があり注目を集めていたとのこと、そして除染作業などの簡単な展示が行われることとなり、一昨年頃から式典会場をグラウンドとし、大規模に行われるようになったとのこと。
本年大宮駐屯地祭の最大の目玉は化学学校に配備開始となり、中央特殊武器防護隊へ今年から配備が開始となたNBC偵察車です。手前には中央特殊武器防護隊の82式指揮通信車、化学防護車と車体の共通のものが停車しており、その奥に見える一回り大きな装甲車両がNBC偵察車です。G-12で撮影したものですが、車体規模の相違が一目瞭然ですね。
式典へ整列する中央特殊武器防護隊幹部。地下鉄サリン事件という未曽有の都市部無差別テロへの派遣とそれに続くオウム真理教強制捜査支援や化学プラントへの警察捜査協力という、化学戦部隊としては世界的に稀有な実戦経験を持ち、イラク化学兵器解体作業では実際に神経ガスの砲弾の解体監視要員を派遣、世界的にここまでの実戦経験を積んでおり、実任務にも対応している部隊は少ないのではないでしょうか。
化学学校長川上幸則陸将補の部隊巡閲。巡閲を受ける第32普通科連隊も市ヶ谷駐屯部隊として地下鉄サリン事件対処に当たり、駐屯地こそ市ヶ谷駐屯地から大宮駐屯地へと移駐はしていますが、化学学校と当時除染に当たった第101化学防護隊の後身である中央特殊武器防護隊とともに、もしも、の許されざる想定への準備を怠らず首都防衛を履行した伝統ある部隊、精鋭を巡閲しました。
観閲行進。第32普通科連隊が先頭となり式典を務めます。祝辞では枝野大臣が実績から説得力を欠く祝辞を行ったのち、地元さいたま市長、埼玉県知事の祝辞に続いて、ここ化学学校出身で自民党国防部会長である佐藤代議士が祝辞を以て部隊を激励、福島県出身ということもあり、許されざる想定の最たる自体、原子力発電所事故対処に当たった部隊への祝辞と転換点を必要とする実情の視点へ、会場を沸かせました。
第32普通科連隊隊員の徒歩行進。連隊長芝伸彦1佐以下連隊本部、本部管理中隊、五個普通科中隊と重迫撃砲中隊を以て編成されています。前述の通り第32普通科連隊は市ヶ谷駐屯地に駐屯し、新宿という首都中枢部唯一の連隊として首都防衛を担ってきましたが、1999年、市ヶ谷駐屯地への防衛庁本庁舎移転に伴い、大宮駐屯地へ移駐したという歴史があります。
第4中隊の軽装甲機動車。機関銃座を防盾が奥の車両については国際協力任務仕様である点に注意。首都圏を防衛する以上、市街地での戦闘は不可避であり、小回りが利き、火力拠点ともなり、必要に応じて盾ともなる装甲車は重要です。これは、後日震災記事として大宮での写真と共に記事とする予定ですが、大規模災害やテロ事案へ、やはり大きな部隊を市ヶ谷から移したことは失策だ多のではないでしょうか。
重迫撃砲中隊の120mm重迫撃砲RT,2002年に第一師団の首都防衛編成への改編に伴い、重装備の重要性は低いとして廃止された重迫撃砲中隊ですが、翌2003年からのイラク戦争により錯綜地形の最たる市街地では迫撃砲の弾道は重要であり、直接掩護には不可欠な装備であると米軍が戦訓を経て編成に反映させました。我が陸上自衛隊でもこの点を受け、昨年2011年に重迫撃砲中隊を再編し、今に至ります。
中央特殊武器防護隊の82式指揮通信車、何故か観閲行進の経路が変更されました。さて、じつは中央特殊武器防護隊といえば化学防護車という印象がったのですが、82式指揮通信車が装備されていました。化学防護車はマスト部分などに装備年度により若干の相違があるのですが、82式指揮通信車との根本的な相違は12.7mm重機関銃にあります。化学防護車は汚染地域での任務を念頭に置いているため自衛火器は車内から操作する73式装甲車と同等の銃架に搭載されていますが、指揮通信車は違うのです。この点が正面から見た場合、最大の識別点と言えるかもしれません。
