和田泰庵展の後はランチをして、私達一行は曲直瀬玄朔の墓のある広尾・祥雲寺へと向かいました。
曲直瀬玄朔は初代・曲直瀬道三の名を襲名し、二代目道三となりました。
豊臣秀吉に仕え、淀の方、毛利輝元、後陽成天皇や徳川家康・秀忠.....と、
当時の有名人をことごとく診察した名医です。
『医学天正記』には中風(脳血管障害)や人事不省の眩暈を見事に治した記録があります。
緊急時に必須の鉱物や動物生薬の使い方が上手だったようです。
ところがその後に仕えた豊臣秀次が秀吉に切腹を命ぜられ(大河ドラマ「江」で最近この
シーンがありました)、玄朔も水戸へ追放されました。
しかし江戸幕府が開かれた後は健康オタク・徳川家康が玄朔を捨て置くはずはなく、重用され再び名声を取り戻しました。
以降は幕府と朝廷の医療を担当し、寛永八年(1631)に83歳の長寿を
全うしました。
その弟子の一人、岡本玄冶(1587-1645)の墓は同じ敷地内の小高い丘の上にありますが、猛暑のためたどり着けませんでした。。。
曲直瀬玄朔は初代・曲直瀬道三の名を襲名し、二代目道三となりました。
豊臣秀吉に仕え、淀の方、毛利輝元、後陽成天皇や徳川家康・秀忠.....と、
当時の有名人をことごとく診察した名医です。
『医学天正記』には中風(脳血管障害)や人事不省の眩暈を見事に治した記録があります。
緊急時に必須の鉱物や動物生薬の使い方が上手だったようです。
ところがその後に仕えた豊臣秀次が秀吉に切腹を命ぜられ(大河ドラマ「江」で最近この
シーンがありました)、玄朔も水戸へ追放されました。
しかし江戸幕府が開かれた後は健康オタク・徳川家康が玄朔を捨て置くはずはなく、重用され再び名声を取り戻しました。
以降は幕府と朝廷の医療を担当し、寛永八年(1631)に83歳の長寿を
全うしました。
その弟子の一人、岡本玄冶(1587-1645)の墓は同じ敷地内の小高い丘の上にありますが、猛暑のためたどり着けませんでした。。。
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