続いて向かった大江医家資料館。
「和蘭全躯内外分合図」飛び出す絵本のようで面白い!
疱瘡よけの「赤絵」
有名な「医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す 」というこの言葉は、
初代中津医学校校長・大江雲澤の医訓でした。
医訓は四則あります。
第一則:醫不仁之術欲務為仁
(醫は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す )
第二則:実中察虚虚中察実醫猶兵也
(実中に虚を察し、虚中に実を察す。医はなお兵の如し)
第三則:對病勿図利好名為怪 非為己資実助造化之不及
(病に対して利を図り、名を好み、怪しきをすることなかれ。
己を資すに非ずして、天地の造化を助けに及ばず)
第四則:知冠操戈奮武不知撫安之 知火以水嚮之不知以火制火焔
本治標治因治現非忘 筌取魚之士難共言道矣
(冠には矛をとり武を奪うを知るも、これを撫安するを知らず。
火には水をもってこれに向かうを知るも、火をもって火を制することを知らず。
根本を治めて末節を処理し、病因を治めることを忘れず症状に対す。
網でなく、魚を取れる人でないと道を共にするは難し)
第一則は
“医療は無条件に善なのではなく、悪にもなる。だからこそ医師は常に謙虚に患者のために尽くすべきである”
雲沢は「(ばいそう)経験方叙」の中で、書物や経験のみに頼り過ぎる医療の怖さを指摘し、自分の犯した医療事故についても記載し、自らの頭でよく考え、先人の教えを謙虚に学ぶことの重要性を述べています。雲澤は華岡青洲の医塾『合水堂』に入門し、青洲の弟である良平に学びました。1871(明治4)年には中津医学校の校長に就任し、外科医としてのみならず、教育者としても優れた業績を残した医師として知られています。大江雲沢の家からは華岡青洲の画像や多数の華岡流外科手術図が発見されており、当時の中津藩から華岡塾の大坂分塾に5人の医師が派遣されて学んでいたことが判明しています。解体新書や重訂解体新書なども発見されており、前野良沢を生んだ流れが幕末までも続いていたようです。
川嶌先生はこの本の中で「これは現在の医療のリスクマネジメント(危機管理体制)を表している言葉である」と語っています。
九州の蘭学―越境と交流 | |
クリエーター情報なし | |
思文閣出版 |
中津は多くの留学生を長崎に出し、その結果として前野良沢や福沢諭吉ら多くの蘭学者を輩出して日本の近代化に大きく貢献しました。
そこには5代目藩主・奥平昌高の元、中津藩が藩を挙げて蘭学に取り組んだという背景があります。
奥平昌高はシーボルトとも親交し、自らもオランダ語を学び、日本で最初の和蘭辞書「蘭語訳撰」(1810年)、3番目の蘭和辞書「中津バスタード辞書」(1822年)を出版しています。
帰ってきてから気合いの入ったホームページを発見
大江医家資料館
(管理者は大江雲澤の曾孫の大江満さんという方です)
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