液体散布車。存在は知っていましたが始めて見る装備です。この写真だけでも大宮まで足を運んだ甲斐があるというもの。実はこの装備、除染車よりも早い時期、まだ化学防護車が60式装甲車の派生型を運用している時代から運用されている装備です。化学学校と化学教導隊、中央特殊武器防護隊にしか装備されていない装備で、昔の写真で見たことがあるのですが、観閲行進に参加するのですね。
液体散布車は化学消防車としての能力を有し、汚染地域での化学消防車としての任務のほか、広範囲に中和剤を散布する任務にも用いられるもの。例えば通常の車両で接近できないNBC汚染地域での化学火災への対応が可能であるほか、地下鉄サリン事件が路上に大量散布されるような事態であった場合、広範囲の汚染へ、除染車では対応できない場合などに出動するものです。ン福島第一原発ですが、遠距離放水ではなく広範囲中和剤散布が任務の車両で、化学剤ではなく放射性物質は中和剤が存在しないため、用いられることはありませんでした。
第102特殊武器防護隊の車列。NBC偵察車、化学剤監視装置、生物偵察車。どれもここ数年間で装備が開始された化学科部隊の最新装備です。一番の注目はNBC偵察車、全長8m、重量20t、最高速度95km/h以上、乗員4名。化学剤監視装置と生物偵察車のセンサーを搭載しているのがわかるでしょうか。また、比較的大柄な車体、と前述したNBC偵察車ですが、この車列からも大型の車両である、ということがわかるでしょう。
NBC偵察車。車体前部に並列式操縦席を有し、その背後に機関部を、車体部分は容積重視の構造となっており、車高は犠牲になっているという設計。この上には各種検知器材を搭載、車体側面は若干の傾斜を持っている形状で、道路交通法の規制乗車幅を大きく撮ることが出来ず、この中で第一線でのNBC偵察任務へ、生存性を重視しようとした部分が足回り周辺から見てとれます。銃身は重そうですが、従来の化学防護車と比較しても安定しており、他方で車内からの死角が多いのが難点とのこと。
94式除染装置と除染車3型。94式除染装置は小型で、化学防護隊や特殊武器防護隊のほか、普通科連隊などの本部管理中隊にも装備されており、毎時4両の車両や人員約50名を除染することが可能。後方は除染車3型、補給路などの地域除染に用いる装備で、勿論車両や人員の除染支援も行う装備です。化学兵器でもサリンのような神経剤は殺傷力が強くとも速やかに分解してしまうもの。
このように神経剤は攻撃用の化学兵器ですが対照的に、神経剤と比較すれば殺傷度合い、これも致死量がナノミリグラムかミリグラム単位化ということですが病院で点滴するわけでもなく、意味は少ないのですが、マスタードガスのような糜爛剤は数週間単位の長期間地域を汚染し、通行した車両の車輪や靴に付着し拡散するほか、皮膚に付着すれば爛れ、肺に吸い込めば気道を破壊、目に入れば失明するという厄介な装備で、除染により中和し無力化しなければなりません。
第103特殊武器防護隊の車列。先頭を進むのは化学防護車。元来化学防護車はNBC兵器の中でNuclearとBioとChemicalのなかで、Chemical即ち化学兵器の汚染地域へ進出し、汚染状況を把握、除染作業に先立ち重点的な任務実施地域の画定を行うための車両でした。しかし、東海村臨界事故や福島第一原発事故など原子力災害への派遣が多く、特に前者の事件を契機に中性子防護板の追加取得を実施、万一という許されざる想定への備えが、福島第一原発により発揮されることとなったのです。
化学剤監視装置。化学剤監視統治が正し呼称で、化学時検知装置というのは誤りでした。従来の化学剤感知装置は、装置内に化学剤が浸透した際に警報を発するもので、言い換えれば警報が鳴った時点で七秒以内に防護体制を採らなければ被害に遭うというものでした。しかし、米軍では湾岸戦争などの戦訓から万一化学兵器が使用された場合を警戒する遠隔監視装置の研究を実施してきました。
化学剤の遠隔監視、米軍の研究開始、これをもとに陸上自衛隊でもレーザーの反射特性と化学剤の反射特性を研究し、遠隔地での汚染分布に対し化学剤が浸透する以前に警報を発する装備として完成させたものです。装備は大型トラック搭載の評定処理装置と高機動車車載の監視装置三基、そしてヘリコプター搭載用監視装置一基から構成されます。観閲行進の写真は以上、こののち訓練展示となりますが、訓練展示は動きが早く距離も大きく、G-12の出る場面はありません。EOS-7Dの写真はいずれ紹介することとしましょう。
北大路機関:はるな
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◆第34普通科連隊・第3陸曹教育隊の板妻駐屯地祭
本日、静岡県の板妻駐屯地祭へ行ってまいりました。コンパクトデジカメG-12で撮影した速報です。
板妻駐屯地は本年度、創設50周年という節目の年を迎え、富士山の裾野、第1師団隷下の第34普通科連隊、東部方面混成団隷下の第3陸曹教育隊が駐屯する駐屯地です。東富士演習場にほど近い立地にあるのですが、その分訓練は演習場で行うという方針の下、やや機能を絞った広さという印象でした。
89式小銃を手に更新する普通科隊員、一糸乱れぬ統制された動作は精鋭部隊への最初の条件です。第1師団、第12旅団、第14旅団、中部方面混成団、第3師団、第4師団と師団や旅団、それに混成団の行事を立て続けに撮影しましたが、久々に普通科連隊の駐屯地記念行事の撮影です。
第3陸曹教育隊。板妻は34連隊、という印象が強かったのですが曹教の部隊ということを思い出しました。陸曹は自衛隊の戦闘への第一線を支える専門要員の練成機関、我が国では陸曹の比率が大きくなっている点がる意味問題視されますが、若い隊員よりも小隊陸曹のほうが体力を鍛えぬいていることが少なくなく、専門要員の定数が増加する、ということはある意味重要と言えるでしょう。
本日の板妻駐屯地祭ですが、天気予報ではかなりの降雨が報じられていたようで、晴海ふ頭桟橋でも、板妻と古河は雨天なので断念、もしくは経ヶ岬分屯基地祭へ転進、という声が聞かれました。しかし、何とかなるだろう、という一点、更にちょっと京丹後市は遠いという本音から板妻へ向かった、というところ。
第34普通科連隊の軽装甲機動車。本日はこうした曇りの天候ではあったのですが、幸い危惧したような荒天とはならず、開門二時間前には少々強めの雨こそ降りましたが、幸い当方は、・・・、傘を買いに出歩いた瞬間以外濡れることはありませんでした。つか、正直なところ傘を買う必要なかったですよ。
観閲行進ですが、板妻駐屯地は式典会場の二辺を開放、この中で一辺は来賓招待客向けのテントとなっており、、もう一辺が斜面で一般客向けに開放されています。この斜面の場所、富士学校の会場と同じ構図、縮小したような立地なのですが、この斜面が観閲行進を正面から撮影できる場所でした。
120mm重迫撃砲を牽引する高機動車。雨は降らなかった、しかし、自分のお天気運はある程度信用していたものの相馬原駐屯地祭のように雨天となたこともありますので、EOS-7Dに18-200mmを装備したもののみ携行、120-400mmとEOS-50Dは待機としました。大失敗、持っていけば、いろいろと使い道があったのに、この判断は難しい。
第3陸曹教育隊の79式対舟艇対戦車誘導弾。上陸用舟艇さえも撃破する装備です。さてこの会場、富士学校と同じ構図で、観閲行進を撮影できる最良の位置は訓練展示を撮影しにくい、という構図がありました。そこで警備の隊員さんに立ち入り規制場所を聞いてみますと招待者天幕の淵側は規制していないとのことでしたので、訓練展示と撮影場所を陣地転換することとしました。
中距離多目的誘導弾、世界最新の対戦車誘導弾で、誘導方式や照準方式など細かいことは言えないが部隊愛称はチュウタ!、とのこと。富士学校の普通科教導連隊に配備されたことは聞いていますが、一般公開は滝ヶ原と同日の練馬へ行ったため見ることが出来ませんでした。武山でも公開されたそうですが同日の福岡駐屯地祭へ、ともあれ、装備品展示にも並べられ、本日一番の注目装備です。
観閲行進につづっ訓練展示が行われました。そこはEOS-7Dの撮影ですが陣地転換、最大ズームで撮影しました。観閲行進ではFH-70榴弾砲や74式戦車は参加せず純粋に板妻駐屯地の車両によってのみ展開されましたが、訓練展示では参加、轟音は来場者に衝撃波として叩きつけ、その能力の一端を示しました。
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
◆九州北部対馬五島地区の防衛警備
日曜日に行われた福岡駐屯地祭、快晴に恵まれ駐屯地は多くの来場者で賑わいました。
第4師団は九州の北半分を防衛警備管区として受け持つ西部方面隊隷下の師団で、警備管区には五島列島、対馬など文字通り国境の島を抱える師団です。師団創設当時は朝鮮戦争の緊張が残る中、遠からず想定された戦争に際しては米軍来援拠点となる北部九州、万一半島赤化統一の際には最初の脅威正面となることもあり、重要視されていた師団です。
福岡駐屯地。前日久留米に一泊した当方は西鉄特急、・・・、はまだ運行される前の時間だったので急行にて春日原へ、そこから普通に乗り換え雑餉隈へ、最初は雑餉隈駅の読み方がわからず難渋しましたが、JR南福岡駅前を徒歩で移動し、シャトルバス乗り場前をそのまま駐屯地へ、JR九州車両基地で撮影したいのを敢えて我慢し、開門前に到達、初めての九州での駐屯地祭撮影とあって気合いを入れました。
福岡駐屯地祭。撮影位置は、スタンド席を考えたのですが最上段右端以外は観閲行進の撮影が難しそうで、地上椅子席は安全ロープまでの距離が一定あるため写真に写りこんでしまうため撮影には不適、結果、写真の位置にて撮影することとなったのですが、観閲行進を正面から撮影できる植込みが来場者へ開放、こちらの方が良かったかもしれません。
武内誠一師団長訓示、武内師団長は東北方面総監部幕僚長として東日本大震災災害派遣の第一線で対応した指揮官です。災害派遣に出動した隊員への評価は有難いが、車両を整備し物資を補給し派遣任務を支えた隊員、一人の派遣人員も捻出せず、しかし増大する脅威へ防衛の第一線で立ち向かった部隊があることを忘れないでほしい、とのこと、なるほど。
観閲行進ですが第1師団や第3師団に第10師団と比べた場合普通科部隊の行進が少々ことなったものでした、それは上記師団では連隊から軽装甲機動車の中隊、高機動車の中隊、重迫撃砲中隊を中隊ごとに十数両を出しますが、第4師団では普通科連隊の各中隊から数両を出すので、軽装甲機動車二両、高機動車二両、重迫撃砲二門、指揮官車、これが各連隊同じ、というところ。
第4師団には対舟艇対戦車隊が維持されており96式多目的誘導弾が配備されています。実は昨年第11旅団の式典を真駒内へ撮影に向かった際、北部方面隊直轄でも参加するのだろう、と思い空振りであった当方には干天の慈雨、富士学校以外では見ていない装備でしたので。長射程で間接照準射撃となる関係から運用が難しく、コスト面からも厳しい評価が為される装備ですが、光ファイバー誘導方式を採用、射程は10km程度ですが、師団の防御か攻勢の決心を行った際には精密誘導による全般支援が可能な装備であることは間違いありません。
FH-70榴弾砲。久留米駐屯地からの参加です。この久留米ですが、トンコツラーメン発祥の地と初めて駐屯地での部隊紹介、太鼓演奏の部隊紹介ですが知りました。実は当方、博多が発祥の地と思いつつ、宿が無かったのならば仕方ないと西鉄で久留米に一泊したものですから、前日は駅前に小奇麗でしかも安い焼き鳥屋にて、黒霧島300円、鳥皮60円、み90円、アゴ100円、焼き御握り二つ250円と舌鼓を打っていた次第。トンコツラーメン本場が久留米と知っていれば夜を徹して、BS-211でDOG
DAYS再放送始まるまで探していたはずだったのに。 人命救助システム。東日本大震災災害派遣では不眠で高速道路を北上に北上を重ね一昼夜で被災地へ展開したとのこと。厚労省は今回の災害派遣まで制式の医療設備として人命救助システムを認めていなかったが、制式化後初めて実任務で、しかも医療設備としてもちられた、ということを教えてもらいました。滅菌が構造上大丈夫なのか、という疑問に際して術衣を装備するが、感染症は後方の医療設備に入院すれば完治するものの、一分一秒を争う外科手術は後方に搬送していれば助からない、ということが念頭にある装備との説明で、トリアージでは赤か黒かという状況での究極の応急処置といえるやもしれません。
化学防護車。光景装備のNBC偵察車が化学学校に配備された装備です。特殊武器防護隊に所属。第3特殊武器防護隊では生物偵察車が装備されていましたが、西部方面隊の、そして大都市に司令部を置く第4師団にも生物偵察車が装備されているのか、興味はあったのですがどうも装備はされていないようです。
そして74式戦車。第4師団は今年度末に師団改編を受け、戦車と特科装備の縮小を行うとのことです。来年度の行事では戦車の参加は削減されるのでしょうか。こうして祝賀飛行とともに展示は終了、祝賀飛行は機数は少ないものの低空で迫力がありました。こののち訓練展示模擬戦と展開しましたが、縦横無尽立体的に展開する訓練展示、G-12は固定位置から撮影するのみ、片手間に予備機としてG-12を使うことはできませんでしたので、こちらはEOS-7D,EOS-50Dの撮影となりました。
おまけ。サクラ席。いくら人が来ないとは言ってもサクラはやりすぎなのではないのか、という人がいるかもしれませんが、これは招待者席の案内表示です。1000時頃までは空いていたのですが、急激に混雑となりました。千僧ほどではありませんでしたが。こうして行事を撮影、当方は福岡駐屯地という初めての九州での陸上自衛隊行事を撮影、観閲行進はもう少し当方も撮影場所を工夫したほうがよかったかな、と思いつつ特急で佐世保へと向かいました。
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◆本日本番!京阪神近畿防衛の要は気合充分
第三師団祭、土曜日の予行に行ってきました。いやあ、凄かったです。
PowershotG-12で撮影したものです。EOS-7Dの写真は整理中。もっとも、予行は招待客用スタンド席を利用することが出来ましたので、当然最上段へ、結果、予備機扱いのG-12の出番はなくEOS-7Dだけで撮影しました。結果、G-12は訓練展示模擬戦が修了したのちのスナップなのですが、ね。
状況終了後、さっさとEOS-7DをDOMKEに収容してしまい、身軽を重視でG-12片手にサクサク散策です。丁度訓練展示に使用した装備をそのまま弾薬の確認や車両の撤収を行っているところ。陣地を占領するべく突入した74式戦車もそのままというところ。
軽装甲機動車ですが、もう完全に陸上自衛隊に馴染みました。そもそも装甲車の五十倍もする輸送ヘリコプターや対戦車ヘリコプターを百何十機もそろえた結果、遅れに遅れた装甲車ではあったのだけれども、四輪駆動の安価ながら既に1600両以上調達の軽装甲機動車です。
本年の千僧駐屯地祭は、人員1000名、車両125両、航空機10機の参加で、しかし、久々に、前回は一昨年新型インフルエンザ脅威広まる中の縮小実施でしたが、こんなにグラウンドは狭い場所だったのかな、と善通寺と比べおもったりもしましたけれども。
ただ、此処から少しネタバレになるのですけれども訓練展示はこれが自衛隊の任務だといわんばかりの伝統的な野戦形式で、迫力も迫力、普通科部隊の気合いもありながら毒ガス攻撃あり、戦車射撃あり対空戦闘あり、個人用掩体あり特科射撃あり、匍匐前進あり障害除去あり、凄いものでした。
師団改編でL-90や60式無反動砲が消えたのだけれども、軽装甲機動車に93式近SAM,01式軽対戦車誘導弾など一式が導入、小銃と機関銃も89式にMINIMIになりました。ところが、特科情報装置や師団防空システムなど、目に見えない部分が近代化されている幅の方が大きいのですよね。
いろいろと海外の装備品と見ますと、自衛隊は戦車が古いとか、装甲車が少ないとか、火砲が牽引式、というだけで頼りないとか予算の使用が非効率とか言われているものだけれど、ううむ、対砲レーダ装置や対空レーダ装置の普及度で、これらの装備は高い指摘剛性も国産出来ない国には難しいのですが、それでも自衛隊からかなり遅れているという印象です。
元々陸上自衛隊は、空中機動を重視し、地形防御を念頭に対戦車戦闘を考えてきましたし、日本固有の地形と言いますか、狭小道路に複雑な地形と、考えた場合下手に重装備は逆に身動きが取れなくなってしまった可能性も高いのですけれども、まあ言われていました。
しかしながら、そうすると、遠くない将来に74式戦車が10式戦車に置き換わり、牽引式で現時点でも効力射の迅速さと調達価格でM-109A6に匹敵するFH-70榴弾砲が開発開始の火力戦闘車に置き換わったらば、一般に言われている自衛隊への誤った認識の根本も近代化で置き換われるということ。
もう現在の時点で、特に後方支援連隊の改編が行われ直接支援中隊を部隊に随伴させることで、これも詳しく聞くとまだまだ現状に追いついていないということはあるのですけれども、稼働率の維持と整備支援はかなり進んだところまで来たのですよね。そして補給車両一部への防弾板と装甲車配備、これが大きい。
もっとも、軽装甲機動車は乗車戦闘を重視した装備なので、96式装輪装甲車かその系統の新型装甲車で、乗車戦闘重視の中隊と降車戦闘重視の中隊とに分けて普通科連隊を編成することが出来れば、と。対戦車中隊は第3師団にはないのですが将来は中隊の対戦車小隊に中距離多目的誘導弾が配備されるのですし。
ほかには、師団装備で装甲ドーザや地雷原処理車が方面隊直轄装備に移管されてしまったので、施設大隊の運用が改められているのだけれども、師団施設大隊の任務は戦闘工兵、架橋装備や道路障害作業車への装甲板付与や、施設作業車ほどではないにしてもアタッチメントクレーンと地雷処理ロケットに排土板装備の装備はあってほしいです。
もう一つ重要なのは、アフガニスタンやイラクへ部隊を派遣した国の近接戦闘部隊、日本でいう普通科ですが個人装備がすごく充実しているのですよね、個人防弾装備も防護範囲は増大し、しかし軽量で、加えて戦闘装備の携行量が増えている。これが自衛隊にも反映できないか、ということ。
あとは、自衛隊は効力射の迅速化を念頭に置いてきたのだけれども、長期間の持続射撃というものがかの地域での運用を見ていると、そして装甲車も生存性を根本的に左右するものに。自衛隊が今後こうした任務へ向かい可能性は敢えて言及は此処では避けるのだけれども、考えておく必要もありかもしれない。
いろいろ考えるときりは無いものの、しかし、二十年前に高機動車が配備開始となり、自衛隊のカンボジアPKOが本格化した時代、十年前の同時多発テロ後の有事への政治の取り組み変化とそれから数年で始まるイラク派遣も転換期でしょう。 東日本大震災と南海トラフ地震対策も転換点になるのでしょうか。
イラク派遣部隊長が師団長になっているほど時代は過ぎたのだけれども、自衛隊も変わったというのが正直な印象です。海上自衛隊も航空自衛隊も、です。G-12片手に訓練展示終了後の車両を巡回しつつ写真を撮りながら、ふとそんなことを思ってしまいました。さて、本番は本日です。本物の迫力を、という方は伊丹市の千僧駐屯地へどうぞ。
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◆大津駐屯地の記念行事2011
本日、大津駐屯地へ行ってまいりました。本日はG-12による速報写真を取り急ぎ紹介です。
先ほど、なんでも当方は六杯のつもりだったのですが七合ほど空けたようなので、少々記載する記事は不明確となるやもしれませんが、本日は何時もお世話になっている方に?を頂き、それならば、と先日入手した日本酒で七杯ほどやったところ。木の香りが残る?にて、久々に美酒を頂くということが出来たところ。
本日の駐屯地祭は、五月の花冷えと言いますか非常に肌寒い中での行事となりましたが、中部方面混成団からは一人の熱中症もなく行事の様子を見ることが出来ました。先日ブラックタロン様と善通寺でお会いすることが出来ましたが本日は軽トラックの稲妻様とお会いできまして、これが本日の大きなところでした。
行事ですが、第47普通科連隊の中心の模擬戦は64式小銃中心の展開となりまして、これはなかなか見ることが出来ないというものでした。新発田駐屯地祭へ誘われましたが、断念しまして本日は何時もお世話になっている方から頂きました?にて一杯やっているところです。取り敢えず、速報として記事を掲載しました。
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◆本日開催 四国旅団の創設記念行事
先ほど善通寺から戻りました。善通寺駐屯地と善通寺を巡る四国紀行ですが、本日は駐屯地祭の模様をpowershotG-9写真にて紹介します。
四国全域を防衛警備管区とする第14旅団は、第2混成団からの旅団改編を経て本日で創設6周年を迎えました。混成団から旅団への改編を経て、混成団時代の人員2000名は2800名まで拡充され、戦車北転事業により廃止された第2混成団戦車隊など機動打撃部隊の再建も完了したところです。
主として第52普通科連隊の創設や第14戦車中隊創設による戦車中隊の再編など一連の旅団改編事業を実施してきた第14旅団ですが、このほど第14施設中隊の第14施設隊格上げと高知駐屯地から徳島駐屯地への移駐が完了、この第三次改編とともに旅団改編を完成させました。
式典は旅団長永井昌弘陸将補指揮の下、記念式典は部隊巡閲、指揮官訓示、来賓祝辞、観閲行進と行われ、訓練展示では仮設敵の陣地占領と対戦車地雷による障害を第14施設隊が中心となり梱包爆薬により除去、第14特科隊の猛烈な支援下で第14戦車中隊の74式戦車が敵装甲車を排除、第50普通科連隊軽装甲機動車の攻撃前進を行うという迫力の内容でした。
第14旅団は東日本大震災に際し人員1500名からなる大部隊を派遣し、災害派遣任務を支えました。同時に善通寺駐屯地は第2混成団創設以前には第2教育団本部が置かれ、その名残というべきでしょうか第110教育大隊が駐屯しているほか、第2教育団を拡大改編し誕生した中部方面混成団隷下の第47普通科連隊一部中隊なども駐屯している駐屯地です。
今回の行事、最大の注目は昨年初公開された最新装備07式機動支援橋で、施設学校と第14施設隊にのみ現在配備されている最新装備です。7従来の81式自走架柱橋では水深や流速に加え河床泥土の状態に運用制限があったことから、橋脚を有しない構造により60mの架橋を迅速に行う装備として開発されました。このほか、いろいろと紹介したいのですが写真は整理中につき、取り急ぎこれら写真を掲載しました。
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◆雨天下の空中機動旅団記念行事
榛名山霞み雨に曇る群馬県榛東村、昨日、第12旅団創設記念行事へ行ってまいりました。写真整理中ですが、取り敢えずの掲載です。
第12旅団長塩崎敏譽陸将補が整列した隷下部隊を視閲。第2普通科連隊、第13普通科連隊、第30普通科連隊、第48普通科連隊、第12ヘリコプター隊、第12特科隊、第12高射特科中隊、第12偵察隊、第12施設中隊、第12通信中隊、第12後方支援隊、第12音楽隊が整列しています。
塩崎旅団長の訓示とともに大澤正明群馬県知事の祝辞も。北関東信越地区を警備管区にもつ旅団としての期待を交え挨拶、大澤知事は海上自衛隊幹部候補学校を卒業、任官はしていませんが候補生ですので元海曹長ということになります。式典は残念なことに雨天という環境にありました。当方は雨衣を着用、周りには傘が朝顔の如くという状態ですが式典参加部隊はそうはいきません。
観閲行進。第12旅団は、冷戦時代において第12師団として、新潟から北関東へソ連軍の限定侵攻に警戒する位置にあり、この地域へ着上陸を受ければ日本海沿岸地区は山間部と海岸線が隣り合う増援を受けにくい地域にあり、関越道を抜けられたならば首都東京への進入を許すという防衛上の要衝の一つでした。しかし、冷戦終結後、装備を軽量化し迅速な展開を行う空中機動重視編成に改編されました。
軽装甲機動車。なかなか第12旅団へ配備は実現しませんでしたが、ようやく少数が全ての連隊へ配備です。冷戦終結後、第12師団は、首都圏への迅速な増援を行いつつ全国への緊急展開を可能とするべく戦車大隊を廃止、多用途ヘリコプターや輸送ヘリコプターを配備するヘリコプター隊を新編し、空中機動旅団とする改編を行いました。しかし、輸送ヘリコプターは6機程度、多用途ヘリコプターも数は少なく、実質的には信越地区という山間部における機動力向上という位置づけに終わっています。
第12対戦車隊。師団直轄の対戦車部隊は、師団普通科連隊への対戦車中隊新編が一部で行われ、普通科中隊対戦車小隊の対戦車ミサイル強化により、方面隊へ転換か廃止されているのですが空中機動旅団として対戦車能力の被空輸能力の高さを考え、対戦車隊は維持されているようです。車両が73式小型トラックから新型になっていました。
第12ヘリコプター隊は8機を以て祝賀飛行を行う予定でしたが、陸上自衛隊が定めた機種ごとの運用基準以上の視界不良があり、ホバーリング展示のみでした。しかし、東千歳駐屯地第7師団創設51周年記念行事では雹が降る、より強い降雨と強風下でUH-1とOH-6が模擬戦に参加したのを思い出しました。規定があるのは致し方ないですが、明野駐屯地のように滑走路上を地上滑走して一列に並んでほしかったですね。
訓練展示模擬戦は、空中機動が行えないため中止、第12偵察隊のオートバイ機動展示と第12特科隊の音楽演奏空包射撃展示が行われたのみ。立体模擬戦は楽しみにしていた、というのが来場者のほぼ一致した思いだったでしょう。安全要員は天候回復に備え、訓練展示へ準備足していたようなのですが。
CH-47JA輸送ヘリコプター。側面は特別塗装、創設三周年頃に整備班長さんがひとつ特別塗装をやってやろう、ということで徹夜作業で仕上げたのが始まりなのだとか。第12旅団は東日本大震災では管区の第6師団を支え福島県への災害派遣を担当、新潟中越地震での派遣の経験を様々なところで活かした、とのことで、いろいろと貴重なお話を聞くことが出来、そちらが興味深い一日でした。
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